舞踏会殺人事件



 かわの海舟屋敷の黒板塀をくぐったのは神楽かぐらざかの剣術使い泉山虎之介。この男、時はもう明治十八、九年という開化の時世であるが、酔っぱらうと、泉山虎之介タチバナの時安と見得を切って女中のホッペタをなめたがる悪癖がある。

 虎之介は幼少のころ、海舟について剣術を習ったことがある。そのころの勝海舟はいたって貧乏、まだ幕府には重用されず、剣術やらんがくなどをメシの種にしていた。習うこと二、三年、海舟が官について多忙になったので、山岡鉄舟にあずけられた。そのとき虎之介は今なら小学校四、五年生ぐらいの子供、それからズッと山岡について剣術を学び、今は神楽坂で道場をひらいているが、あんまりはやらない。

 虎之介は勝海舟邸の玄関で、とうのイスに腰を下して、頭をおさえて考えこんだ。これがこの男の変った癖で、心配事があって海舟屋敷を訪れる時には、玄関の籐イスに腰かけて、頭をかかえて今更のように考えこむ。そのせいで、籐イスは脚が外れそうになってグラグラしている。彼の図体が大きいからだ。

 四、五分もそうしてから、虎之介は思いきって立ち上った。そこでおとないを通じる。女中がひッこんで、代って海舟付きのお側女中小糸が現れて、どうぞこちらへと案内に立つ。まず十二畳と六畳の客間があって、ここにはイス、テーブルがおいてある。旗本屋敷のころは、ここが正式の座敷だ。床に河村清雄の竜の油絵がかかっている。この客間の次の小間が「海舟書屋」で元の書斎。南洲や甲東としばしば密話清話した歴史的な小部屋だ。これらを右に見て長廊下を五間ほど行くと、六畳と八畳の部屋が今の書斎である。三畳の茶室と土蔵がついている。

 今日は幸い相客がなかった。海舟の身にこもる気品が発しているが、当人アグラをかいて、口はベランメーである。

「虎かい。どうだ。ちかごろ剣術使いは忙しいかエ」

「父母七名、どうやら飢えをしのいでおります」

「神楽坂に酔っぱらいのつじぎりがでるそうな。オメエに似ているという話だ」

「メッソウもない」

「婦人の首ッ玉にかじりついて頰ッペタをなめるものだから、神楽坂は夜の八時から婦人の通行がないそうな。どうせなめて下さるなら隣の新十郎様にしてもらいたいと神楽坂の娘や新造が願をかけているそうだ。虎が首ッ玉にかじりつくのはコンニャクえんが似合いだろうとあんのオギンが大きに腹を立てていたぜ」

「汗顔の至りで、多少身に覚えがありますが、話ほどではないようで。実は、そのゆう新十郎どののことで御前の御智略を拝借にあがりましたが」

「なにか事件があったかい」

「まことに天下の大事件で、新聞は記事差止め。密偵津々浦々にとび、政府は目下御前会議をひらいております」

 いつもながら虎之介の話は大きいが、御前会議は例外だ。海舟はフシギがって、

「どこかで戦争がはじまったかエ?」

「実は昨夜八時ごろ政商加納五兵衛が仮装舞踏会の席上何者かに殺害されました。当夜の会には閣僚はじめ各国の大公使、それに対馬典六、神田正彦も出席いたしておりました」

 さすがの海舟も、神色自若たるものではあるが、口をつぐんで、ちょッと考えこんだ。天下だいの頭脳、利剣のえ、飛ぶ矢の早読み、顕微鏡的心眼であるが、事はまことに重大だ。

 秘中の秘であるが、時の政府が国運をけて計画した難事業があった。当時の日本には、工業らしい工業がなかった。たった年産千トンの鉄工場すらもないのである。十何年も前から汽車が走りだしたが、その機関車もいまだに海外から輸入している。文明の利器というものは、国内では全く造ることができない。文明国の仲間入りをするには工業を興さなければならないし、それにはず大製鉄所が必要だ。ところが、資本がない。日本の大ブルジョアは貿易とか海運とか、手ッとり早くサヤのとれる事業には憂き身をやつすが、大資本を投下して設備をほどこし、技術の精華をあつめた上で長年月の研究を重ねなければならないような大工業には見向きもしないのである。

 時の政府はこれを憂えて、文明国の仲間入りの手始めとして、まず大製鉄所をつくろうと決意した。資本がないから、X国から五百万ポンド借りたいと考えている。五百万ポンドといえば五千万ドル。今の相場なら三千億円ぐらいに当るという大金なのである。

 ところが日本が大工業をおこすのを喜ばない国がある。Z国などがその代表だ。後日自分の市場を荒される怖れがあるからである。

 そこで総理大臣(十八年十二月までは太政大臣と言った。その前後がちょうどこの捕物の時期に当っているので、官名を史実通りにハッキリかくと秘中の実が知れてしまう。そこで太政大臣をひッくるめて、前後一様に総理大臣とよぶことにする。他にも、その一事によって秘中の史実が知れるという決定的な場合には実の名詞を使わず、今様の名詞を使いますから御承知下さい)は考えた。大製鉄所を国家の事業としてやると、国際的にうるさい。半官半民でも、おもしろくない。民間人にやらせる一手であるが、幸い志をおなじゆうする者に大政商加納五兵衛という者がいた。そこでこの男の個人事業としてやらせることになった。

 とはいえ、これは表向きで、五百万ポンドの借金にしても、実際は政府がタンポもだし、借金の後始末万端責任をもつというハッキリした国家事業だ。X国はZ国とは勢力対立し、目の敵の間柄であるから、日本が工業をおこしてZ国の東洋市場をいくらかでも荒すというなら不賛成ではない。そこで日本とX国が密々に交渉をはじめた。

 けれども、五百万ポンドといえば、まことにばくだいな金額であるし、目の敵のZ国とはいえ、国際間のことは微妙で、いくらの得にもならないことで他国の怒りをまねくようなバカはしたくない。X国は慎重そのもので、五百万ポンド、はい、貸しましょう、とはなかなか言ってくれない。

 こうして半年ちかくもらちがあかないうちに、Z国がこの秘密交渉を見破ってしまった。裏の裏まで見ぬいた。

 そこでZ国が裏をかいて、仕返しに何をしたかというと、彼は日本に忠告したり、X国に抗議するようなことはしない。日本はX国から紙・石油・綿糸(これが先の総理大臣の呼称と同じことで、実を書くと秘密が知れるから、品目の名はデタラメ)を買って、これがX国の莫大なモウケをなしている。そこでZはXへの仕返しに、他国から日本に安価な原料を世話した上、製紙、製油、製綿糸の大工場を起させようとたくらんだ。

 Z国がこの秘密の相談をもちかけたのは、総理大臣上泉善鬼の政敵で、次期政権の必然的候補者といわれている対馬典六であった。典六は善鬼の藩と対立する雄藩の代表的人物でもあった。そこでZ国の大使フランケン(この名もデタラメ。発音によって国名が知れるから、いい加減なのを選んだ)はひそかに典六をよんで、お前に五百万ポンド貸してやるから、大々的に製紙、製油、製綿糸事業をやれ、原料も製品の海外市場も世話してやる。けれども、政治家のお前がやるのは国際的に不埒な点があるから、表向きは実業家神田正彦の個人事業としてやらせろ。タンポはこれこれだが、これはお前が総理大臣になったとき、公式にしやつかん契約したような書式にしようじゃないか、ともちかけた。

 典六は大いによろこんだ。こッちから頼みたい話を先方から持ってきてくれたのだから、喜ぶのは当り前である。さッそく神田正彦をよんで話をつたえる。神田は加納五兵衛と対立して天下を二分する大政商、加納が上泉善鬼と結ぶに対し、対馬典六と結んでいる。この相談をうけて、一も二もない。神田は典六以上によろこんだ。

 こうして、両々対立するに至ったから、いずれからともなく秘密がもれて、政界裏面の秘事は消息通の耳にもきこえるようになり、かねて海舟もきき及んでいた。

 さてX・Z両国が対立するに至ったから、売られたけんは買うのが人情、X国がアッサリ政府の申出に応じて五百万ポンドかしてくれたかというと、そうではない。なかなかウンと言わない。この理由はいろいろととりされて、世間では、X国大使チャメロスが加納五兵衛の娘お梨江(当時十八)に執心で、総理上泉善鬼にその意をほのめかしたから、善鬼と五兵衛が汗水たらしてお梨江を口説き、ついに平身低頭して頼んだけれども、お梨江は、

「オトトイおいで」

 と、学習院の卒業生にあるまじき言葉を用いて、てんで問題にならなかったという。

 実際はXの内政がヒヘイしていて、Zの攻勢に応じられない弱身があったというのが事実のようだ。しかし、当時の人々はお梨江のせいにして、これが評判であった。

 そのときの秘話として、次のようなことを世間では伝えている。娘ッ子を口説くにも、外交談判と同じように、時々、世間話などもして打ちとけたフリをしなければならないから、善鬼は懐中からろうマッチという秘蔵の品物をとりだしてみせて、これはチャメロス大使からもらった舶来のポスポル(マッチのこと)であるが、日本のポスポルとちがって、どこでこすッても火がつく西洋でもはなはだ珍奇なものだ、といって、一本をお梨江に与え、一本を自分の靴の底ですって点火してみせた。

「まア、珍しい品物。ちょッと、オジサマ」

 と、お梨江は目をかがやかせて、イスを立って進みでると、アッとおどろく善鬼のハゲ頭を片手でおさえて、力いっぱいマッチをこすった。お梨江の期待に反して火がつかないから、

「アラ、ウソつきね」

 と言って、お梨江はマッチを投げすててしまった。善鬼はカミナリ大臣とよばれて、かんしやくもちで有名であったが、ここぞカンニンのしどころ、蠟マッチに一文字をひいたハゲ頭に湯気もたたせず、ニコリニコリと笑ってみせたという。

 交渉は停滞しているとも伝えられ、九分九厘まとまったとも伝えられている矢先であった。加納五兵衛が殺害されたというのだ。しかも、自邸の舞踏会で。

 五兵衛自邸の舞踏会というから、あるいはこれも、例の主旨が眼目かも知れない。フランケンが典六と神田によびかけてから、五兵衛は目に見えて焦っていた。毎晩、娘の部屋をひそかに訪問して、ひざまずき、ているいし、合掌して懇願していると消息通の噂になっていたほどだ。

「だから、オレは、舞踏会が嫌いなのさ」

 と、海舟は謎が複雑で見当がつけかねる腹いせに、舞踏会の悪口を言った。

いわくある人物が一堂に会したのがフシギだな。一堂に会することにフシギはないのだが、五兵衛自邸の舞踏会てえのがくせものなのさ。はやまったことをいっちゃア、新十郎に笑われるかい。オメエの知ってるだけの事件の模様を話してごらんな。後先をとりちがえねえように、石頭に念を入れてやるがいいぜ」

「ハ。ありがたき幸せで」

 虎之介は変なところで礼を言ってひとひざのりだして意気ごんだ。海舟から智略をかりて、結城新十郎やはな因果に一泡ふかしてやろうという宿年のコンタンがあるからである。そこで石頭に念を入れ、大いに、前後に自戒して静々と語りはじめた。


    *


 この仮装舞踏会は、最初の計画では鹿ろくめいかんでやるはずであった。五兵衛は時代の風潮にならって立派な宴会室を新築し、すでに二、三度使用したこともあるが、閣僚や各国大公使を招いての大宴会には格が不足だと卑下していた。しかし、すすめる人もあって、自邸で行うことになったが、鹿鳴館には及ばないが、卑下するほどの安建築でないことは、五兵衛も内々まんざらではないと心得てもいたのであった。

 五兵衛の女房アツ子は大名華族の娘で二十七、後妻である。言うまでもなく、お梨江の実母ではない。実母はお梨江と兄のまんろうをのこして病死している。満太郎はケンブリッジ大学に学んで、今しも帰朝したばかりであった。今回の仮装舞踏会も表向きではないけれども、内々は満太郎の帰朝記念、一人前の日本紳士として彼を世におくりだすのが五兵衛の願いであり、よろこびであった。そういう家庭的な私事が、表向きではないとはいえ、実は眼目でもあるから、鹿鳴館は遠慮して、自邸を使用するのが穏当だろうと五兵衛も次第に考えたのである。

 お梨江はその朝アツ子の部屋へよばれた。アツ子は朝寝で、ひるすぎて目をさまし、みんなと一しょに食事したこともないし、亭主五兵衛の御出勤を見送ったこともない。

「あなたは、今夜の舞踏会で、どんな仮装なさいますか」

 お梨江はままははにこう問いつめられて、

「私、仮装なんか、しないわ」

「じゃア、マスクなさるのね」

「いいえ。マスクはきらい。舞踏会もきらいなのよ。だから、今夜はお友だちと乗馬のおけいにでかけますのよ」

 アラレもないことを言う。アツ子は大名の娘だから、威あって、たけく、たちまちお手打にするようにツンととんがって、鉛色の目玉にようがこもった。

「あなたの仮装はここに用意してございます。あなたはもくよくのヴィーナスに仮装あそばせ、泰西名画の画中人物です。満太郎さまが御帰朝の折テラコッタのつぼをお持ち帰りでしたから、モスソをたらし、壺を抱えて、たのしい沐浴の場所をさがして川辺を歩くかに、さも軽くお歩きあそばせ。そして」

 ここでアツ子はお梨江を刺殺するように見つめて、

「チャメロスさまがあなたのお手をおとりでしたら──チャメロスさまは回教徒のサルタンに仮装あそばしておいでです。チャメロスさまをみちびいて庭の静かな木陰の芝生へいらッしゃるのがよろしいわ。そして壺の中からウイスキーをとりだして、大使さまにおすすめあそばせ」

 スソのながいネマキをきたようなヴィーナスと、毛布を裸体にまきつけたようなサルタンと芝生で酒宴とは奇怪な話。ピンかなにか急所をチョイと外すと、今のストリップ式にどっちもハダカになるのはワケがないという段取りに見える。

 アツ子は善鬼や五兵衛の手先ではなかったはずだが、にわかに片棒かついだと思うと、大名の娘というものは威張りかえって勝手なことを命じるものだ。

「私はね。壺の中からコブラだすわよ。イー」

 お梨江は大名の娘をにらみつけて、ヒラリと体をかわして逃げだした。

 しかし、大名の娘ともなれば、先祖代々つたわッたる警備の魂、トノイをはべらし、番人をつけ、隠密をさしむける本能は後日に至ってもせたことがない。アツ子の腹心の女どもが要所要所にはりこんで、お梨江はとうとう脱出不可能と相なった。

 五兵衛はその日、早く戻って来客を接待すべきであるのに、いつまでも戻ってこない。来客が半数ちかくも来たころになって、人力車を急がせ、ころげこむように裏門から戻ってきて、

「イヤハヤ、幽霊に化かされた。アイツが生きているはずはないからな」

 汗をふきふき、謎のようなことをつぶやいたが、大急ぎに飯を三杯くって、箱根の雲助にふんそうして、舞踏会場へかけこんだ。雲助だから汗をかいてけつける、真にせまった名演技と言いたいが、当人はそれどころじゃない。

 というのは、来客にも失礼だが、相棒に大失礼というわけだ。すなわち、警視総監の速水星玄という大坊主が雲助の相棒で、山カゴをかたえにひかえて五兵衛の来場を今か今かと待っているのだ。この大坊主はノンダクレで、カンシャクもちで、礼儀知らずで、泥棒をふんじばるには持ってこいだが、国際的な社交場へつれてくると必ず国威を失墜するという念入りの男。そのくせ当人は社交場へでるのが好きで仕様がない。お前、社交場へでちゃイカンといわれるのが何よりつらくて、もんしそうな煩悶ぶりを見せるから、仕方なしに招くのである。

 五兵衛が駈けつけると、星玄は正式の戸口にいないで、給仕女が料理を運ぶ戸口の陰にカゴをおいて、通行する給仕女をよびとめては、しゆこうをまきあげて、よいキゲンになっている。五兵衛を見ると、

「ヨ。きた。きた。お前、先棒をかつげ。オレは後棒だ。野郎を乗っけちゃいけないぜ。美人、美人。ナ。野郎をのッけると、放りだすから、そう思え」

 大変な警視総監があったもの。

 ハラショウと、大坊主のカケ声もろとも、二人は山カゴをかついで、舞踏会場へ躍りこんだ。

 総理大臣善鬼はヨロイ、カブトに身をかため、軍配を片手に、ひどく落着いた扮装であるが、実はチャメロスの方を見てはハラハラ、いったいお梨江嬢は何をしているのだろう、いつ現れるのだろうと居ても立ってもいられぬぐらい気をもんでいる。

 チャメロスも内々イライラしているらしいが、それを見てとって、まるでからかうかのように彼の側から離れずさッきから話しかけているのは、神官に扮装した典六である。

 フランケンはと見ると、これはマスクをかけただけ。そして、同様マスクだけのアツ子とくんで踊っている。神田正彦も来ているはずだが、何者に扮装しているのか、彼の姿は見つけることができない。

 善鬼はたまりかねて、雲助の五兵衛をよびとめて、

「お梨江嬢はどうした。いまだに姿が見えんじゃないか」

「ハ? イヤ。すでに来ているはずですが、見こぼしておられるのではありませんか」

「バカな。オレは三十分も前から目を皿にして見ているのだぞ。ヤ。あんた、加減がわるいのか?」

 五兵衛の額に脂汗がういている。息づかいが荒い。しかし五兵衛はちょッと笑って、

「いえ、カゴをかついで走りすぎたせいです。お梨江のことは、さっそく、手配いたしましょう」

 彼はフランケンと踊っているアツ子のところへききに行ったが、戻ってきて、

「じき現れるそうです」

「そうか。それで安心した」

 善鬼もよろこんで自分の席へ戻った。

 お梨江が現れたのは、ちょうど、その時であった。彼女はアツ子の命じたように、沐浴のヴィーナスに扮装し、壺をかかえて現れた。にこやかに、落ちついて、あたりをまわしながら、チャメロスの方へ歩をはこぶ。チャメロスに三歩ぐらいに近づいたとき、ふと腕にさわるものがあるのに気がついて、壺をかかえた左腕を見やった。

「アッ!」

 からだを真二つにたち斬られたような、小さな、鋭い悲鳴が、お梨江の口から発した。お梨江が見たのは蛇であった。壺の中からいだしてお梨江の腕にまきついているのだ。

 お梨江はバッタリ壺を落して、割れた壺の上へ自身もフラフラと倒れてしまった。

 人々はドッとお梨江の方へ駈けつけた。チャメロスはお梨江をだき起した。人々は蛇を踏み殺した。そして口々にののしりさわいだ。しかし、そのとき、

「オ、オーイ。医者! 医者をよんでくれ!」

 大きな胴間声が起ったのは、お梨江をとりまいた人群れから遠く離れた一角であった。

 人々がそッちをふりむいてみると、大坊主の雲助が山カゴをおッぽりだしてウロウロしているのだ。黒衣のそうが尺八を放して、もう一人の雲助をだき起している。

 加納五兵衛が殺されたのである。警視総監の目の前で。

 大坊主の星玄が、ともかく警視総監の職分を忘れなかったのは結構であった。

「みなさん。お静かに! お静かに!」

 なに、一番あわてふためいて騒いでいるのは、お前じゃないか。しかし、星玄は一人でおおがわの流れをせきとめているような大そうな手つきをして、

「暫時、そのまま! そのまま! ゆゆしき犯罪が起りましたぞ。暫時そのまま。御セイシュクにお願い致します。医者と探偵が参るまで、その場をうごいては、いけませんぞ」

 加納邸がうしごめらいまちにあったのは不幸中の幸というものだ。星玄坊主の頼みの綱といえば、紳士探偵、結城新十郎をおいて外にはない。紳士探偵は神楽坂に住んでいるのである。

 星玄は加納邸の警備に当っていた巡査の中から、古田鹿蔵という老巡査がいるのを知ると、大よろこび、

「お前がいたのは何よりだ。一ッ走り、神楽坂の新十郎どんをつれてこい。それ、急げ。もっと走れないか。ノロマのモウロクたかり」

 そこで鹿蔵は一生ケンメイ走った。彼は元々結城新十郎付きの巡査なのだ。新十郎に用があると、駈けつけるのが役目であった。

 新十郎は旗本の末孫、幕府の徳川家重臣の一人を父にもったハイカラ男。洋行帰りの新知識で、話の泉の五人分合せたよりもものりだ。それに鋭敏深慮に徹する大々的な心眼をそなえている。

 彼の右隣りに住んでいるのが、泉山虎之介であった。町道場をひらいているが、警視庁の雇いで、巡査に剣術を教えるのが商売の一つである。

 虎之介は馬鹿の一念、凝り性であるが、特別探偵に凝っている。心眼をこらしてジッと考えこむのがたのしくて仕様がないという因果な男だ。そこで犯罪ときくと、商売をおッぽりだして現場へ駈けつける。弟子の巡査どもをおしのけて、一番前へでると、ず深呼吸、ヘソの下に力を入れてツブサに観察し、静かに心眼を用いる。しかし彼の心眼はヤブニラミと色盲を合せていた。

 わが家へ帰ると、近隣をあつめて見てきた事件を披露して、心眼のハタラキを説いてきかせる。これが彼の人生最高のよろこびだ。ところが新十郎が洋行から帰ってからというもの、彼の心眼に異説をたてて、ピタリと犯人をあててしまう。虎之介は残念だが、心服せざるを得ない。推理の見事なこと、人の見のがす急所をついて、どのようにかんにたけた犯人も新十郎の心眼をだますことができないのである。そんなキッカケから、新十郎は虎之介の案内で現場へでかけるようになり、いくつかの難事件を手もなく解決して有名になった。

 西洋博士、日本美男子、紳士探偵、結城新十郎の名は津々浦々になりひびき、新聞の人気投票日本一、警視庁は、探偵長に迎えたいと頼んできたが、キュウクツな務めは大キライとあって、オコトワリに及んだが、しかし彼も好きな道、雇いという軽い肩書で、大事件の通報一下、出馬して神業の心眼をはたらかすことになっている。この通報にけつけて案内に立つ係りが古田鹿蔵老巡査である。

 ところが、新十郎の左隣りの住人を、花迺屋因果と言って、ちょッと名の知れたさくしやだ。戯作者などというものは、主として江戸大阪生れの人間がやるものだが、花迺屋はさつッポウで、ふしの戦争ではワラジをはいて、大刀をふり廻して、ソレ、駈けこめ、駈けこめ、と、上野かんえいまで駈けこんできた鉄砲組の小隊長であった。

 どういう因果か、この男は小説が好きだ。おまけに、都会の風が身にしみてゾッコン好きであるから、御一新になると同僚はみんな官途について、肩で風をきる中で、この男は志を立て、さる戯作者の門に弟子入りして、大いに道を習い覚えて、小説をものにしたところ、どうの世の中、見当外れの通ぶりが意外の効を奏して、バカにされされ、もてはやされてしまったのである。田舎通人、神仏混合、花迺屋因果といえば、人力車夫や女中などには粋人中の粋人とありがたがられて、身にあまる人気を博するに至った。

 この男がまた虎之介に輪をかけて凝り屋のところへ、特に探偵のことには凝りに凝っている。古田巡査の靴の音をチャンと覚えていて、この足音が新十郎の門をくぐると、すばやく身支度をととのえて、新十郎のでてくるのを門前に待ちかまえていて、

「さ。では、参りましょう」

 とか、懐中時計をチョッとにらんで、

「ウム。これア、急がにゃなるまいて」

 なぞと、頼まれて案内にきたようなことをいって、ズンズンついて行くのである。

 三人がでかけるころに気がつくのが虎之介で、あわてて帯をしめなおしながら、

「オイ。待て! 待たんか! きようもの。ウヌ」

 ホオ歯の書生下駄をつッかけて追っかけてくる。新十郎は花の巴里パリでつくらせた洋服に細身のステッキ。花迺屋も当節の通家であるからリュウとした洋服にハットをかぶり、ステッキを手に、いつもすいの巻タバコをくわえている。

 鹿蔵の注進によって勢揃いした三人は矢来町の加納邸へとやってきた。

 星玄は門前まで迎えて、新十郎に堅く握手して、

「日本ひろしといえども、オハンあるのみ。たのみますタイ」

 心痛のあまり、国の言葉で、あいさつする。彼の目には、事のあまりの重大さが、焼きついていて、居たたまれぬほど胸がせまってくるのであった。

「何事が起りましたか」

 星玄は事件を説明して、

「かようなわけで、まことに心外ながら五兵衛どんはオイドンの目の前で死んでしもうたのです」

 新十郎はやさしい目で彼をいたわって、

「ほかの人々はお梨江嬢の倒れた方へ駈け去って、残っていたのは、あなた方雲助組だけですね」

「とんでもない。駈けつけたのは、まア、四分の一ぐらいでしょうか。四分の三は自分の場所を動きません。ただ、何事ならんとお梨江嬢の倒れた方を見ておったのです」

「あなたは加納さんの倒れるところを見ましたか」

「まことに、おはずかしいが、オイドンはお梨江嬢の方に気をとられて、犯人と犯行の瞬間を目撃いたしておりません。両名で担っておった山カゴがグラグラと前へゆれて傾きおるから、ふと見ると、五兵衛どんが胸か腹をおさえて、前へトントンとのめるように倒れるところでした。あの人は剛気ですから、その瞬間になっても、山カゴを担った片手を放しません。そのとき、五兵衛どんのフシギな様子に気づいて、横っとびに駈けよりざま、ちょうど倒れた五兵衛どんを抱きとめようとした虚無僧がありました。両手でだきとめよったから、手にした尺八が音をたてて落ちましたな。後にアミがさをとりよったのを見ると、この虚無僧は油絵描きの田所金次ですわ。今夕の仮装者には、もう一人虚無僧がおりましてな。これは政商、神田正彦でありました」

「すると、それまで、被害者に接近した人はなかったのですか」

「その四、五分前に総理大臣が五兵衛どんのところへこられましてな。ちょッと用談がありました。すると五兵衛どんは令夫人を目でさがしましてな、折よく近いところでフランケン大使と踊っておるのを認めまして、そこへ行って一、二応答があったようです。五兵衛どんは戻ってきて総理に復命しました。そういえば、そのとき、五兵衛どんはなんとなく顔色すぐれぬ様子でしたなア」

 新十郎はうなずいて、

「では、現場へ御案内ねがいましょう」

 星玄は案内に立つ。鹿蔵も一しょに四人が内へ進もうとすると、星玄はおどろきあきれて虎之介をジロジロ見まわしながら、

「あんたはいかんなア。ヘコ帯に素足。今夕は各国大使が列席しておりますぞ。あんたは、国威を失墜しよるなア」

 自分がいわれつけていることを言っている。虎之介はぶッとふきだして、

「総監はハダカにフンドシですが、国威を失墜しましたなア」

「ヤ。しまった」

 新十郎は中に立ってとりなしてやった。

「探偵はあらゆるものに変装しますから、そう見ておいたらよろしいでしょう」

「ヤ。結構結構」

 星玄は満足して四人を案内する。舞踏場内では、人々は壁際へあつまり、真ん中はひろびろとして、その一角の床上に、雲助姿の加納五兵衛がうつぶして死んでいる。彼の肩をはずれた山カゴが、彼の死体の一部であるかのように、横にころがっていた。

 新十郎は死体をしらべた。五兵衛のばらに突きささっている一本のづか。手裏剣に用いるものだ。刃の根本まで突きこんでいるが出血は少い。

 虎之介は小柄の方角を目で追って、

じまがって倒れたのでないとすると、ちょうど楽隊席の方角だなア」

「なんの方角だえ?」

 と花迺屋が虎之介の心眼に挑戦するが、虎之介はこんな小者はにもかけない様子。

「犯人が手裏剣をうった方角だ。田舎通人には分るまいが、犯人は人々の注意がお梨江嬢に向けられている瞬間をとらえて、手裏剣をうちおったのさ。だから総監も犯人の姿を見ておられん。総監がきづいた時には、被害者は脾腹をおさえて、前へ泳いでいたのさ」

 花迺屋はうれしそうに笑った。

「お主、剣術使いだが、真剣勝負をしらないなア。幕府には新選組という人殺しの組合があったが、お主はそれほどの人物ではなかったようだ」

「真剣勝負とは、何のことだ」

「手裏剣が柄の根本までブスリ突き刺すものか、ということさ。人の腹はやわらかいが、豆腐にくらべてはチトかたいなア」

 虎之介は目を怒らして田舎通人をにらみつけたが、小者を相手にしてはいられない。腕をくんで、いわくありげに、死体の方へ目をこらした。手裏剣の刺す力。なるほど虎之介はそれを知らない。しかし、誰だって知らないだろう。人間の脾腹ぐらい、打ちようによっては刀身いっぱい刺すかも知れないのである。田舎通人の愚論ごときは物の数ではない。

 脾腹へうちこまれた小柄のほかには、どこにも傷がなかった。どこからともなく飛び来った小柄一本が瞬時に命を奪っている。五兵衛はカッと目をあけ、口もあけて、何かいいたげに、よついに倒れて死んだのだ。横ッとびに飛んで抱いた田所金次も、五兵衛の言葉をきかなかった。新十郎は総監に何かたのんだ。星玄坊主はいかめしくうなずいて、雲助の直立不動、胴間声で叫んだ。

「満堂の淑女ならびに紳士諸君。加納五兵衛殿の死の瞬間、すなわち、不肖が叫び声をあげた時にける皆様方の位置へ各々お立ちを願います」

 国威を失墜しないように熱心に言葉をギンミしている。

 そこで一同、めいめいその時の位置へ立ったのを見ると、国家の秘事に関係をもつ人々、両大使、善鬼総理、典六、みんな壁際にて五兵衛の倒れた場所から遠くはなれている。探偵たちの注意は一様に、そう姿の神田正彦をさがしもとめたが、これも五兵衛と遠く離れた壁際にピッタリ寄り添っているのであった。

 花迺屋はいぶかしそうに星玄にきいた。

「加納さんが倒れる前後に、この近ぺんにいた虚無僧は田所さん一人でしたか」

「左様。その瞬間にこの近くにいた虚無僧は一人だけのようです」

 五兵衛の家族たちもいい合したように、遠く彼から離れていた。アツ子はフランケンと組んで、楽隊席の下のあたりを踊りつつあった。そこは手裏剣のとんできた方向だが、五兵衛の倒れた場所から四間ぐらい離れていた。虚無僧の田所は、その中間に、最も五兵衛に接近して位置していた。彼は尺八をふいて歩いている最中であった。

 反対側の最も近い場所にいたのが、満太郎である。現場から二間ぐらいの所をちょうど通りかかっていた。

「卒倒なさった御令妹の方へ行こうとなさったのですね」

 と新十郎がたずねると、

「いいえ、ただなんとなくこッちへ歩いてくる途中でした。私は人々のさわぐ様子で何かが起ったと知りましたが、妹が倒れたとは知りませんでした」

「あなたは倒れるお父上の姿をごらんになりましたか」

「倒れる瞬間には見ておりません。倒れた後に、虚無僧姿の田所さんに抱かれて後の姿を見ましたが」

 満太郎は自分よりもちょッと年配にすぎない名探偵に信頼をよせているようだった。彼の目はジッと新十郎にそそがれて、今にも何か言いたげであったが、フッと目をそらしてしまった。

 来会者はじんもんされることなく、すぐ解散を許された。

 残ったのは、総監と、特に居残りを命じられた楽士であった。

「あなた方は一段高い席におられたのですが、犯行を目撃された方はおりませんか」

 答える者がなかった。新十郎はうなずいて、

「犯人は煙のように人を殺しているようですね。しかし、被害者の倒れる瞬間を目撃された方はいるでしょうね」

 五兵衛がヨロけて泳ぎだしてから、やがて横っとびに虚無僧が抱きかかえるまで見ていた者が三名いた。

「被害者が泳ぐ様子をごらんになったとき、何をしていると思いましたか」

「左様。泳ぐというよりは、前の方へうつむきがちにしゃがみこむように見えましたな」と一人が答えた。他の一人もそれに和して、

「そう。そう。私もそう見たね。おや、あの雲助はしゃがむんだナ、というようにね。それだけのことだ。別に死の前のどうこういう様子に見えたわけじゃアない」

「しかし、しゃがみながら、胸をかきむしったなア。こう、なにか胸にだきしめるような様子だった」

「胸に? 腹じゃアないのですか」

「イヤ。つまり、何かだくような様子です。だくといったって、ハダカだから、だいてるわけじゃアないなア。つまり、胸をこう、こすったのかな。私はハッキリ見ました。つまり、あれは死の苦しみというのかなア」

 彼らの目撃していたことは、それだけであった。

 新十郎は楽士を帰して、女中、下男、書生ら、二十数名をよびあつめた。そして、何か変ったことに気付かなかったかと尋ねたが、お絹という若い女中が、おそく戻ってきた五兵衛の謎のようなつぶやきを記憶していたほかに変異を見ている者はいない。

 お絹は顔をあからめながら、

「ハッキリ覚えてはおりませんが、幽霊にだまされた、……」

 お絹は自分の言葉に笑いだして、

「ですが、ほんとに、そう仰有おつしやったのです。そして、まさか、アレが生きてやすまい、なんて仰有ったようです」

「戻られたのは、何時ごろですか」

「会場の皆様が大分おあつまりになって後のことでした。いそいで御飯を三ぜん、お茶づけで召しあがって──お急ぎのときは、いつもそんなです。一、二分で、かッこむように召しあがるのです。そして雲助にふんそうあそばしてお出になる、三十分もたつかたたぬに、あの御有様でした」

 新十郎は車夫をよんだ。

「御主人はおそく戻られたそうだが、どこへお連れしたのだえ?」

からすもりの夕月でした。何御用かは存じ上げません。ただ、お帰りのときに、まさか人のイタズラとは思われないが、生きているなら、どうして来ないのだろう。来ないワケはないがなア、と仰有っていました。夕月の女将おかみに、誰それが見えたら、使いをよこすように、と仰有ってたようです」

 訊問をうちきって、一行が帰りかけると、広間の階段の陰から現れた花のような娘があった。娘はツカツカと一行の前へすすみでて大胆に新十郎を見つめて、

「あなたが、大探偵?」

 新十郎はまぶしそうに笑った。

「犯人は分りましたか?」

 娘はたたみこんだ。

「残念ながら、手のつけようがありません」

 新十郎が神妙に答えると、娘の目はもえるようにひらめいた。

「私、気絶していましたから、お父さまの死になさるのを見ておりませんが、虚無僧姿の田所様が介抱なさったそうですね」

「仰有る通りです」

「虚無僧には、きっと秘密があるものですわ。昔からそうなんですッて。その秘密をお探しなさるといいわ。下男のきちじいやに、おききあそばせ」

 そう言いすてると、お梨江は、自分の言葉にあわてた様子で、電光石火、逃げてしまった。

「あの方が、気絶した令嬢ですか。つぼの中の蛇にねえ。気絶ですか」

 新十郎は、つまらぬことを呟きながら考えこんだ。ふと気がついたらしく、

「兄の満太郎さんも、何かいいたげの様子でしたよ。あの兄妹はなにか訴えたいことがあるんですねえ。とにかく、弥吉じいやをよんでみましょう」

 弥吉は六十に手のとどく、当家で最古参の使用人であった。病死したお梨江の実母には赤誠をもって仕えた忠僕であった。

「じいさん。ご苦労さまだね。こまったことになったなア。お前も心痛のことだろうよ。ところで、お嬢さんがお前にいてくれといって、大そう慌てた様子で逃げて行かれたんだが、田所さんという洋行帰りの油絵師にどんな秘密があるのだえ?」

 弥吉は新十郎を見つめていたが、

「お梨江嬢さまが私にきけと仰有ったのですね?」

「そうだよ。ハッキリ、そう仰有ったよ」

 弥吉はゆっくり、うなずいて、鋭く新十郎を凝視した。

「では申上げます。田所さまは当家の奥様の情夫でございますよ。昨日今日の仲ではござらん。田所さまの洋行前から、そのようでありました。一子良介様も、どなたの種やら、神仏が御存知でござろう」

 弥吉の目は火のような怒りにもえた。そしてキッパリ言いきると、一礼してさっさと行ってしまった。

 一同はタメイキをついた。

 星玄坊主、耳の穴をグリグリ清掃して、

「イヤなことを、きくなア。こげん時には、耳がないといいと思う。ワア、つらい!」

 気の弱い警視総監があるものだ。

 帰りかけていた新十郎は、なにを思いだしたか、再び女中たちの部屋へ戻って、お絹をよびだした。五兵衛が裏門から戻ってきて、飯を三膳かッこんで、雲助に扮装して出て行くまでの順を、その場所について一々辿たどっていった。

「御主人は酒をおのみにならないのかね」

「いいえ。大そう豪酒でいらッしゃいます」

「宴会前に茶漬三膳は妙だねえ。せっかくの美酒がまずいだろうに」

「いいえ。御前様には一風変った習慣がおありでした。重大な御宴会には御飯を召上っておでかけでした。深酔いをさけるためでございます」

「なるほどねえ。一流の人物は心構えがちがっているね」

 新十郎が感服してうなずくと、お絹は自分がほめられたようにポッとあからんでしまった。美男子というものは得なものだ。

「今晩はどんなものを召上ったね?」

かばやきやおサシミやあゆや洋食の御料理や、いろいろと用意してございましたが、急いでお茶漬を召上るときは、梅干を六ツ七ツ召上るだけでございます。梅干がお好きで、御前様の梅干はわらの農家の古漬を特にギンミして取寄せております」

 五兵衛の食膳へのせる梅干の壺はみんの高価な焼物だということであった。大きなツブの揃った何十年も経たかと思われる梅干がまだ六ツ残っていた。

 調べを終って、門をでると、虎之介は喜びふくれる胸の思いに居たたまらぬらしく、花迺屋をこづいて、新十郎の後姿を目顔でさしながら、

「アッハッハ。ムダな方角を見ているんだねえ。アッハッハッハ。見ちゃいられねえなア。オレは、ちょッと、失敬しますよ。ハッハッハッハ」

「みッともないねえ。なんてダラシのない笑い顔をする人だろう。馬がアゴを外したような顔をする人だ。お前さんの方角が見当ちがいにきまってらア。ムダ骨を折りたがる人だ」

「アッハッハッハッハッハッ」

 虎之介は笑いたけを食ったようにダラシなく相好をくずして、

「お先きに失礼。ハッハッハッハ」

 喜びいさんで、どこかへ走っていった。

 新十郎は鹿蔵に、

「烏森の夕月へいって、加納さんが誰に会うはずであったか、ききだして下さい。それから、これは、ちょッと難題ですが、加納夫人の素行を総ざらいに洗っていただきたいのです」

 これをきくと花迺屋はよろこんで、

「それ、それ。大先生の心眼がズバリそこを指すだろうと見ておりました。虎公は田所とにらんでいるのさ。ヤブ睨みだね。あの人の智恵は、失礼だが、浅い。私はね、チャンと見ていました。あすこをね」

 新十郎はふきだしたいのをこらえて、

「あすこッて、どこですか」

「ねえ、ほら、あすこんとこさ。先生の心眼がズバリさしたところさね」

「私の指したところッて、どこでしょうか」

「ヤだなア、この人は。あなた、さしたでしょう。加納夫人の素行のとこさ。ね。フランケンですよ。犯人はこれだ。私もね。手裏剣にしちゃア傷が深い、おかしいなア、と思ったんだが、西洋の手裏剣たア知らなかったね。こいつア、術がちがいます。フランケンは大そう好男子だが、西洋手裏剣の名取りだろうと睨みましたね」


    *


 海舟の前にかしこまった虎之介は、後先をとりちがえないように念を入れて、語り終ってホッとした。

 さて、それからが問題で、花迺屋に鼻先であしらわれたが、無念なことには奴めの雑言たがわず、彼の心眼は狂ったところを見ていたようだ。狂うはずはないのだがなア。まことに面目ない。そこでいつもの例であるが、海舟のところへ、心眼の狂いを直してもらいにきたのである。虎之介はに落ちない顔。

「五兵衛に近寄ったものは総理のほかにはおりません。もっとも、アツ子とフランケンのところへ自分から出向いてはおりますが、異状なく立ち戻っております。総理が去って二、三分後に、ふらつき、よろめいて、倒れるところを、田所がけ寄って抱きとめましたが、ふらつく前に近づいたものはおりません。総理が去って二、三分、そのときお梨江が卒倒して満場の注目がそッちへ向いております隙に、手裏剣をうった者、田所のほかに犯人はございません。手裏剣のとび来った方角に最も近く居た者は田所で、すこし離れてフランケンがおりますが、彼の位置は田所にさえぎられて手裏剣をうつことができません。倒れる五兵衛に走り寄って抱きとめたのは、離れていた故、刺したのは自分でないぞと見せる下心。まんまと化かしおおせたツモリだが、奴め、このときシッポをだしております。ふらつき倒れる五兵衛を見ていたのは田所ひとり、人のうった手裏剣ならば奴めが見逃すはずはございません」

 海舟は煙草盆の下のヒキダシからナイフをとりだした。いしをひきよせ、水にしめしてナイフをとぎはじめた。砥石とナイフは彼の座右の必需品。自分で指や頭のあたりを斬って、悪血をとるのである。

「田所を犯人と見た目に狂いがあるとは、まことに心外千万ですが、彼の近隣知友について調査いたしましたところ、彼は幼より成人に至るまで女子にも劣る柔弱者で、武術はおろか、けんぽうすらもたしなんだことがございません。まことに困ったことに相成りました」

 これが嘆きの種である。はんもん、又、煩悶。海舟はとぐ手をやすめて、

「神田正彦がそうだッけな?」

「ハ、左様で。しかし、神田は遠い壁際にたたずんでおりまして、フランケンと同国の大使館員と同席、会話いたしておりました」

「そうだろうよ」

 海舟はゆっくりとぎ終ると、ナイフを逆手に、後ろ頭をチョイときって、懐紙をとりだして悪血をとる。散々頭の悪血をしぼると、次には小指をチョイときって、懐紙で悪血をとっている。悪血をしぼりながら、おもむろに心眼を用いているらしい。海舟はナイフと砥石をかたづけて、血をふきふき、

「色と見せて別口のあるところが非凡なのさ。虎には、チョット、わかるまいよ。その日になって、アツ子はにわかにチャメロスとお梨江をとりもつようなことをしたというが、これが計略だアな。アツ子とフランケンはできてるぜ。オレもフランケンには三、四度会って話をしたことがあるが、好男子で、大そう如才がなくて、鼻筋も唇も目も、顔全体がみんな薄々とした優男だな。顔相はロベスピエールに似てるぜ。顔相の同じいものは、魂も同じいのさ。日本では斎藤道三が悪がしこくッてキモのできた悪党だが、大そう好男子であったそうな。これも目鼻の薄々した優男であったろうよ。人間の仕でかしたせきを見れば、顔も大方わかるものだ。アツ子とフランケンは組んで踊っていたらしいが、さすがに思いきったことをやる。計画は見ぬかれまいと、自信があってのことだ。しかし、手を下したのは、フランケンでもアツ子でもない。虚無僧姿の神田正彦。五兵衛を刺したのはこの男だ」

 海舟はこともなげにいいきった。まだ止まらない血をふきながら、彼はさらに説明した。

「虚無僧姿が二人いたてえことを忘れちゃアいけないぜ。田所はアツ子の情夫だ。これが当日何者に仮装するかてえことはアツ子に知れている。あるいはアツ子がすすめたのかも知れねえや。大方そうにちがいはあるまい。人に顔を見せずに、自分の方からは人を見ることができるてえ虚無僧は、仮装会の人殺しにはもってこいだなア。おまけに尺八とくる。五兵衛を殺したづかは、この中に仕込んであったぜ。神田は海賊あがり、オレが船乗りのころあいさつにきたことがあったが、武道十八般に通じ、万事につけて一家の見識のある男だ。金が好きだから、海賊にも商人にもなったんだろうが、政治をやれば総理はつとまる男だよ。人殺しぐらいはキュウリをねじきるぐらいにしか思ってやしねえ。ひどい奴さ。アツ子がにわかにチャメロス側の味方についたと見せかけたのは、まず第一には、お梨江に蛇をつめたつぼをもたせるため。第二には、チャメロス、善鬼ら、反対派の者どもをお梨江とチャメロスのことにかかりきらせて、注意をそらすためだアな。お梨江が卒倒する。人の注意がそッちへ向いたとき、待ちかまえていて手裏剣をうったのは、神田だ。ちょうど同じ虚無僧姿の田所が近所にいたてえのは偶然のことで、奴らの計画じゃア、虚無僧が二人いりゃア、それでいいのさ。みんなが踊りまわって、同じ場所に定着する者のいない舞踏会てえものは、特定の時、誰がどこにいたかてえことは、ほとんど見当がつかないものさ。一瞬ごとにまわりのものがうつり変ってらアな。神田がそのときフランケンの同国の大使館員と壁際で話を交していたといえば、それを覆す証拠はねえのさ。誰かがそこいらに虚無僧を見かけたようだと思っても、虚無僧が二人いるから、心配はいらないことさ。これが五兵衛殺しの真相だ。証拠がなくッて、一味にフランケンもいることだし、善鬼が薄々感づいていても、犯人を捕えることはできないだろうよ」

 明察、神の如し。虎之介はただもう謹聴、一語一語に心眼の曇りをはらい、洗いきよめてつつしんで退出した。


    *


 虎之介が海舟邸からとって返して、新十郎を訪ねると、花迺屋がつめかけていて、新十郎の出動を今か今かと待ちかまえているが、まだ潮時ではないと見えて、新十郎は書生のあんと西洋将棋に没頭している。

 虎之介を見ると花迺屋はよろこんで、

「ヤ。お帰り。大探偵。とうとう犯人を見つけなすッたね」

「ハッハッハ。貴公の心眼はどうしたエ」

「ナニ。犯人はフランケンさ。顔は優しいが、根は西洋手裏剣の使い手だ」

「ハッハッハッハ。しかし、フランケンを見ているとこは、田舎通人にしては、出来すぎている。色とみせて別口のあるところが非凡だな。お前には荷が重かろう」

 そこへ鹿蔵が疲れきってやってきた。この老巡査は性来至って鈍根だが、うけた命令は馬鹿テイネイにあくまで果してくるという長所をもっている。昨夜新十郎に命じられたことを、殆ど寝もやらず駈けずりまわって、今しも戻ってきたところだ。新十郎のかたえににじりよって、

「夕月で待っていたのは、中園弘でございます」

「ヤ、加納さんの第一番頭、三年前に行方不明をつたえられている中園ですね」

「さようです。夕月の女将おかみには腹蔵なく話しておいてくれましたので、さいわい知ることができましたが、その日のひるごろ見知らぬ男が、中園の使者と称して現れまして、ただ今シナから戻ってきましたが、まだ仕事が完成しておりませんので姿を現す時期ではないが、御前に御報告だけしておきたい、夕方、夕月へ参りますから、とかいう話があったそうです。加納さんは半信半疑で、中園はたしかに用務を帯びてシナへ行く途中ではあったが、げんかいなだで船が沈んで、助かったとは思われないが、フシギなことだと話しておられたそうであります」

 新十郎はうなずいて、

「なるほど、たぶん、そんなことだろうと思ってはいました。そして中園は夕月へ現れましたか?」

「いいえ、今もって現れておりません」

「そうでしょうなア。そして、たぶんいつまでたっても現れはしますまい。それから?」

「夕月のぶんはそれだけですが、アツ子の素行につきましては、まことに難題で、田所のほかには、なかなか正体がつかめません。しかし、だいたい素行については悪評がありまして、フランケンとは近ごろ特にネンゴロだということを噂している者はございます。散々歩いて、つきとめたのは、ようやく、それだけで……」

 新十郎はニッコリ笑って、

「いつもながら、あなたには感謝しますよ。正確無類に私の足の代りをつとめて下さるからです。おかげで私は西洋将棋をたのしむことができますよ。私が自分で歩いたって、あなた以上にききだすことはできますまい。では、そろそろ出発いたしましょうか」

 虎之介は有頂天によろこんで、口もとから自然にほころびる笑みを抑えるから、

「オヤ。どちらへ?」

「加納家へ参りますよ」

 とうとう我慢ができなくて、虎之介はゲタゲタ笑いたてて、

「オヤ、あんなところへ、何御用で?」

「さては泉山さん犯人を見つけましたね。おはずかしいが、おそまきながら、私はこれから犯人を突きとめに出かけるのですよ」

 こう愛想よく新十郎におだてられると、虎之介はもう我慢ができない。柱によりかかって背中をねじくりながら、ゲラゲラ、ゴロゴロとのどの中をスポンジボールがころがるような奇怪な音を発してとめどなく笑いくずれている。新十郎は晏吾に命じて、

「お前は風巻先生を御案内して、後から加納家へ来るように。先生は待ちかねて、いらッしゃるだろうよ」

 こう言い残して、四人はつれだって、加納家を訪ねた。速水星玄は今日はチャンと警視総監の制服をきて、部下をひきつれて、新十郎の到着を物々しく待ちかまえていた。制服をきせた姿は、国威を失墜したことなどはトンとなかったようにりりしく見える。新十郎を見ると、進みでて握手して、

つえとも柱とも頼み申しておりますぞ。この犯人のあがらんことには、政府はつぶれる、日本国中人心動揺、ワア、つらい。その責任がオイドンにかかっているとは、ひどいことになるもんだなア。犯人は見つかりましたか」

「たぶん犯人がこの邸内にもいるという証拠を見ることができるでしょう」

「シメタ!」

 星玄は感きわまっている。新十郎はまっすぐ台所へ行った。お絹をよんで、昨日見た梅干の小さな壺をださせた。彼は中をあけて見たが、満足して、フタをとじて、

「この壺をいじった人は誰だね」

「誰もいじるはずはございませんが、どうかしておりますか」

「本当に誰もいじらないね」

「決していじる筈はございません。それを入れておく戸棚は御前様専用のもので、今日は戸棚に手をふれたものはなかった筈でございます」

「そうだろうね。ところが、たった一人、この壺をいじった人がいるのだよ。この中の梅干は昨日は六ツ残っていたが、今日は八ツになっているよ」

 お絹は驚いて顔色を変えた。新十郎は慰め顔に、

「ナニ、お前に悪いところはないのさ。ところで、梅干の大きな壺はどこにあるね」

「御前様のものは全部同じ戸棚にございます」

 戸棚をあけると、一番下に梅干用の大壺が四ツもあった。

「それでは、お嬢様にお目通りさせていただきましょう」

 彼らはお梨江の居室へみちびかれた。新十郎はていちようあいさつして、

「昨夜の不快を思いだしていただいては恐縮ですが、お嬢さまがおくれて会場へお出になったについては、なにか理由がございますか」

「理由と申上げるほどのものはございませんわ。ただ、なんとなく、気がすすまなかっただけ。できるだけ、おそく、できれば、出席したくなかったのです」

「すると、あの時刻に出席すると打ち合せた人も、むかえに来た人もなかったのですね」

「ございません。一存で、見はからッて出て行きましたの。迎えになんかきたって、うっちゃッとくわ」

 たまりかねて、遮ったのは、虎之介である。

「その噓は通りませんぞ。あの時刻に、あなたをあそこへ出るようにした人物がいた筈でござろう。よッくこの目をごらんなさい。この拙者の目を」

 新十郎がブッとふきだして、虎之介をひッこめようとする矢先、虎之介はけたたましくワッと叫んでひッくりかえっていた。お梨江がソッと手をうしろへ伸して、机上のじやくの羽をにぎりしめて彼の目の中へ突っこんだからである。新十郎は虎之介をだき起して、

「誰もお嬢さまに命じた者はなかったのですよ。つまり、あの時刻にお嬢さまが卒倒なさったのは偶然なんです。お嬢さまが卒倒なさらなくとも、加納さんはあの時刻に、あのような最期をとげなさる運命にありました。これが、この事件の眼目なんです。私はそれを昨夜から確信いたしておりました。お嬢さまありがとうございました。おかげで犯人を捕えることができましょう」

 お梨江はひとかたならぬ信頼をこめてジッと新十郎を見つめたが、

「いつ捕えなさるの?」

「三十分ぐらいのうちに捕えることができましょう。お嬢さまも犯人の名を御存知でしょうね」

 お梨江はキッパリとうなずいた。

 二人の若い美男美女がいかにも親しげに心の寄り添う様を見て、虎之介は不服満々、

「とんでもない。結城さん。ああ、色道ほどおそろしいものはないなア。あなたほどのお方もコロリと参ると、心眼も曇るどころか、まるでそれじゃア、真犯人のかんけいに乗ぜられるばかりですぞ」

 新十郎は虎之介をなだめて、

「いいえ、美しいお嬢さまをお見かけしてから、私の心眼はずんとえを増したのですよ」

 ニッコリしてこう言うと、思わず新十郎はポッとあからんでしまった。それを見ると、お梨江もポッとあからんだ。そこへ使者がきて、ただ今、風巻先生がおつきです、とつたえた。新十郎はキッと緊張して、

「さ、すべての謎がとけるときが参りました。お嬢さまも一しょに広間へ参りましょう」

 一同は五兵衛の遺体を安置した広間へ行った。親類縁者、五兵衛の世話になった者、多くの人がつめかけている。新十郎は風巻先生と挨拶を交してのち、

「それでは風巻先生に死体を見ていただきたいと存じますが」

 風巻先生はヨーロッパで研究をつんで近代医術を身につけた西洋医学の大家であった。

 新十郎はひつぎふたに手をかけたが、

「ヤ。これはどうしたことだろう。もう今からひつぎの蓋にくぎをうちつけてあるが」

 家令がすすみでて、

「ほかの場合とちがいまして、御変死のお顔に対面は御前の御名誉に傷をつけるようなもの、との奥様の御希望で、今朝、ごく近親者だけの対面をすませますと、蓋を密封いたしましてございます」

「風巻先生に調べていただく必要があるのですが、奥様のお許しを得て蓋をとっていただきたい、又、奥様にも立会っていただきたいものです」

 家令はアツ子の居室へ行って、アツ子をつれてきた。アツ子はやつれ気味に、ちょッといたましい様子であった。新十郎はそれをいたわって、いいにくそうに、

「では、奥様、蓋をあけますが、よろしゅうございますか」

「どうぞ」

 釘をぬき、蓋をとりはらう。いろいろの詰め物もとり去り、死体の衣類もとりはらって、風巻先生は、目や、傷口や、シサイに調べ終った。先生は新十郎をふりむき、

「一見して毒死の徴候歴然です。使用した毒物はわからないが、刀傷によって死んだものでないことは確かのようです」

「すると、加納さんが前へとんとんと泳がれて、胸をかきむしるようにしてしゃがみこむようになすったのは、刀傷によるのじゃなくて、毒物の作用によるのですね」

「まア、そうでしょう。ばらづかをうちこまれたときに、そんな泳ぐようなことをするのも妙でしょう。叫ぶとか、ふりむくとか、それとは多少ちがった反応がありそうなものだ」

「ヤ。ありがとうございます。おかげさまで事件のぜんぼうがハッキリ致しましたようです。どうしても毒死でなければならないということ、小柄を刺しこんだのは毒死をごまかす手段に相違ないということは、昨夜から確信いたしておりました。毒死と知れては、犯人が邸内にいることが見破られ易いからでしょう。多数の方々はお嬢さまが卒倒なさッたのをある人の差金で定められた時刻のようにお考えのようでしたが、この時刻はお嬢さまが勝手に選んだもので偶然にすぎません。ある人の差金で定められた時刻とは、加納さんが幽霊から使いをもらって夕月へひきだされ、どうしても、会におくれて帰邸せざるを得なかったというカラクリにあるのです。これは加納さんの性癖をよく知りつくせる者のみのなしうることです。つまり、加納さんは重大な宴会前には食事して出席すること、いそいで食事するときには、茶漬に梅干だけで二、三分でかッこむことを知りぬいた者のたくらんだことです。なぜなら、犯人は加納さんに大急ぎで梅干をたべさせる必要がありました。その梅干に毒が仕込んであったからです」

 虎之介は大不満。鼻をならして、

「そんなことがありますかい。お嬢さんが卒倒して、そッちへ人々の注意がむいた隙をねらって小柄をぶちこんだのさ。その隙がなくッちゃ小柄をぶちこめるものですか」

 新十郎はニッコリ笑って、

「小柄は手裏剣で投じたものではないのです。犯人はやがて毒がまわって、加納さんがふらつき倒れることを知っていました。彼はその時を待つために、加納さんについてまわっていたのです。毒がまわって倒れかけたとき、とびついて、介抱するとみせて、小柄を腹へ刺しこむために。小柄はそうの尺八の中に隠してありました」

 アッという叫びが起った。人々は総立ちになったが、花迺屋と鹿蔵が、やけに田所にくみついて、ひッ捕えたところであった。田舎通人、神仏混合、花迺屋因果と身はやつしても、もとは鉄砲組の小隊長、鳥羽伏見から上野寛永寺まで場数をふんだ覚えの腕は相当なもの。田所をひッ捕えて、まるで自分が推理して捕えたように大満足、ニタリニタリよろこんでいる。田所は後手にとられ、すでに観念して目をとじていた。新十郎は人々のざわめきの鎮まるのを待っていたが、

こうな犯人でしたよ。犯人は当夜重立った人々のふんそうをあらまし知っていました。むろん神田正彦さんが、虚無僧になるということも、あるいは神田さんが虚無僧姿に仮装するようそれとなくすすめたのは犯人であったかも知れません。尺八に小柄を隠して、加納さんが毒に苦しみはじめるまで、ついてまわるのは既定の計画でありましたから。そして二人の虚無僧がいることによって、常に一人が加納さんをつけているのを、まぎらすことが必要でした。そして田所を虚無僧に変装させて自分は梅干に毒を仕込み、加納さんを偽って夕月へおびきだしたのです」

 人々はギョッとして目を見合せた。花迺屋はいぶかしんで、

「すると、ほかに真犯人がいるのですか」

「小柄を刺したのが致命傷でないそうですから、毒を仕込んだ人の方が、もっと大物の真犯人というべきでしょうか。では、真犯人のお部屋を訪問いたしましょうか。しかし……」

 新十郎はとッくにアツ子が立ち去ったのを知っていた。そして、それから何が起ったかということも、おぼろに見当がつけられるような気がする。あの気性の女は……細川ガラシヤとだつのお百を一しょにしたようなものだ。見破る者がなければ、満太郎も殺されて、不義の子良介が家督をつぐことになったであろう。居室にはかぎがかかっていた。扉を破って人々がはいってみると、アツ子は一子良介を刺し、自分も懐剣でノドをついてこときれていた。立派な最期であった。


    *


 海舟はナイフで悪血をとりながら、虎之介の報告をきき終った。

「フン。そうかい。その場に行ってみなくッちゃア、毒死というのは分らねえやな。あれは一目でわかるものだ。するてえと、推理はそうなる。いつもながら、新十郎は見事な手際だ。虚無僧は二人いなきゃアならないということ、小柄は尺八に仕込んでおいたこと、これはオレがチャンと見ていたことだ」

 虎之介は改めて海舟のおそるべき心眼にただもう感服、ことごとく謹聴してわが心眼の曇りをきよめているのであった。

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