密室大犯罪
秋ばれの好天気。氷川の勝海舟邸の門をくぐったのは、うかない顔の泉山虎之介であった。よほど浮かない事情があるらしい。
玄関へたどりつくと、ここまで来たのが精いっぱい、というように、玄関脇に置いてある
彼は思いきって立ち上った。出発寸前の特攻隊の顔である。自分の思考力に見切りをつけるということが、この大男には死ぬ苦しみというのかも知れない。
女中に
「早朝より
声涙ともに下るという悲痛の様で、あやまっている。いつもながらの
「借金の依頼、身の振り方の相談、オレのところへは相談ごとにくる人間が絶えたことがない。人殺しの
「ハ。凡骨の思慮のとどかぬ奇ッ怪事が、まま起るものでござります。内側よりカケガネをかけ密封せられたる土蔵の中で、殺された男がございます。犯人は外へのがれる
「今朝の新聞で見たが、
「ハ。まさしく左様で。本朝未聞の大犯罪にござります」
人形町の「川木」という小間物屋で、主人の藤兵衛が土蔵の二階の部屋で殺されていたが、発見されたときは部屋の戸に内側のカケガネがかかっていたという。そのころの新聞記事というものは、三面記事の報道に正確を期するような考えはない。面白おかしく尾ヒレをつけ興にまかせて書きあげた文章であるから「上等
「藤兵衛は土蔵にくらしていたのかえ」
「土蔵の二階半分を仕切りまして、居間にいたしておりました。一代で産をきずき、土蔵もちになったのを何よりに思っておりましたそうで、常住土蔵に
「妻子も土蔵の中にいるかえ」
「いいえ、藤兵衛一人でございます。至って殺風景な部屋で、なんの飾りもなく、年々の大福帳と、大倉式の古風な金庫が一つあるだけでございます」
「ハバカリは、どうしていたえ?」
「さ。それは聞いておりません」
「そんなことも一度はしらべておくものさ。罪の根は深いものだ。日常のくらし、癖、それをようく知ってみると、謎の骨子がハッキリとしやすいものさ。それでは、お前が見てきたことを、語ってごらんな。後先をとりちがえずに、落付いて、やるがいいぜ」
「ハ。ありがたき幸せにござります」
虎之介は思わずニッコリと勇み立って、
*
藤兵衛は
人形町の今の場所に
近所の横山町には小間物店の老舗がそろっている。シッカと年来の顧客をにぎって、微動もしない屋台骨を誇っている。新規開店の川木では、そうおさまってはいられない。彼自身も足を棒にして顧客を開拓したが、今後もそれを怠るわけにいかない。
小間物屋の顧客は主として花柳界、つづいてお
そこで藤兵衛は考えて、お得意まわりに一人前の番頭をやるからいけない。これは小僧をやるに限る、こう結論して、利発で、
そこで藤兵衛の店では、番頭の修作が二十三、大そう若い年だが、これが
以上の二人をのぞくと、あとは十八の金次、十七の正平、十五の彦太郎、十三の千吉、十二の文三、みんな子供だ。金次と正平はすでに顧客まわりのベテランで、ちかごろは彦太郎もやりだした。千吉と文三はまだ見習いである。いずれも藤兵衛の好みにかなう要素をそなえた美少年であるが、金次ぐらいになると、そろそろ遊びも覚えてくる。商店の小僧は早熟であるから、藤兵衛の流儀で行くと、金次はそろそろ顧客まわりに不適になっているのである。
これが藤兵衛新案の人形町川木の性格であった。
藤兵衛には子供が一人しかない。アヤという十八になる一人娘であるが、胸の病があるので、
そのほかに、お民、おしの、という大そう不別嬪の女中が下働きをしている。以上が川木の全家族であった。
土蔵の中の藤兵衛は、毎朝七時に熱いお茶をのむ習慣があって、おしのがヤカンの熱湯と梅干を土蔵の中へとどけることになっていた。
この日も、いつものようにヤカンを持って土蔵の二階へ上ってみると、昨夜十二時に部屋の外へおいてきた夜食が、そのままになっているのである。藤兵衛は食事は離れへでてきてお槇と食べるのであるが、夜食だけは、土蔵の中で、毎晩十二時にお握りを食べる。昨夜もおしのがお握りを持って行くと、部屋の板戸にカギがかかっているらしく、あかないのである。めったにそんなことはないけれども、もうお
藤兵衛は、夜はおそいが、朝は早い、六時半ごろ起きて、チャンと手洗をすましている。ヒルネをする習慣があるから、これで睡眠は充分なのである。朝の七時にヤカンを持って行くと、必ず起きている藤兵衛が、前夜からズッと眠り通して起きてこない。戸には内側からカギがかかっているし、呼んでも返事がないから、おしのも怪しんだ。
離れのお槇を起してみようかと思ったが、お槇は昨夜泥酔してねむったことを知っているので、藤兵衛の甥の芳男のところへ行った。ところが、芳男の部屋にはフトンがしいてあって、ねたあとがあり、何か荷造りをしかけたものが、置き残してあるが、部屋の主はモヌケのカラで外泊の様子。仕方がないから、番頭の修作を叩き起して、この旨をつげた。そこで修作がネボケ眼をこすりながら、土蔵へ行ってみると、注進の通りで、戸を叩いても、呼んでも返事がない。フシギであるから、お槇をよび起して、戸を押し破ってはいってみると、藤兵衛は脇差で胸板を刺しぬかれて死んでいたのである。
戸は内側からカギがかかっていた。その密室で人が殺されているから、この謎は難物である。そこで新十郎をよびむかえることになった。
新十郎は例によって花迺屋因果と泉山虎之介の三人づれ。古田鹿蔵巡査の案内で、人形町へやってきた。
藤兵衛の傷は背後から背中を一刺しにしたものだ。ちょうど肝臓のあたりを刺しぬいて、切先が三、四寸も突きぬけている。死体は脇差を刺しこまれたまま、こときれていた。脇差は藤兵衛の座右の品。この川木屋で刀といえばたッたこれが一本しか存在しない。藤兵衛は自分の刀で何物かに背後から刺し殺されたものだ。血の海であった。金庫はそのままで物を
「十二時には、もう殺されていたのだなア。すると、宵の口に、やられたのだろう。客が来て、話をしている。ちょッと立った隙に、客が有り合せた脇差をつかんで背後から刺したのだろう」
虎之介がこう
「そんなこたアどうでもいいのさ。カケガネが内側からかかっていたのがフシギじゃないか。そこが心眼の使いどころだよ」
虎之介は花迺屋を
新十郎は家族によって押し倒された板戸を立てかけて入念に調べていた。押し倒されたハズミにカケガネは外れている。カケガネの
新十郎は二、三尺離れたところから、五寸
新十郎は板戸の鐶とその付け根をしらべていたが、そこにも傷んだ跡はなかった。
「板戸を押し倒した時に、カケガネは簡単に外れたんですね。五寸釘も傷んでいないし、カケガネも傷んでいませんよ」
「するてえと、カケガネはかかっていなかったんじゃないかなア。何かの都合で戸の開きグアイが悪いのを、早合点して、カケガネがかかっているものと思いこんだんじゃないかねえ」
これをきいて喜んだのは虎之介。プッとふきだして、
「何かの都合ッて、なんの都合で戸が開かなかったんだい。その都合をピタリと当ててもらいたいね」
「なにかの都合がよくあるものさ」
「ハッハッハッ」
虎之介はバカ声をたてて笑っている。
新十郎は、まず、最初に疑問をいだいたという女中のおしのをよんだ。二十一、二の近在の娘で、ここへきて五年になる。お江戸日本橋の五年の生活で、すっかり都会になれている。
「お前はヒキ戸をひいてみて、カケガネがかかっていると分ったのだネ」
「ハイ。そうです」
「どうしてカケガネがかかっていると分ったのだネ」
「戸のアチラ側ですから別にカケガネがかかっているのを見たわけじゃアありませんが、この戸はカケガネをかけると開きません。ほかに開かない仕掛けはありませんからネ」
「カケガネのことだから、かかっていても、細目にあくだろう。そこからのぞいたら、カケガネは見えそうなものだ」
「そんなことをしなくッとも、戸があかなければカケガネがかかっているにきまっています」
「お前が主人を最後に見たのはいつごろのことだね」
「ゆうべは
「加助とは、どんな人だ」
「今年の春まで、ここの番頭をつとめた人でございます。五月ごろヒマをもらッて、そのときは、旦那に叱られて、追んだされた
「なんで叱られたのだね」
「オカミサンに懸想したとか、酔ってイタズラしたとか、そんな噂でございます。それは無実の罪でございますよ。これだけの大家の番頭を十何年もつとめあげて、追んだされてから大そう貧乏して、細々と行商をやっているそうですが、そんな実直な白鼠が、この日本橋にほかに誰がいるものですか。みんなよろしくやって、お金をためこみ、女を
「今の番頭の修作はどうだえ」
「そんなこたア知りません」
ほめないところを見ると、否定の意味になるのであろう。
「加助が来たのは何時ごろだえ」
「ちょうど九時すぎごろでございます。三、四十分ぐらいして帰りましたが、帰りぎわに、旦那からのお言付けだが、オカミサンと芳男さんを呼んでいらッしゃるから、お二人にそう申上げて、土蔵へ行かせてあげて下さい、との話でした。それで、オカミサンと芳男さんに申上げて、お二人は土蔵へいらッしゃったと思いますよ」
「お前が案内したわけじゃアないね」
「当り前ですよ。オカミサンじゃありませんか。私ゃ、オカミサンと芳男さんが土蔵へはいるのは見ませんが、出てきてからのことなら、知ってますよ。オカミサンは台所へきて、一升
「そのほかに、変ったことはなかったかネ」
「変ったことと言えば、この四、五日、旦那は土蔵からお出になりません。いつもは離れでオカミサンと食事をなさるのですが、この四、五日は食事を土蔵へとりよせて一人で召しあがっていました。オトトイのことですが、私が夕御飯を土蔵へ持ってあがりますと、番頭さんがよびつけられて叱られていました。きいたのはホンの一言二言ですが、お前のような番頭では、この店がつぶれてしまうぞと、きついお言葉でしたよ」
最初におしのを
番頭の修作が若すぎると思ったのも道理、加助という十年来の番頭が、クビになったばかりなのである。ここに
そこへ鹿蔵巡査がやってきて、
「刑事が見つけたのだそうですが、お槇の部屋のクズ入れから、こんなものが出てきたそうです」
四ツに切りさいた半紙であった。合せて読んでみると、
しかし、新十郎は、お槇の訊問を後まわしにして、
「古田さん。番頭の修作をつれてきて下さいませんか。それから、ヒマをもらった加助という前の番頭を、ここへ呼んでおいて下さい」
と鹿蔵にたのんだ。まず外部をかためて、最後に中心をつこうという訊問の正攻法であろう。
*
利発で愛想のよい美童に限って使用するという川木の流儀の通り、修作は、見るからにアカぬけた好男子、ニコニコといかにも人をそらさない明るい
新十郎は彼をむかえ入れて、
「おまえが旦那を見かけなすった最後の時はいつごろだえ」
「私は昨晩は八時にヒマをもらいまして、遊びにでておりまして、旦那にはお会いしておりません。御承知でもございましょうが、昨日は五日、
水天宮の縁日といえば、
この縁日の日は、朝の未明から深夜に至るまで、混雑きりもない。東京の人々はいうまでもなく、近郷近在十数里からワラジをはいてこの
人形町の商店がこの日に限って夜中まで営業するのは当然のことである。しかし、又、この賑いを目の前にして、全然遊びに出されないのも切ないから、半々にわけて、夜の八時から休みをもらうというのは大そう親切なやり方である。こんなところを見ると、藤兵衛は思いやりのある主人であるらしい。
「おまえは一晩縁日の賑いをたのしんでいたわけだね」
「いいえ。私はもう水天宮の縁日は十年もの
茶リネの西洋曲馬というのは伊太利人チャリネのひきゆる二十数名の外人一座、八月に来朝し、秋葉原に興行して東京中をわかせるような大評判をとっているのである。
愛想のよい修作はニコニコとおシャベリをつづける。
「私は今月の金本には初日から通いつめております。名人ぞろいのこととて、一々面白うございますが、特に円朝の西洋人情噺、これを一日でも聞きもらしてはたまりません。あいにくラクの十五日が、私の居残りの番の縁日の当日ですが、円朝は真打ですから、三十分も早めに店をきりあげると、間に合うだろうなぞと考えて、おりました」
「金本のハネるのは何時だね」
「だいたい十二時ごろでございます。私はそれから忠寿司で一パイやって、帰り支度の縁日をひやかして、帰ってきたのが二時ごろでございます」
「正平と文三も一しょかえ」
「いいえ。子供は寄席よりも縁日が面白うございますよ。私が一円ずつ小遣いをやりましたが、店からいただいた小遣いに合せて、求友亭で一円五十銭の西洋料理というものをフンパツしたらしゅうございますが、今朝はうかない顔をしているようですよ」
「八時に遊びに出たんじゃア昨夜のことは何も知らないわけだが、二時に帰ってきて、変ったことはなかったかえ」
「ちょッと酒をのみましたので、今朝起されるまで何も知らずに寝こんでしまいました」
「四日の晩の夕飯のころに、主人によばれて土蔵へ行ったそうだが、どんな用があってのことだネ」
「左様です。ちょッと申上げにくいことですが、
「オカミサンと芳男の仲は、どんな風だえ」
「手前どもには分りかねます。どうぞ、当人にきいて下さいまし」
「昨夜二時に戻ったとき、芳男の姿はもう見えなかったかネ」
「私は小僧どもに近い方、芳男さんは離れに近い方で、ちょッと離れていますから、なんの物音もききませんでした」
三行り半がでてきたところをみると、お槇と芳男の関係は実際あることのようである。人の情事の取調べにかけては、さすがに田舎通人、ぬけ目がない。おしの、お民の女連、彦太郎、千吉、文三という小ッちゃい子供連、これをよびあつめて
花迺屋は女子供から調べあげてきて、ニヤリニヤリと鼻ヒゲの先をつまんでひねりながら、
「おさかんなものだね。皆々よろしくやっていますよ。芳男はお槇のほかによし町の小仙という
大そうネタを仕込んでくるから、虎之介はむくれて、
「いい加減な説を真にうけちゃア、立派な推理はできないぜ」
「そこが剣術使いのあさましさ。私はね、これを千吉、文三、彦太郎という当家の
大そう重大なことである。そうなると、藤兵衛が非業の最期をとげる直前に加助をよびよせていることが、非常に重大な意味をもつ。藤兵衛が加助を追いだしたことを後悔して、彼をよびよせて何事か密談したということは、お槇、芳男、修作の三名にとって、容易ならぬ危機である。
しかし、おしのをよんで、たしかめてみると、縁日のこととて店は多忙をきわめているから、店をはなれてブラブラしているヒマはなく、裏口から来た加助を見た者はいないはず。奥の土蔵も店からは離れて別の
「マ、よかろう。加助がきてみれば、彼が誰に姿を見られたか、分るわけだ。加助がくるまでにお槇をよんでみましょうか」
いよいよ謎の中心にメスがむけられることになった。お槇は二十八、柳橋で左ヅマをとっていたのを藤兵衛にひかされて
いろッぽく、ニッコリと新十郎に会釈した。
「ヤ、お内儀か。御苦労さん。今回は大変なことで、御心中お察しします。昨夜、加助がきて、旦那と話して帰ったあとで、お前と芳男が土蔵へ呼ばれたそうだね」
「オヤ。加助が昨夜きたのですか。それじゃア、加助が旦那を殺したに相違ありません」
お槇はギョッとおどろいて、叫んだ。
「なぜ加助が旦那を殺したとお考えだえ」
「それは加助にきまっております。加助のほかに旦那を恨んでいる者はいないからですよ。あれは陰険で悪がしこい男狐でございます」
「それではあとで加助をとりしらべることにしよう。お前と芳男が旦那によばれて土蔵へ行ったのはいつごろだったね」
「十時前ごろでしょう。よく覚えてはいませんが、たいがい九時半か十時ごろのつもりです。ちょうどよい時刻だから寄席へ行って円朝でもきいてこようかと思っている矢さきでしたから」
「毎日、寄席へ行くのかえ」
「いいえ、昨晩はじめて思いついたことです。私は寄席はあんまり好きじゃありません」
「旦那からどんな話がありましたね」
「それは、芳男さんの相続の話でございます。一人娘のアヤさんが胸の病で、
「それは結構な話だったね、それから、どんな話があったかえ」
「いえ、それだけでございます」
「それにしては、奇妙なことがあるものだ。この
お槇は顔色を変えて、
「そんなものを、いったい、どこから探しだしたのですか」
「お前の部屋のクズ入れの中からさ」
お槇は涙を指でおさえて、泣いた。
「私はあわれな女でございます。ずいぶん旦那にはつくしたつもりですし、旦那も私を信じて可愛がって下さいました。ですが、花柳地で育った女というものは、とかく堅気のウチでは毛ぎらいされるものと見えます。あらぬ噂をたてて人をおとしいれようとなさる方もあれば、どなたかは存じませんが、こんなひどい物を私の部屋へすてておいて、さもさも私が旦那から離縁された宿なし女のように計って見せる人もあります。こんなにされては立つ瀬がありませんが、いったい、誰がこんなヒドイことをするんでしょうねえ」
「当家にそんなことのできそうな大人は、芳男と修作の二人だけだね」
「いいえ、当家の人とは限りません。外から忍んでくることもできますし、人を使って、させることもできます」
「しかし、お前は土蔵から出てくると、台所へでかけて、一升
「それは私はお酒のみですから、寝酒に冷酒をひッかけるようなことも致します。別に
ああ言えばこう言うという口では千軍万馬の
*
まもなく鹿蔵が、加助を彼の自宅から、引ったててきた。
加助は三十二、三、これもちょッとした男ッぷりではあるが、いかにも実直そうな人物で、あんまり利発で愛想がよいという男ではなさそうだ。
新十郎は加助をよびよせて、
「お前が当家へきたのは、いつごろだね」
「ハイ。この店がはじめて開店の当日からでございます。十二の年に
明治元年、開店の当日からというから、藤兵衛と苦難を共にして今日を築いた白鼠というわけである。
「お前がゆうべここへ来たのは、どうしたわけだえ」
「昨日行商にでまして夜分ようやく家へ戻って参りますと、家内が旦那からの手紙を受けとっておりまして、これは町飛脚が持参いたしたものだそうでございますが、この手紙を見次第、夜分おそくとも構わないから裏口から訪ねてくるように、今日は五日の水天宮の縁日だから、どんなに遅くなっても待っているから、という文面でありました。まだ八時半ごろで、急げば九時ごろには当家へ到着いたしますので、さッそく突ッ走って参ったのでございます」
「それで、どんな御用件だったえ」
加助は嘆息して、
「実は道々旦那が非業の最期をとげられたという話を承りまして、旦那の御不運、又、私にとりまして一生の不運、まことにとりかえしのつかないことになったものだと嘆息いたすばかりでございます。かような折に、かようなことを申上げるのは、人様をおとし入れるようではばかりがありますが、旦那の御最期を思えば、胸にたたんでおくわけにも参りません。旦那の御用件と申しますのは、旦那は私の手をとられて、加助や、お前には気の毒な思いをかけたがカンニンしておくれ。メガネちがいであった。ついては、もう一度、当家へ戻って店のタバネをしてくれるように。悪い噂をきくものだから、この四、五日とじこもって帳面をしらべてみると、お前が出てからというもの、仕入れない品物を仕入れたように書いてあったり、色々と不正があるのを見やぶることができた。これは芳男と修作がグルになってしていることだ。すでに修作は昨日よんで、いろいろ問いつめてみたが奴も証拠があるから、噓は言えない。一度は許そうと思ったが、あの若さであれだけの不正を働くようでは、とてもまッとうな番頭に返れるものではない。そこで、芳男も修作もおン出そうと思うから、明日の正午に店へ来てくれるように。朝のうちに追ンだす者を追ンだして、お前を番頭にむかえるからというお話でした。それで、正午に当家へ参上のつもりで支度いたしておりますと、迎えの方が見えられたわけでございます」
「なるほど。旦那が死んでは、せっかくお前が帰参のかなうところをフイになってしまって、大そう困るわけだ。ほかに話はなかったかえ」
「ハイ。実は、オカミサンと芳男の仲が世間で噂になっているが、お前はどう思うか。お前のいたころから、気のついたことはなかったか、というお尋ねがありました」
「それは大そうな質問だね」
「ハイ。それで私も困却いたしまして、そのような噂のあることはきいたことがありましたが、自分の目で見て気のついた特別なことは一ツもございません、と申上げますと、旦那は
「自分の目でチャンと見届けていると」
「左様です。深夜に便所へ立ったついでに、ふとオカミサンの部屋の前へきてみると、障子が薄目にあいているものですから、ボンボリをかざしてごらんになったそうです。すると中がモヌケのカラですから、さてはとお思いになりましてな。ボンボリをけして、そッと二階へ忍んでみると、芳男さんの部屋の中からまごう方なく二人のムツゴトをきいてしまったと申されました。お前が帰ってから、二人をよんで、お槇には三行り半を、芳男にも
「まッすぐ家へ帰ったのだね」
「いいえ。実ははからずも帰参がかないまして、あまりのうれしさに、縁日のことでもありますし、水天宮さまへ参拝いたし、ちょッと一パイのんで、久しぶりの酒ですから、大そう
「酒をのんだ店は、どこだね」
「それが、貧乏ぐらしのことで、持ち合せが乏しいものですから、見世物の裏手の方にでている露店の一パイ屋でカン酒を傾けたのでございます。それで大そう悪酔いいたしたのかも知れません」
「当家を訪ねているあいだ、お前の姿を見た者は誰々だえ」
「おしのとお民の両名のほかには誰に会った覚えもございません」
加助の意外千万な陳述によって、はからずも重大な殺人動機が確認されたわけであるが、それを更に裏づけるものは、芳男の昨夜来の
新十郎は金次をよんで
新十郎は一通り訊問を終えて、もう一度、現場を見て廻った。
「このカケガネには、結局、
新十郎はそう
「どうも、誰かが忍びこんだ様子だねえ。オヤ、ここにも土が落ちている。土足であがってきたのかなア。それとも、フトコロへ下駄を入れてきたのかねえ。どうしても、庭から離れへあがって、土蔵へはいったものがいるよ。さて、庭をしらべてみよう」
新十郎はこういって庭へおりたが、いろいろの跡があって、特に下駄や足跡を識別することはできない。土蔵の裏へまわると、曲りくねった細い路地で、表通りは縁日の
しかし、女中をよんで、
「戸締りは、何時にかけたかえ」
ときいてみると、
「水天宮の縁日の晩は夜ッぴて外がにぎわっていますし、店の人も夜遊びをゆるされておそくまで遊んでいますので、夜通し裏口には錠を下しません」
という返事。これでは
捜査を終って、いったん引きあげようというところへ、大そう景気のよい叫び声。
「犯人をひッとらえて来ました」
刑事巡査がどやどやとなだれこんだ。彼らは、芳男を高手小手にいましめて、自分らのまんなかにはさんで、引ッたててきた。
芳男は品川駅で汽車を待っているところを捕えられたのだという。
「どうして犯人と分りましたか」
こう新十郎が刑事にきくと、
「捕えて引ッたててきたばかりでまだ取調べは致しておりませんが、ごらんなさい。この男の着物の
なるほど、指摘されたところにハッキリ血がついている。
「なるほど分りました。だが、皆さんが、そうガヤガヤつめて
そこで、二名の重立った人をのこして、一同は退席する。新十郎は芳男を側ちかく
「いいかえ。お前の昨夜したことを若干私からきかせてあげよう。お前とお槇は藤兵衛に土蔵へよびつけられて、二人の不義の事実をきめつけられたね。お槇がイエそんなことは噓でございます。私をおとし入れようとする誰かが言いふらしたことでございます、と申したてたが、藤兵衛はその言葉には相手にならない。お前たちが一しょにねて、これこれのことをしたり語ったりしているのをきいているぞ、ときめつけられて、お槇はともかくお前は一言もなかったはずだ。特に藤兵衛はお前に向っては、アヤが病身のことであるから、ゆくゆくお前を後とりにしようと思っていたほどだが、とんだ不心得な奴、身からでた
芳男は観念していた。わるびれずに、うなずいて、
「ハイ、その通りです」
「二人は絶縁を申し渡されて土蔵をでたが、お前はそれから、どうしたえ」
「私は自分の部屋へ立ち帰って、今後どうしたものかと思っておりますと、オカミサンが、いえお槇と申上げることに致しますが、下でさわいでる声がしますので、行ってみると、酔っぱらって土蔵の中へはいっています。追っかけて行ってみると、戸の前でののしり騒いでおります。みると、戸にカケガネがおりているとみえて、あかないのでございます。私はお槇をなだめて、部屋へひきとらせますと、ぶうぶう不平をならべたてながら、寝こんだようでございます。私は再び自分の部屋へもどりまして、どうしたものかとフトンをひッかぶって物思いに沈んでおりました。いくら考えても
「そりゃアそうさ。真夜中にカケガネのかかっているのを外して勘当の詫びをのべに行く奴はいないよ。お前は藤兵衛を殺すつもりだったろう」
「とんでもない!」
芳男ははじかれたように否定して、
「そうとられても仕方がありませんが、私はもう胸がいっぱいで、無我夢中になって何も分りませんでした。勘当をゆるして下さいとたのむには、お槇と一しょではグアイがわるうございます。女はそうなると意地がわるうございますから、勘当が許されないように、差出口をするに相違ありません。そこで、お槇のねているうちに勘当をゆるしてもらって、お槇がオンでてしまうまで素知らぬフリをして身を隠していようなどと、そんなことが気がかりでしたから、ただもう一刻も早く叔父にあやまりたい一心で夢中だったのでございます。カケガネを爪楊枝で外したのはたしかに非常識ですが、そんなことには気がつかなかったぐらい夢心地で早く叔父にあやまりたい一心でした。決して私が下手人ではありません。私の申上げたことは、そっくり掛け値なしの真実でございます」
「それでは、もう一つきくが、お前は加助が藤兵衛によびよせられたことを知っているかえ」
「それは存じております。叔父が私どもに、私とお槇とにでございますが、こう申しきかせました、加助をよびむかえて働いてもらうことにきまったから、お前たちや修作をオンだしても商売にはなんの差し支えもない。お前たちは今夜のうちにどこへでも立ち去ってしまえ、そして修作はどうした、よんでこいと言いますから、今晩は休んで縁日へ参っておりますと答えますと、そんなら仕方がない、修作は明朝オンだすことにするが、お前たちは今夜のうちにさッさと荷造りして立ち去るがよい。
「お前は死体をみて土蔵をとびだしてから、どこをどうしていたのだえ」
「なんだか自分が犯人だと思われそうな気がして、居ても立ってもいられません。知ったところへ行くと追手がくるような気がしましたから、ナジミのない
「イヤ、御苦労であった。今晩は留置場でゆっくり休むがよい」
「いえ、私は犯人でございません」
芳男は狂気のように叫んだが、新十郎はとりあわなかった。彼は刑事にひッたてられて、所轄の警察へ
「やれやれ、事件は急転直下解決いたしましたなア」
と、虎之介がホッと息をつくと、新十郎はすまして、
「さア、どうですか。なかなか一筋縄ではいきません。奥には奥がありますよ」
「そんなバカな。動機と言い、
「ブッ、偉い! あなたは、甘くもなければ、バカでもないよ。ですが、あなた。ね、剣術の心眼と、探偵の心眼は、又、別のものだねえ。アレをごらん。アノ、土蔵の中の土。ね。これですよ。ここに心眼をじッとすえなくちゃア、この犯人はつかまりません」
「くだらないことを言うな。土ぐらい鼠が運んでくらア。この田舎通人のボンクラめ」
「あなたヤケを起しちゃいけませんねえ。探偵がヤケを起して、土ぐらい鼠がもってくる──鼠がもってくるかねえ。それはモグラの事でしょう。ですから、あなた、犯人はとてもつかまりません」
明朝十二時に新十郎の家で勢ぞろいすることにして、一同は別れ、めいめいが思い思いのところへ探偵にでかけた。
*
海舟は
「カヘーがさめるぜ。それがさめちゃア、まずいものだ」虎之介に
「誰が見ても犯人らしいのは芳男とお槇さ。藤兵衛を生かしておいちゃア、芳男は川木の相続をフイにしなくちゃアならないし、お槇は宿なしにならなくちゃアならない。殺してしまえば死人に口なし、思うような栄華ができようてえ寸法さ。深夜一時という時刻に、芳男が爪楊枝でカケガネを外して忍びこんだのは、新十郎が見ている通り、藤兵衛を殺そうてえ気持もあってのことだ。忍びこんでみると、藤兵衛はすでに何者かに殺されている。芳男はおどろいて逃げだしたというが、奴めは、お槇が殺したに相違ないと考えているだろうよ。お槇は悪い女だ。警察の調べがとどいて、お槇があげられる、心細いの一念、可愛い憎いで、芳男と一しょに
「新十郎が見ている通り、藤兵衛の隣室にこぼれていたという土が
海舟はナイフと砥石をしまいこんだ。
「加助はいったん主家を辞去すると、裏から塀をのりこえて、土蔵へ忍びこんだのさ。たぶんお槇と芳男の叱られている最中に忍びこんで隣室に隠れていたのだろうが、お槇と芳男が三行り半と勘当を言いわたされて立ち去るのを見すまして、藤兵衛を一突きに刺し殺したのさ。お槇が酔っ払って土蔵へあばれこんだとき、カケガネがおりていたのは、加助が中からかけたのだ。そのときは五寸
虎之介はホッと
*
正午の勢揃いまでには間があったが、虎之介は持てるものの心のゆたかさ、出家
今日は、彼の他にもう一人妙なヤジウマが早朝から詰めかけている。お梨江である。朝の新聞で紳士探偵出馬の記事を読んだから、私も探偵の心眼を働かして犯人を捕まえてあげましょうというので、馬にまたがって早朝から乗りこんでいる。新十郎の書斎へ詰めかけて、
「あなた、お馬にお乗りにならないの」
「乗りますけれども、馬を持っておりません」
「じゃア、人形町のような遠いところへ、どんなもので、いらッしゃるの?」
「歩いて参ります」
「アラ、大変。私、お馬を持ってきてあげるわ」
「ところが、連れがありますので、ぼくだけというわけに参りません」
「存じております。気どり屋の通人さんに、礼儀知らずの剣術使いでしょう」
「ほかに古田さんという巡査がおります」
「じゃア、四頭ね」
と言ったと思うと、馬にのって
当時は、大そう乗馬がはやっていた。婦人間にも流行して、
一同勢揃いしてイザ出発となるとむくれたのは虎之介。馬にのれない訳ではないが、自分だけ着物の着流しだからグアイが悪い。けれども胸に畳みこんだ大推理があるから、ここは我慢のしどころと一時をしのんでいる。
大そう生気のない老巡査を先頭に立てて、異様な五騎が通るから、驚いたのは町の人々。
「オイ、見ろよ。妙なのが通るぜ。曲馬団の町
人形町へ到着すると、すでに警察の一行は留置した芳男をひったてて川木へあつまり、新十郎を待っている。加助の顔も見える。
藤兵衛の死体は白木の
「一晩つらかったろう。お前が永年世話をうけた
こうきつくたしなめて、
「さて、お前にきくが、藤兵衛の死体のかたえから拾ったタバコ入れはどうした?」
「大川へすててしまいました」
「お前はいつもタバコ入れを腰にさしているのかえ」
「いつもということはありません。店に働いている時などは腰にさしておりません」
「あの晩は店にいるとき藤兵衛によばれて土蔵へ行ったのだろう」
「ア!」芳男は叫んだ。
「まったく、その通りでございます。私はもう一昨夜来、
「お前はタバコ入れを土蔵へ持ってあがろうと思ったって、持ってあがるわけにいかなかったのさ。その時タバコ入れはお前の部屋から消えていたよ。チャンと犯人のフトコロにおさめられていたよ。犯人はお前のタバコ入れをフトコロに、八時に当家をでた。いったん金本へいったが、前座がつまらないことを
立ち上って、そッと逃げだそうとした修作に、いち早くとびかかったのは花迺屋因果。至って推理の能に乏しいが、犯人にとびかかってひッ捕えるカンの早さは格別である。修作を取りおさえて、自分が推理を立てたように満足して鼻ヒゲをひねった。騒ぎのしずまるのを待って、新十郎は謎をといてきかせた。
「修作は四日の晩から藤兵衛を殺す手筈を立てておりました。なぜならば重なる悪事を見破られて信用を失った上に、折よく芳男とお槇の
すでに観念した修作はふてぶてしい顔をあげて新十郎を見つめて、
「お察しの通りさ。しかし、私はもっと昔から、事を
*
ナイフを逆手に後頭をチョイ、チョイときって血をとりながら、海舟は虎之介の報告をきき終った。
「フン。修作がそう言ったのかえ。藤兵衛に叱られたのが運のつきだったとねえ。たくみにたくんだあげく五日という日が大そう間の悪い日になったというのは、修作にはその恨みが深かろうよ。えてして、そんなものさ。だが、トントン拍子の時もある。人生は七ころび八起きのものだが、犯罪は見ッかると一ペンコッキリで後がないから、神仏とか因縁なぞを考えるのさ」
海舟は左手の指をチョイときって、悪血をとりはじめた。
「四日の晩に藤兵衛に叱られて殺意を起したという新十郎の見方に狂いのある筈はないのだが、修作の言い分によると、主殺しの筋は先月立てたことで、四日の晩に叱られたのがむしろ運のつきだ、というのさ。修作の言葉は真の事実ではあるが、
虎之介は海舟の読みのひろさに益々敬服の念をかため、その心眼の鋭さに舌をまいて、謹聴しているのである。
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