万引一家

 スギ子未亡人はシンは心のあたたかい人のようでもある。嫁入道具というものを一切持たない咲子の着物のことに気を使ってくれて、季節季節の着物を自分で見たてて作ってくれる。顔に親切を見せないし、優しい言葉をかけてくれることもほとんどないだけ、シンの親切が身にしみるのだが、しかしとりつく島もない。威厳があって、キリリと見るからに利巧らしくて、うちとけることも、甘えることもできないのである。

 その未亡人に、万引という病癖があると思って、咲子はあつにとられた。病気というものは、奇妙なものだ。実に厳然として威風そなわり、見るからに利巧そのものの大家の奥様が、万引をするとは意外なことだ。買う金は腐るほど有り余っている大富豪なのである。おまけに、金庫のカギは未亡人の手中にあって、自分で使うぶんには誰に気兼ねもいらないという結構な御身分なのである。

 呉服物は三井、貴金属は何屋、小間物は何屋というようにお買いつけの店はきまっている。当今のように店に商品が並んでいるわけではなくて、一々奥の土蔵から店のお客様の前まで品物を運んできて、ひろげて見せる。その品物の中から、お買上げの物のほかに不足した物があれば、万引の犯人はお買い上げの当人にきまっているし、見ず知らずの人ではなくて、顔の知れたオトクイ様なら、犯人の名は一目りようぜんというわけだ。

 しかし、商店はなれているから、何食わぬ顔、毎度ありがとうございます、と送り返しておいて、月末のツケの中へ、お買い上げ品として万引の品物も書きこんでおく。ちゃんと払って下さるのだから、万引には相異ないが、ますますありがたいオトクイ様でもある。諸方の商店は、浅虫家の未亡人御来店とあればたくさん品々を前に並べ、存分に万引していただくことになっている。

 ところが、病癖というものは、遺伝するからおそろしい。咲子の良人おつとの正司には姉に当るキク子が、やっぱり万引してくるのである。

 キク子は二十五にもなって、まだ独身者という変り種、非常に美人ではあるが、我が強く、陰気で、無口で、てんで男など眼中にないらしい様子である。立居フルマイが荒々しく、投げやりで、奔放だ。そういう変り者であるから、万引の手口が豪放をきわめていて、人力とは思えないほどゴッソリ持ってくる。コートの裏に何十本というカギのついたヒモがぶら下っていて、ここへ反物を何十反もぶら下げてくるような、妙に芸のこまかい技巧派のところもあるのである。母の血をうけて利巧なことは確かであるから、粗雑、奔放のようでも、無口で陰気で考えこんでいるような放心状態のとき、実は万引の手口について新発明をこらしているのかも知れない。母にくらべて、大胆不敵、武者振り堂々たる万引常習者であった。

 彼女らにとっては、買うことと万引とは、結局同じことにすぎないのに、そこは病人のことで、万引は又特別、戦利品というような快感があるらしい。貧故の万引とちがって、金持の万引は完全な病癖なのだから、その快味は又、特別に相違ない。

 だから、買ってきた品物は、ちゃんと居間のタンスにしまうけれども、戦利品は土蔵の中へひそかに隠して貯蔵して、その戦利品の山を日夜のぞきに行って満足しているのだ。だから彼女らは、土蔵の中へは誰も入れない。土蔵は、この家の一番奥の主人夫妻の居間、今では未亡人一人の居間であるが、そこに接している上に、カギは未亡人の手中にあるから、未亡人の眼を盗んで土蔵に入ることは誰もできない。ただ娘のキク子だけは母の居間に出入自由で、同時に土蔵の中へも自由に出入できるらしい。二人は特に仲が良いのである。共通せる病人のせいかも知れない。

 大金持の土蔵であるから、実に壮大ゆうこんな大土蔵で、はなかわの蔵吉という土蔵造りの名人が、九年かかって仕上げたという国宝的な土蔵であった。その大土蔵のどこに、どんな風に戦利品が陳列してあるのか誰も見ることが出来ないが、気品あくまで高き未亡人と、奔放にして美しき娘とが、時々そこへ忍びたたずんで戦利品に魅入られている姿を想像すると、咲子は怖しくもあるが、すごいような美しさを感じないこともなかった。

 しかし、変った家族である。何から何まで変っている。食事にしても、未亡人とキク子は未亡人の居間で差し向いで食べる。フキヤという小女がお二人の係りの女中である。

 正司と咲子は、二人の居間で食事する。これにはタケヤという小女が係りの女中だ。

 正司の弟の一也という大学生は自分の居間で一人で食べる。これはハナヤという小女が係りである。

 まるで銘々旅館に居るようなものである。ちゃんとレッキとした大食堂があるのに、殆ど使うことがない。しかしもつともな理由もある。家族の起居がそれぞれ時間が違っていて、一堂に会して食事をするわけにはいかないのだ。未亡人のお目覚めが最もおそくて、九時ごろ。で、未亡人が洗顔して朝のお化粧を終ったころ、咲子はその居間の外の廊下にすわって、

「お母さま、お早うございます。お姉さま、お早うございます」

 とあいさつする。一日に、その時だけしか、顔を合せないような日も多い。用があると、女中がよびにくるが、又、未亡人が自分で咲子のところへ来ることもある。キク子はそんなことは殆どない。しかし二人とも悪い人ではない。風来坊の咲子を憎んだり、さげすんだりしていることはないのである。咲子はそれを有り難くは思うが、どうも、打ちとけられない。母、姉という肉親感はもつことができなかった。

 正司と咲子は恋愛結婚であった。明治には珍しい話で、おまけに咲子は小さな牛肉屋の娘である。女中が手不足で、自分で客に給仕するような小さな店だ。

 まだ当時大学生の正司と何も知らずに恋仲になり、あんまり飛びはなれた大富豪の子供と分って、これではとても結婚はできないと思った。正司の親や親類が許してくれるはずがないからである。当時としては、完全に有りうべからざる事情だからだ。ところが、案外にも、正司の母は反対しなかった。そして正司の卒業と同時に、二人は結婚した。時に正司は二十二、咲子は十八。咲子は浅虫家の若奥様となったが、それは去年のこと。まる一年たった近ごろになって、咲子ははじめて浅虫家の秘密が分った。スギ子未亡人が咲子の結婚に反対しなかったも道理、浅虫家は良家と縁組みできかねるような陰惨な血があったのである。万引ぐらいはまだしも呪われた血の中では軽い方の口であった。

 咲子は一也という弟の大学生が嫌いであった。一也は秀才であった。利巧な母と姉にくらべて、この秀才の弟が生れたことは自然であるが、正司だけは不思議に出来が悪い。世間から見れば、バカという程ではないのであるが、この家族の中ではバカが目立つ。一也は兄をバカ扱いである。そこで、その嫁の咲子もバカ扱いだ。いつも皮肉な薄笑いでニヤリ、ジロリと見て、ソッポをむく。それは言葉で皮肉られるよりも、むしろ腹の立つ仕打ちであった。

 その一也が、話のハズミで実に事もなく、自分の家の呪われた血をバクロしたものだ。まるで自分には関係がないように。

 未亡人の亡夫浅虫権六は病死となっているけれども、実は自殺したのであった。その自殺もタダの自殺ではなかった。彼は自分がらい病であることを知った。癩の徴候が現れたのを、ひそかに気付いたのである。彼はいろいろ癩について調べたあげく、自分がまさしく、その病人の一人であることを確信せざるを得なかったのである。ついに彼は、発狂して、自殺した。しかも、その自殺の悲惨なること。彼は自ら刃物をふるって、自分の癩の徴候の部分の肉をえぐり、皮をはいだ。自らの顔の皮までそぎ落したのである。そして、腹を一文字にさいて、自殺した。

 咲子は一也の話をにわかに信用するわけにはいかなかった。とは言え、良人にきいてみるのも怖しい。なぜなら、なんとなく思い当る節があるのだ。

 この家へ家族のように繁々と出入するたった一人の人物がある。その親しさや、威張り返っている様子、人々がなんとなくその人物を煙がりながらていちようにする様子から、にらみの利く親類の親玉と思っていたら、正司が病気のとき、カバンをぶら下げ、医者になって、診察に来た。彼は花田医院の院長であった。決して親類ではないのである。

 花田がくると、彼は未亡人の居間で酒をのみ、赤い顔をして帰る例であった。未亡人はゆすられているらしい。咲子は一也の話で、謎が氷解した思いであった。亡父権六の癩病、発狂、自殺、という事実を知っているのは花田だけなのだ。そして彼が、病死というニセ診断書を書いたのである。咲子はそこに思い当った。

 正司は次男であった。キク子の上に博司という今年二十七になる長男がいるのである。ところが、彼は日本には居ない。父が死んでまもなく、百か日もすぎないうちに、外国へ行った。そして五年になるが、まだ帰ってこない。そればかりでなく、向うの女と結婚して、もう帰国する意志がないらしいという話なのである。未亡人もキク子も、兄は死んだものと、すでにあきらめきっているようであった。まったくこの家族たちの感情の上では、兄はもう居ないもの、帰らぬもの、死んだものときまっている様子である。咲子は生きている兄がいると知ったときに、信じられないような気持であった。その謎も、どうやら、解けるではないか。咲子は思い知った。博司は生きて日本には帰ることができないワケがあるのだ。彼はすでに「癩」に犯されているからである、と。

 もう一人、毎月、月末に一度だけ、きまって訪ねてくる怪しい人物がいた。野草通作という中年の男である。高価な着物を着流しに、いかにも結構な楽隠居という様子であるが、いかにも人品がである。女中のタケヤにきいてみた。

 彼女の話によると、野草通作はお茶にも菓子にも手をつけたことがない。包んでもらった菓子は、帰るとき、ハイヨ、と言って見送りの女中に投げてやり、毒があっても知らねえよ、と言いすてて帰るのだという。タケヤはいかにも顔をしかめて、あの男はイヤらしい好かない人物だという表現をするのであるが、その素性については知らない。ここの女中はみんな小女ばかりで古い女中は一人もいなかった。

 女中たちは、花田医師は未亡人の情夫で、野草通作は長兄博司が洋行前にはらませた女の父だと思っている様であった。毎月一度月末に勘定とりのような正確さで来るので、そう思うのだろう。博司には、たしかに恋人がいたのである。博司は別れがたいその恋人すらも振りすてて、故国をはなれたのだという、その悲しい話は正司が時々咲子に語ることであった。

 咲子は正司にきいた。

「野草さんて、どういう方?」

 こうきかれて、正司はイマイマしげに、顔をそむけたが、

彼奴あいつは以前、うちの下男をしていた奴さ。何かボロもうけして成りあがったらしい。あん奴には挨拶にも及ばないぜ」

 と答えた。

 今にして、咲子は思い当るのだ。野草も、亡父の癩病、発狂、自殺、を知る人物なのである、と。医師一人で始末のつく事件ではなかった筈だ。誰かしら、召使いの中にも、それを知り、その後始末に立働いた人物が居るのは当然であろう。野草もユスっているのである。毎月、必ず月末に来ることでも、それを知ることができる。

 当時、癩病は、伝染病ではなくて、血筋であると思われていたから、咲子の思いは、当然良人おつとも癩病の筋をひき、自分に生れてくる子供も癩病の血をひくものと信ぜざるを得なかった。

 咲子は自分の人生が、暗い幕で行手を立ちふさがれたような絶望を思い知った。この運命からのがれるすべはないであろうか。彼女はすでにニンシンしていたのである。まだ良人もそのニンシンには気がつかない。彼女がそのニンシンを独り気がついたとき、その喜びを死の宣告に代えるための悪魔からの伝言のように、一也が呪われた血の秘密を語りあかしたのであった。

 彼女の胎内に宿った者の中には悪魔がすんでいるのだ。その胎児をおろし、呪われた浅虫家から逃げだすべきであろうか。彼女は良人を愛していた。しかし、それよりも、呪われた血がおそろしかったのである。

 自分をせんの生れの者と見て、呪われた血の一員に平然ひきこんだ未亡人もキク子も憎らしい。又、良人すらも、その悪魔の一人ではないか。良家との縁組みは不都合でも、下賤の者ならよかろうというコンタンには変りがないではないか。

 咲子はにわかに思いみだれて怒りに狂った。彼女は正司を詰問した。

「あなたが牛肉屋の娘を妻に選んだのは、こんな下賤な者なら癩病人の妻になっても苦情はでまいというはらですね。私はもうこんな家にはりません」

 正司は薄ノロではあるが、金持の子供らしく、チャッカリと、ずるいところ、抜け目のないところを失ってはいない。いずれ、こうなることを覚悟はしていたらしく、ふだんに似ず冷静に応じた。

「オレが癩病患者の子供だということを隠していたのは、済まないと思っている。しかし好きな娘に向って、実はオレの父は癩病になって狂って死んだと言えるわけがないじゃないか。決して悪意があって隠していたわけではない。オレだって、父が癩病を苦にして狂って自殺したときには寝耳に水、その呪われた運命にぼうぜんとしたものだ。父が死ぬまで、そうとは知らなかった。父だって、それまで、そうとは知らなかったのだろう。知らなかったからこそ、発病して、にわかに気が狂うほど驚き逆上したのだろうよ。どうか、我々の悲痛な気持を察して、カンベンしてもらいたい」

 こう打ちしおれてびられると、咲子も愛情のない良人ではない。しばしは返す言葉もない。思わずホッとためいきがもれてしまう。

「癩病って、顔も手足もくずれるそうじゃありませんか」

「そんな話をしてくれるな。今に我身もそうなるかと思えば、毎日鏡を見るのも怖しいばかりだよ。はじめはオデコや肩のあたりがテラテラ光って、コブのようにかたくなるということだ。父の死んだときは、オレはまだ十八という若い時で、癩病などは何も知らないから、父のどこに異状が現れたのか、気がつかなかったが、毎朝、鏡を見るときのオレのおののく切なさ苦しさを察してもらいたい」

「それにつけても、兄様は正直、潔白な人格者ですよ。離れがたい愛人の方と別れて、外国へお去りになったではありませんか。こんな立派な兄様がいらっしゃるから、貴方あなたきようさがなおさら腹立しいのです」

「イヤ、この兄は、あまり神経過敏すぎる。別にらいの徴候が現れたわけではないのに、居ても立ってもいられぬらしく、外国へ逃げてしまった。外国に癩を治す名医がいるならとにかく、そうまで慌てるのも、はなはだしすぎるというものだ。おまけに、外国へ逃げて、結婚したというではないか。外国人ならだましてもかまわないというのかね。人格者というわけにもいかないではないか」

「本当に結婚なさったの?」

「手紙でそう知らせてきたということだ。もう日本には帰らないと言っているそうだ。外国から帰ってきた人の話でも、アイマイ女と結婚して、酒を浴びて、身をもち崩しているということだ」

「それにしても、癩病だの、自殺だのということが、よく秘密に保てたものですね」

「さア、それだ。それがこの家のガンというものだ。癩病と知って、召使いの者はヒマをとる。一人去り二人去り、一週間目には、一人も召使いがいなくなったよ、中には、癩病と知った当日逃げだした弱虫の慌て者もいたほどだよ」

 大家にもかかわらず、大勢の召使いが一人残らずそう古くない理由がうなずけるのである。

 事件の起ったとき、未亡人のりりしい態度と処置は水ぎわ立っていたそうだ。なまじ召使いに隠し立ててはいけないと思い、一同に、癩病、自殺を打ちあけて、業病の家に奉仕もつらいであろうから、自由にヒマをとるように。ただ葬式までは居て欲しい。又、この事実を人に他言しないように。父母兄弟良人妻にも他言だけは慎んでくれ、と、多額の金を与えたという。その策が効を奏して召使いはヒマをとったが、その口から秘密がもれなかったという。肉をえぐり、皮をはぎ、顔の皮までそぎ落しているから、会葬者にたいを見せるわけにはいかない。それで、お通夜には苦労した。すぐ白木のひつぎにおさめ、花田医師は特殊な病状を会葬者に語りきかせてごまかさなければならなかった。

 かほどの大事件に度を失うことがなく振舞ったという女丈夫の未亡人が、万引せずにいられない妙な病気があるというから、皮肉でもあるし、いたましい。

 咲子は未亡人の心事を思いやった。彼女こそは家族全員の中で、咲子と立場を同じくする者なのだ。彼女もまた呪われた家とは知らずに嫁してきた人である。彼女は知らずに子らを生んだが、その子らにも呪われた血が宿っていると知って、その悲しさ驚きはいかほどであったであろう。それを思えば、未亡人がそれとなく咲子をいたわる気持が、その表現がさりげないだけ、深い同情がこもっているような気がしないでもなかった。そして、今も尚、気品高くりんぜんたる未亡人の姿を見、その裏にこの悲しさが秘められていると思えば、咲子も我が身を省み、自分もこの運命に辛抱し、悲しさに堪えるべきではないかという考えにもなるのであった。

 この家をでて尼になろう。そんなことをトツオイツ考えながら、一日は二日になり三日になり、ニンシンの知れないうちに胎児をおろしてと思い焦るうちに、未亡人の目にニンシンを見破られてしまった。胎児をおろして尼寺へかけこむことも、もはや不可能となったのである。

 身分ちがいの嫁と思えば肩身もせまかったが、こうなってみると気が強い。と言って、凜然たる未亡人の気品には勝てないし、ひどく虚無的なキク子にも圧倒されざるを得ないが、弟の一也の皮肉だけは、もう怖くはない。むしろ、こうなると、家族の中で一番気のおけない相手であった。

 一也が書生に似合わない舶来の写真機をいじくりはじめたから、

「一也さんも、万引やるんじゃないの。あなた方には怪しからぬ血がいろいろとこんがらがって流れているのだから」

「フン。その代り、天才の血が流れているのさ。もっとも、キミの旦那だんな様だけ、天才の血が外れているらしいぜ。このウチにバカの血だけはないはずだが、どうも奇妙だ。すると癩病の血も万引の血も外れているかも知れねえな。そう思って我慢するがいいぜ。癩病一家へ御降臨あそばしたからッて、牛肉屋の娘がにわかに気が強くなるのは考え物だな」

「あなたの何が天才なのさ。ちょッとした学問を鼻にかけるのは見苦しいわよ」

「ハハ。愚物には分らねえのさ。マ、写真をうつしてやるから、せいぜい良い顔を工夫するがいいね」

 一也はにわかに写真に凝って、女中から来客まで、やたらに撮しまわる。昔の機械だから、大そう大きな箱で、黒幕をかぶってやる。現像も自分でやらなければならない。始めは不出来であったが、どうやらうまくなってきた。彼は猛烈な凝り性で、昼夜をわかたず、写真にかかりきっているようであった。

 浅虫家はもともと地方の旧家で大金持であった。千町歩ちかい田地を持っている上に、山林や海抜二千米ほどの山岳までいくつとなく所有している。その山林から銀がでたり、十年ぐらい前から大して苦労もしないのに石油がでて、前途ますます有望、居ながらにして益々大金がころがりこむこと明々白々、まったくお金などというものは、この家にとっては湯水と変りなくタダで出てくるものなのである。

 これより石油の大会社をつくり、大発掘しようというので、薄ノロの正司は多忙である。ところが良くしたもので、薄ノロながら、会社管理については、彼は決して薄ノロではない。もっともスギ子未亡人というさいえんが背後に控えてサイハイをふるい、一々指令を発している。正司に自ら発明する才がなく、小才をはたらかそうとする野心がないだけ、かえってあぶながない。二十三の弱冠ながら充分に社長の重責を果している。咲子の知りそめた書生のころとは打って変って、日に日にかんろくがついてくるから、咲子も案外な思い、あらためて、たのもしくも、いとしくもなる思いであった。結婚したてのころとちがって、正司を訪ねてくる人は、立派な大紳士、大紳商という見るからに威風堂々たる人々で、正司はそれらの人々と何のヒケ目もなく談議している。若僧だけに、甚だひき立って、大紳士にもまして立派に見える。咲子もいつまでも牛肉屋の娘の気持ではいられない。正司と同じ速力で奥様の貫禄をつくらなければならないが、追いつきがたい程であった。

 ある昼下りのことである。花田医師がフラリと咲子の部屋へやってきた。なんの遠慮もなくヌッと大きな顔を現して、

「やア。若奥さん。あなたのところへゴキゲン伺いは今日がはじめて、御降嫁以来していたが、うん、こうして御対面、シミジミ拝顔するとさすがに正司君は目が高い。ヒナにはまれな美顔ですなア。いつだったか正司君の診察をしてあげた時は、あなたはまだ山家育ちの風情であったが、今ではすでに立派な浅虫家の若奥様。イヤ、お見事、お見事。天性利発のさががなくては、こうは変るものではない。当家の客人たるヤツガレも、一安心、また敬服もいたした。あつれ、天晴れ」

 と大そう浮かれてお世辞がよい。その筈である。彼は手にウイスキーのビンをぶらさげ、又片手にはカップを持っている。本日はあいにく未亡人もキク子も外出しているので、咲子をさかなに一杯かたむけるコンタンである。すでにホロ酔いのキゲンであった。

「女中というものは口サガないから、すでに御存知であろうが、かの母と娘なる深窓の二女が外出あそばすと、お帰りのミヤゲが多くてねえ。しかし、未亡人は、常にあなたの服飾について意を用いておられる。意のあるところは充分に感謝しなければなりませんぞ」

 どっちが口サガないか分りゃしない。

「昼のうちから御酒を召上って、急病人ができたときにどうなさいますの」

「ナニ、医者は東京にワシ一人ではあるまいて。第一ワシは漢方に洋学のサジ加減をちょッと加味したような雑種なのさ。ワシのせがれが三年前に医学校を卒業して、今ではワシよりもサジ加減がよい。特に婦人には親切をつくすそうだから、あなたも診てもらいなさい。そういえばあなたもニンシンの由承ったが、当家のういまご、まことにお目出たい」

 咲子はからかわれていると思った。あまりにも、皮肉、残酷なからかいというものだ。

 咲子は涙ぐんだ。

「先生は呪われて生れる子供をフビンと思わないのですか」

 こうえんじて詰問すると、まさかそれを知るまいと思っていたらしく、花田はさすがにビックリ仰天、酔眼をパチクリさせて、しばし酒臭い大息をフウフウ吐いている。

「フン。正司君もちかごろは見ちがえるような若社長ぶり、見上げたものだと思っていたが、持って生れたバカの性根は仕方がない。余計なことを言わなければよいものを、無益に人を嘆かせるばかりのものを」

「いいえ。私がそれを知りましたのは主人からではありません。一也さんが、まるでヨソのウチの話のように皮肉タップリ語っておきかせだったのです」

「フン。あの一也が。そうだったか」

 花田はフキゲン千万な面持だった。

「あの小才子には困ったものさ。同じ兄弟にも色々あるものだ。キョロキョロと気をまわしてばかりおる」

 花田は一也を好まぬらしく、露骨に不快を隠さなかった。

「ナア。浅虫家の若奥様よ。不快なことはすべて忘れてしまうがよい。忘れるが第一。忘れてしまえば、誰の血も呪われてはいないのだ。らい病の血も、万引の血も、忘れてしまえば、誰の中にも流れてはいないものだて。クヨクヨするのが、何よりよろしくない。つまらぬことが世間にもれては一大事。みんな忘れて暮しなされ」

 花田は咲子をなぐさめてくれた。彼は無遠慮で、礼儀知らず、わが家よりもワガママの仕放題にふるまっているが、こうして話をしてみると、シンは悪心のある人のようではなかった。

 翌日、咲子は未亡人の部屋へよばれた。あたりに人の気配のないのをたしかめた上で、未亡人は咲子をジッと見つめて、

「あなたは本当にお気の毒です。あの一也が、余計なことを言ってくれなければ、あなたも幸せに過せたものを。今となっては仕方がありません。今まで隠していたことは、おびいたさねばなりません。あらためて私からお願い致しますが、今まで通りここをわが家として、正司の面倒を見ていただき、生れる子供を育てていただきたいのです。あなたは利発で、落ちついた方。正司にはモッタイない嫁御です。私は拾い物をしたように、安心していたのです。あなたならば私が当家で果した役割を、代って果して下さることができるでしょう。れもおたのみいたしますよ」

 と、手をとらんばかりに頼まれた。未亡人も、今は秘密なく、ホッと安心、すっかり打ちとけたらしく、

「今度、キク子が花田さんの御子息と結婚することになりましたよ。生涯当家のヤッカイ者、売れ残りかと思っていましたが、これで私も肩の荷が一ツおりました。一安心です。はなむこは二十五、キク子と同い年ですが、父まさりの腕達者で、若年ながらとても評判のよい若先生なのですよ」

 未亡人はよほどうれしいらしく、その話になると飛び立つように浮き浮きした話しぶりであった。

 キク子の婚約はすぐ家中に知れ渡った。女中まで一様に嬉しそうな中に、一人はなはだ不キゲンなのは一也であった。花田が一也に対してそうであるように、一也も花田に対して悪感情をいだいているらしい。彼は姉を悪魔にさらわれ、そのイケニエに供されたように、内心、やみがたい怒りにもえているようであった。

 それまで、結婚を眼中にしなかったキク子であるから、縁談がきまると、いそがしい。年頃の娘なら当然それを前提として心掛けているような嫁入り仕度がほとんどできていないからだ。さア、嫁入り仕度の買物がいそがしくなると、万引の方もいそがしくなる。裏表両方合せて三人前ぐらいの嫁入り仕度がたちまち出来上ろうというもの。そうでしょう。母と娘の両方の稼ぎがダブルのだから、裏道の御買上げ品の方が集りも早いし、上物も多い。奥の部屋部屋にタンスが並び、着物がおさまるにつれて、土蔵の中にはより上等の嫁入りしよう貴金属がひそかに勢ぞろいをととのえているのであった。

 キク子の嫁入りの日も近づいてきた。キク子の顔は晴れ晴れとしている。今までとは人が変ったように、女らしさが急速に、めざましく生れ育って、にわかに万人の目をうち、心をひきつける初々しい色気があふれたっているのであった。咲子も思わずその美しさにひきこまれて、ウットリと、うれしい気持になるけれども、その血のことを考えると、どうにも切なく、可哀そうで、たまらない気持になるのであった。

 そして、ただ一人、うきたつ人々に背をむけ、たのしげな姉に皮肉な視線をジッとそそいでいる一也の心が、うなずけもするのである。あの血を負うて、うれしい嫁入りとは。おそろしく、暗くもなろうではないか。あの血を承知でキク子をもらう花田医師の心が解せなかった。あるいは神のようにひろく大きな愛の持主なのだろうか。あの粗暴な礼儀知らずにもかかわらず。あるいは、又、一也が疑っているように、悪魔の心の人であるなら、花田は何をたくらみ、何を狙ってキク子を嫁に貰うのであろうか。考えてみると、あまりにフシギで、あまりに陰惨で、人の世の常識にかけはなれすぎている。まるでワケがわからなかった。ただ、何か悪いことが起らぬようにと、咲子は小さな胸をいためていたのである。彼女の胎内でも子供は育って、これも次第に生れる日が近づいていた。


    *


 あと十日ほどで結婚式という浅虫家にとっては慌ただしい一日のことであった。

 しろかねの浅虫家の庭は下から五十尺余という高いがけになっているのである。その崖下に住んでいる人家に働いている人の目の前に二人の男が上からもつれるように落ちてきた。一しょに崩れたらしく三ツ四ツ崖の石が人間と一かたまりに落ちてきた。下の家では今庭普請で、たくさん庭石を寄せ集めた上へ落ちたから、たまらない。人々が直ちにかけつけた時すでに虫の息、医者をよぶヒマもなく死んでしまった。一万余坪の大邸宅、下からグルッとまわって、浅虫家へらせるまでが大そうな道のり。浅虫家の人が報によってけつけてみると、死んでいるのは、花田医師と野草通作であった。

 花田は昼から酔っていた。そこへ野草が来た。花田は飲んでいるが、野草はお茶にも菓子にも手をふれないという用心堅固な人物。妙なグアイなところへ、ちょうど家にいて写真をいじくっていた一也が珍客到来と二人を庭へひきだして撮影をはじめた。広い芝生でうつしているうちに、酔った花田が何か言ったことから野草と口論をはじめた。一也は撮影がすんだので、口論している二人を庭へのこしてサッサと室内へ戻ってしまった。二人は崖の上へ来て争論のあげく、足をふみすべらして崖下へ落ちたものらしい。

 けんして落ちて両方死んだのだから、仕方がない。ところが妙なことに、花田の方には変ったことは何もないが、野草の住所が分らない。浅虫家では誰も彼の住所を知る者がなかった。未亡人にきいてみると、彼は住所を誰にも言わなかったし、きき忘れてもいたというのである。野草の懐中からは手の切れるような十円札の百枚束、千円という大金のフクサ包みが出てきたが、立派な和紙で包まれていて、小銭入れと別になっているのを見ると、人にやる金か、人から貰った金か、特別な金であるらしく思われる。所轄の警察ではちょッと臭くも思ったが、喧嘩両成敗で、二人ともに死んだ以上は文句はない。ただ野草のたいの引取人が現れるのを待っていた。

 新聞の記事を見て、野草の女房がひきとりに来た。水商売あがりのまだ三十に二ツ三ツ間がありそうな若いちょッとした美人。大そう着かざって、威張った女だ。

「変だねえ。オレは殺されるかも知れないと、この人は口癖のように言ってたんですよ」

「誰に殺されるといっていたのだネ」

「さア誰だか知りませんが、医者の奴がいやがるから、危くッてお茶もめやしねえなんて言ってたんです」

「それなら話が合っている。その医者と組打ちして、崖から落ちて死んだのだ。医者も死んだのだから、あきらめなさい」

「そうですか」

 と、女房は屍体をひきとって退去した。

 ところが、その翌日、この女房をかこんで一人の婆さんと年のころ二十二、三のイナセな兄チャンが警察へのりこんできた。この婆さん野草の先妻でイナセな兄チャンは野草の長男であった。野草が浅虫家の下男の時は、邸内の小住宅に婆さんも長男も一しょに住んでいた。先代が急死すると、野草は浅虫家からヒマをもらい、妻子を離別して行方をくらました。数年たって、野草の家をつきとめてみると、大そうな金持になっている。婆さんが泣きつくと、毎月三十円ずつくれたが、後に手を合して五十円にして貰った。どうして金持になったのか婆さんは知らなかったが、野草が死んだので今のカミサンに会って事情をきいてみると、野草は働いて金を稼いでいたのではない。何もしないで、毎月千円ずつ金がはいってくるのである。家の中をひッかきまわしても銀行預金というものが在るらしいようには見えないから、今にしてハッキリしたが、その毎月の千円は浅虫家から出ていたものに相違ない。今のカミサンは彼が死ぬまで浅虫家のことは知らなかったが、先妻の婆さんには思い当るフシがある。浅虫家の先代は何かで急死したのである。野草は案外口が堅くて、らい病のこと自殺のことを先妻にもらしていなかったが、ただならぬ屋敷の様子で、何か大きないわくがあることは察せられたのである。

 毎月千円という大金を五年間もゆすッていたとは驚くべきこと、いかに先方が大金持にしても、よほどの秘密に相違ない。それほどの大秘密を握っている人物を生かしておきたくはないから、これは殺されたと見るのが正しいようだ。この秘密は先代の急死に関係していることだから、その秘密を出入りの医者が握っているのは当然のこと。そこで秘密を握っている二人が、自分一人でうまい汁を吸いたいのは人情であるから、二人で殺し合いをしたようにも考えられるが、浅虫家の立場から考えてみると、二人一しょに殺してしまえば永久に秘密のれることがなくなるのだから、二人を殺してしまいたいのは更に必死な願望であるに相違ない。

 野草の長男はちょッと才走った兄チャンで、人間と一しょに三ツ四ツ崖の石が崩れて落ちたのはおかしい。シンコ細工の崖じゃアあるまいし、人間が多少喧嘩なぐりッこをしたところで、地震が起りやしまいし、コチトラはトビだから、崖を見れば分る。浅虫家の崖は念入りの石組み、人間が足をすべらしたって、石が一しょに崩れるような細工じゃない。これは、そこへ登ると落ちるように仕組んだ者があったに相違ないとにらんだ。そこで三人警察へ乗りこんだのであった。

「しかし、よくまア憎い二人を一しょにそろえて、あつらえ向きに仕掛けの石の上へ乗せることができたものだな」と警官は笑って、

「お前の父は浅虫家をゆすっていた悪者ではないか、よくまアおそれ気もなく、そんなことが言って出られたものだ。その話しぶりじゃア、ゆすられている浅虫家が大悪者で、ゆするのが当然というようじゃないか」

 と、ひやかされて追い返された。

 そこで野草の長男は考えた。フン、警察の奴はうまいこと教えてくれた。犯人なんぞをふんづかまえても、一文にもなりやしないが、浅虫家の秘密を握れば、毎月千円には確かになる。こんな大モウケは当今ほかに落ッこッているものか。ちょッとはモトデがかかったって、秘密を握れば〆たもの。五年前に雇人がヒマをもらッたというから、それを探してきいてまわると、必ず何かがつかめるだろう。全部は摑めなくとも、野草の子供と名乗れば若干匂わすだけで先方はふるえあがって千両包むはず。奴め、こう悪智恵をめぐらした。

 そこで母の記憶をたどり、横浜のオ月ドン、ばら郡矢口村オキンドン、浅虫家の故郷から来ている何々ドン、何子チャンというのを手がかりに雲をつかむような捜査をはじめた。路銀を工面しては東奔西走、よほど悪智恵にたけ、手腕にたけているらしく、十日もたつと、なんなく秘密のアウトラインを探りだしてしまった。

 浅虫の先代は癩病を苦にやんで発狂して自殺した。それを普通の病死と称して世間をごまかしたのは花田医師の助力である。さすれば花田がゆすッていたのは当然のこと。ますますもって父と花田は浅虫家によって謀殺されたに相違ない。この殺人の証拠を握れば、毎月千円どころの段ではない。浅虫家の大身代を半分もらうのもお易いことだ。実に大運が降ってわいてくれた、とほくそえみ、更に殺人の証拠を握るべく、努力しようと思ったが、これは素人が外部からのぞいただけでは、とてもどうなるものでもない。ええ、当って砕けろ、と浅虫家へのりこみ、わめきたてると、未亡人はキッと制して、

「花田さんとお前の父御を当家の者が殺したとは、何を証拠にお言いだい。無礼のことを申すと、その分には捨ておきませぬぞ」

 証拠といわれるとグッと詰って、こればッかりは、どうにも言い返してやれないから、

「エエ、畜生め。何が証拠がいるものか。癩病やみの血筋の秘密を握られて二人の男を殺したと言いふらしてやるから覚えていやがれ」

「なるほど当家は癩病の筋には相違ないが、人殺しと言われてはカンベンはなりませぬ。出るところへ出て、もう一度、同じことを申してごらん。癩病は当家ののがれがたい運命、それは覚悟いたしているから怖れはせぬが、人殺しと言われてそのままに済まされぬ。訴えて出るから、さ、一しょにおいで」

「フン。バカめ。誰が警察なんぞへ出向いていられるか。癩病は当家の筋だとハッキリいったな。その言葉を忘れやしめえ。明日から日本中駈けまわってわめきちらし言いたててやるから覚えてやがれ」

「待ちなさい」未亡人は静かに制して、

「お前の父にはその口封じに月々千円のお金をあげていたが、お前がその秘密をまもってくれたなら、お前にも父と同じことはしてあげよう。秘密はまもってくれるだろうね」

「ハナからそう出てくれるなら、何も余計な口は動かしませんや。口は案外堅い方で」

 と千円もらってフトコロに入れ、門を出るところを警官に捕えられた。この警官は彼が警察へ三人づれで押しかけて来たのを見覚えていたから、ハテ、何か悪事をたくらんでいるのではないかと、じんもんし、フトコロをしらべると手の切れるような札束で千円。サテハと署へひッたてた。

「ナニ、ユスリ、タカリなんぞするものですか。もらってきた金でさア。ウソだと思ったら、浅虫さんへきいて下さいな」

 浅虫家へ問い合せると、いかにもれてやった金。決してユスリ、タカリではありません、という返事。

 そこで、これは怪しい、何かあるな、と、かえって警察の第六感をシゲキしてしまった。そういえば、かねて野草の長男が言った通り、あのがけから足をふみすべらしたにしては、たかが格闘ぐらいで、地震ではあるまいし、石が同時に三ツ四ツ落ちたというのは解せないことである。ひとつサグリを入れてみようということになった。


    *


 相手が大家であるから、ウッカリ間違えると取返しがつかない。署の方から結城新十郎に応援をたのんだ。新十郎の一行は崖の上下をメンミツに調べたが、崖の石が四ツ崩れて落ちている。その他の石には影響がなく、ほかに崩れそうな石は一ツもない。

 家人をはじめ関係者すべて一人一人しらべてみると浅虫家の風変りな内容、癩病の筋のこと、先代の狂死のことも、すべて判明した。まことに気の毒な家族であるが、人殺しの容疑とあれば、仕方がない。

 新十郎は取調べが一段落すると、浮かない顔。刑事にわかれて、例の一行四人だけになると、馬をめぐらせて、区役所へと向う。彼がそこで調べたのは、五年前まで浅虫家にいた使用人たちの原籍であった。

「私はこれから五年前の召使いを一々訪ねて廻らなければなりませんが、あなた方はそんなことに興味はお持ちにならないでしょうね」

 虎之介はバカらしそうに、「そんなことが、今回の殺人事件に何か関係がありますか」

「さア。それは分りません。しかし、今回の事件でしたら、二人がどんな方法で誰に殺されたか、大分当りはついています。だが、この事件に至っている大体の秘密が知りたいのです。なにしろ、秘密を握っていた二人の人は死んでしまったのですから。そして、今我々に分ってることは、殺人動機として充分うなずけるものですが、しかし、たぶんこうだろうと人々が推測しているだけのことにすぎません。当時ここにいた人は今は一人も居ないのです。しかし、何がでてくるにしても人の心を明るくしてくれることは出てくるはずはありますまいよ」

「ウーム。けいがんず、そこから当り始めるのが順序でげす。ヤツガレもチクと同行いたしましょう」

 と花迺屋がもつともらしく打ちうなずくから、虎之介も負けていられない。ナニ、バカな、といいながらも、手順を略してドジをふんでは心外であるから、そこで三人づれが、旅行することになった。

 昔の女中たちの話からは、ほとんど今までに分っている程度のことしか知ることができない。七人いた女中のうち全部はまわらなかったが四人には会った。当時、男の使用人は三人居た。野草のほかには、植木屋が一人、車夫が一人。これだけが庭内に宿をもらっていたのであるが、車夫も植木屋も今は行方が知れないのである。

 女中たちの証言で、特に異様なことが一ツあった。新十郎は必ずこうくのである。

「奥様と娘のキク子さんは毎月どれぐらいの買物をなさるのだね」

「ハア、よくは存じませんが、時に一軒の店から五千円、一万円等とばくだいなものがあったようです。それはまア貴金属類でございます」

「そのツケに書いてある半分ぐらいが万引の品なんだね」

「ハ?」

「奥様とキク子さんが万引なさッた品物のことさ」

「ハア。万引でございますか? あの大家の奥様、お嬢様が万引なさる筈はございませんでしょうが」

「ホウ。東京では浅虫の奥様、お嬢様の万引といえば、かなり知れている事実なのだが」

「いえ。そんなこと、きいたことがありません。その筈がないではありませんか」

 今までの四人の女は、らいのことは渋々肯定しても、万引の事は必ず否定するのであった。

 女の方の調べは終って、あとは二人の男であるが、どうにも行方の知り様がない。

 車夫の方は東京でモーローでもやっているのか、てんで故郷へ寄りつかないから、どこにいるか分らないが、ヒマをもらった当座はなんでも、ためた小金で小酒屋のような店をもったが、自分がのみつぶして失敗したという話である。退職金にもらった金が、女中でも千円以下ではないから男は相当もらった筈で、小さな店をひらくには充分だったに相違ない。しかし彼が店をひらいて失敗しても、その後主家をゆすっていないところを見ると、彼も女中なみの秘密を知るだけで、直接たいの後始末などにはたずさわらないようである。彼は浅虫家の小作人の子供であるが、その家の者は顔をしかめて、

「あの野郎は三人兄弟の末ッ子ですが、なんしろ雪国の野郎は大酒のみで、なまじ小金をもらったのが却っていけなかったようですよ。三年前までは盆になると戻ってきて景気の良さそうなことをいっていましたが、店をつぶしてからは手紙一本よこしません。恥サラシをやらなきゃよいがと心配しているのです」

「年はいくつだね」

「今年は四十になりやがった筈です。女房子供五人家族ですから、妻子が哀れですよ。女房はこの村からでた女ですが、わりとシッカリ者で、なんでも貧民くつのようなところで内職して子供だけは育てているそうですが、こまったものです」

「すると離縁したのかね」

「いいえ。時々金をせびりに行きやがるそうで、十銭二十銭の血と汗の銭をせびって消えて行きやがるそうです」

 女房の実家できいてみても同じ程度のことしか分らなかった。

 植木屋の行方の方は、さらに雲をつかむようなものである。彼の生れは秋田であった。三人はそういう遠路まで出向いたのである。彼の故郷の家人は頭をかいて、

「どうも、あの野郎の行方は全くわかりません。元はこの殿様のお屋敷の植木職の親方のところへ十三の時から住みこんだのですが、二十一、二のころ、浅虫家へ親方からの紹介で住みかえたのです。五、六年つとめましたかね。別に女房をもらったような話もききません。こっちからあの野郎のところへ便りをだしたら、先日ヒマをとって出たという話でそれから五年になりますが、どこにいるともいってきません。独り身で気軽のせいでしょうが、しかし、もう三十一、二の筈、どこで何をしていやがるかサッパリ心当りがありません」

 どうにも仕様がない。それでも車夫とちがって、親方の住所が分るから、東京へ戻って親方の所も訊いてみた。親方も頭をかいて、

「ヘエ。どうもあの野郎は出来損いで。どこで何をしていやがるか、行方が分りません。職人の腕は良いのですが、腕にまかせて、よその職人が刈りこんだばかりの庭木を頼まれもせずに乗りこんでチョイと手を入れてくるような出すぎた生意気野郎で、それが面白いという方もありましたが、そういう奴ですから、若造のくせに一パシ名人気どりで、鼻もちのならないところもありました。それがために身をほろぼしているのかも知れませんや」

 どうにも分らない。新十郎は残った女の居所をたぐり、とうだい元くらし、神楽坂で商家の嫁になっている二十五のツネという女を訪ねた。ちょッと渋皮のむけた女であった。

「私は新聞を見て、さてはと思っていました」

 と、今までの女と打って変って、おしやべり好きの女らしい。

「思い当ることがあるかね」

「思い当る段ではありません。どうしてあれが忘れられるものですか。オノブサンという三十五の人と私が奥の女中でしたが、まだ春先の午後三時ごろというのに奥で戸をしめる音がしますから行ってみますと、戸をしめていらッしゃるのは奥様で、お嬢様が廊下に見張りのように立っていらッしゃるのです。お嬢様は私をにらみつけて、花田先生に来ていただくように、と仰有おつしやるのですよ。花田先生をお連れしますと、呼ぶまでは誰も来てはいけないというキツイ御命令で、夕飯も召上らず、真夜中の十二時まではヒッソリと物音もありませんでした。夜中に私どもが一室によび集められ、旦那だんな様は癩病を苦に狂死なさったが、必ず他言してくれるな。一同にはヒマをやるから葬式がすんだらひきとるように、と大枚のお金を下さいました」

「屍体の始末に手伝った者はいないかね」

「女中は一人も奥の部屋へは召されませんでしたが、下男の野草さんと植木屋の甚吉さんが奥へ召されてズッと出て来ませんでした。車夫の馬吉はかんおけを運んで来ましたが、運んできて、廊下まで持って参っただけで、これも手伝ってはおりません。正司様、一也様はまだ子供ですから、これも奥からは締めだされて、女中のたまりへいらして心配そうに奥の気配を気にしていらッしゃいましたよ。下男と植木屋はどういう御用があったのか、ズッと葬式の終るまで姿を見せませんでしたが、秘密がもれるといけないからでしょうね。私がヒマをもらう日になって、その時はもう、女中の半分はヒマをとってからですが、野草さんだけヒョックリどこかから戻ってきました。私がヒマをもらう時はまだ植木屋の方は戻りませんでした。下男の野草さんと医者の花田さんが、ゆすっていたのは当然ですとも。旦那様は自殺ではありませんね。誰かが殺したのです」

「誰が殺したと思うね」

「それは分りません」

 ツネは言葉を濁してニヤニヤしたが、

「私は奥づきの女中ですから、存じていますが、お嬢さまはニンシンなさっていたのです。殆ど外出をなさらないお嬢さまがですよ。家族のほかに男気なんてない筈の奥にひッこんでいらッしゃるお嬢様がネ。これを知っているのはオノブサンと私だけ、ほかの女中は知りません」と、ツネは意味深長にシタリ顔をして笑った。三人はすでにオノブサンなる女中には会っているのであるが、浅虫家の郷里の女で年は四十、はなはだ冷静沈黙で、ほとんど何も語らなかったのである。

「そのお嬢さんのオナカの子はどう始末をしたのだね」

「私がヒマをもらうまでは、まだそのままだったと思いますよ。花田先生がついておいでだから、いつでも、どうにかなったでしょうとも」

「胎児の父は誰だと思うかね。思う通り、言ってごらん」

「それは分りやしません。ですが、奥へ出入りする男といえば、旦那様、お兄様、花田先生、この御三方のほかにはありません」

「博司さんの男友だちは」

「そんな方は奥へ出入りなさいません」

 意外なことが分ったが、最も重大な人物博司は海外に退去し、今や秘密を知る唯一の人物、植木屋の甚吉はまったく行方が知れない。こうなると、海の外まで追って行くことはできないから、どうしても植木屋を探さなければならないことになった。再び親方を訪れて、

「どうだろう。甚吉の友だちというのは居ないだろうか」

「それが、それ、先日もお話いたしましたが、生意気な野郎で、名人気どり、仲間を怒らせやがるばかりで、仲良しなんて一人だって居やしませんや。色女なら一人ぐらいは居たかも知れませんが、あッちこッち手当り次第、別にこれというきまった女は少いようで。あの野郎ばッかりは、こッちで身を堅めさせてやろうという気持になりませんや。フン、という顔をしやがるのでね。ウチのカカアなんぞ、一度親切を起したばかりに、ひどく腹を立てましたよ」

「そうかい。それでは内儀に会わせていただこうではないか」内儀は五十がらみの中々品のよい女。職人の内儀に似合わず、タシナミがあるらしい様子。

「さア。甚吉の親しい仲間は、私も目がとどきませんで心当りがございません。なんしろ同輩よりは一枚も五枚も上のツモリでフンという顔をしておりますから、友だちはできません。同輩のバカ話の話相手にも加わりませんから、甚吉がどこで何をしているのやら、何を思っているのやら、それも誰にも分りゃしません。実際腕はよいのだから、まア仕方がなかろうというわけで、御近所に、今は零落なさッていますが、元は二百石とりの武士のお方のお嬢さんが、しつけもよく、よく出来た方で、こういうお方なら甚吉には向くかも知れないと、話をしてみたことがあるのですが、貧乏ザムライの売れ残りがイキのいい職人のカカアにもらえるもんですかい、というあいさつで、この野郎、とあの時ぐらい腹の立ったことはございません。生意気と申したらありゃしませんでした。しかし言うだけのことはあって、読み書きなども相当にできましたし、洋学を勉強しようか、西洋の植木屋の極意書をチョット見てやろうか、なんて大きなことを申すような奴でした」

「浅虫家にいたころはチョイチョイ遊びに来ましたか」

「めったに参りませんでしたが、たまに来ることはありました。浅虫家からヒマをとって後は、一度も参りません」

 どうしても知りようがない。新十郎も処置なしとあきらめ顔、

「もうこれ以上は仕方がありません。三人づれの旅は今日で終ることに致しましょう」

 虎之介はダラシなくアクビをして、

「イヤハヤ。ムダのムダ。ばくだいの時間と路銀を費して、鼠一匹でやしない。心眼の曇る時はそんなものさ。私には旅にでる前から、こうあることがピタリと分っていたね」

「イエ、泉山さん。決してムダではありません。甚しく重大なことが分ったではありませんか」

「キク子のニンシンのことだろうが、それぐらいの隠しごとはどこのウチの女中でも必ずぎつけているものなのさ」

「それに甚吉の行方不明が今度判った重大な二ツではありますが、もっと重大な事があるのです。泉山さんはお忘れですか。未亡人とキク子さんは、あの事件が起るまでは万引したことがなかったのですよ」と新十郎は面白そうにクスクス笑った。そして、つけ加えた。

「さて、明日は皆さんと浅虫家へ参ることに致しましょう。明日が、この事件のたぶん最後の日になることでしょうよ」

 まだ道遠しと思っているのに、だしぬけの言葉。虎之介と花迺屋は、しばし、ぼうぜん。しかし、虎之介はやがて打ちうなずいて、

「なんのことだい。今度の二人殺しの犯人なら始めから分ってらアな、それは浅虫家の全員さ。それだけじゃア、昔のナゾがとけていないよ。なア、新十郎どん」

「いいえ、たぶん、全てのナゾの最後の日です。そして、恐らく、大そういんうつな日となるでしょう。では、さようなら」


    *


 虎之介の話をきき終った海舟、悪血をとりつつ黙々たること半時間あまり。朝食がすんで間もないらしく、虎之介の前には持参の包がちらかっている。

「その未亡人は、智力胆力兼備の女丈夫さ。事に処して神速適切、殆どあやまったところがない。沈着細心、大丈夫といえども史上にあまたその例を見かけぬほどの豪の者さ」

 と、意外な大さんを呈して、一息。

らい病とあるのは事実無根の作りごとだ。業病の汚名に甘んじても隠さねばならぬ大きな秘密があったのだ。言うまでもなく浅虫権六は自殺ではなかろう。殺されているのさ。下手人は長男博司。親殺しの大罪とあれば、癩病、狂死と家名に傷のつくことをいいふらしても、ひた隠しに隠さなくちゃアならねえや。癩病狂死ということを余りハッキリ使用人どもに申しきかせてあるのが手落ちだが、あの急場に処しては最上の分別であったろうさ。利巧者の未亡人のことだから、その手落ちには気がついている。親殺しを隠すに癩病の手を用いたが、若干ヘタに用いすぎたと悟ったから、次にはその癩病を隠すフリをしてみせなくちゃア、親殺しまでバレてしまう。そこで用いたのが万引の手さ。アヤマチをアヤマチによって隠す。犯罪を犯罪によって隠す。人の自然によくやる手だが、それを逆用しているのさ。実に芸の細かい人だよ。あいにく、花田と野草に秘密を握られたのが運の尽きだが、いかな達人といえども、火急にせまられて身を処す際には仕方がない。我一人じゃア手がまわらねえや。浅虫家ほどの金持なら、ゆすられる金額はアブがとまったほどのこともなかろうが、親殺しの秘密を握られているのがつらいところだ。キク子を花田家の嫁にやって一方の口はふさいでも、野草の口はふさげねえや。どうせ野草を殺すなら、花田も一しょに二人まとめて片づけるのが何よりと見たのは、これも策の得たるものであったろう。この殺人のカラクリは一也の写真道楽だ。仕掛を施したがけの上へ二人同時に立たせるには、写真をおいて外にはない。一万余坪の邸宅だもの、崖下から人がしらせにくるまでには、仕掛のアトを存分に取り片づけができようというものさ」たなごころを指すが如くにピタリと謎の数々を解きあかす。

 海舟の心眼を拝借した虎之介は、夢心地から解き放されて、勇気リンリン、そう遠くない白金の地へしばやま内を突ッ走ってさきまわりして、新十郎の到着を浅虫家の門前で今やおそしと待っている。

 ニヤリニヤリと、実に骨がとろけるほどねむたく快い時間であった。


    *


「アヤマチをアヤマチによって隠す。犯罪を犯罪によって隠す。人の自然によくやる手だが、それを逆用しているなア、この事件は」

 と、相好をくずし、口からヨダレをたらして虎之介が言いたてようとするのを新十郎は制して、一同は案内をい、浅虫家の奥の間へ通る。古田巡査を廊下へ立たせて見張らせ未亡人とキク子の二人をよんで相対した新十郎。

「奥様。土蔵の中へ御案内下さいませぬか」

 と、単刀直入。未亡人はキッと構えて、

「イエ。それは相成りませぬ。人様には見せられぬ秘密の品々がありますから」

「それは分っております。ですが奥様。五年間辛苦なさった万引の品々が見たいと申すのではございませぬ。その品々がおさまる前から在ったもの。万引常習者を装い、その品々を土蔵に積んで、人々の立入りを禁じる自然の口実をつくって、万人の目から隠さなければならなかったもの。又、この居間で他の御家族と別に、奥様お嬢様だけで食事なさらなければならなかった理由をもつもの」そう言いながら、新十郎の目は優しくうるんだ。

「御心労の数々、敬服も致し、衷心より御同情もいたしております。私どもは警察の者ではありませぬ」新十郎はくつろいでみせた。

「御当家へはじめて参りました時から、土蔵の中にある人物が五年間生きて暮していることは察しがついておりました。わからないのは、顔の皮をはがれ、御主人の身代りに埋葬された者は何者かということ。そしてそのようなことが起ったのは何故かということ。それを突きとめるために昨日まで若干苦労いたしましたが、御安心なされませ。甚吉の行方不明に疑念を起している者は、この世に一人もおりませぬ。両親兄弟も親方も彼の行方不明を案じてはおりませぬ。又、私どもの捜査については、警察の人々は関知してはおりませぬ」

 新十郎はますますくつろいでみせた。彼はクスリと笑って、

「しかし、奥様の御手腕はお見事ですなア。私が何より敬服いたしましたのは、癩病や万引のことではありませぬ。これはまア、ちょッと智恵のある者は考えつく手です。最大の妙手は甚吉の行方不明を目立たぬように工夫された急所の一手。すなわち、甚吉も野草同様、たいの後始末を手伝った如く見せかけ、その秘密を守るために当分両名に身を隠させたと見せかけて、葬儀も終った後になって、ヒョッコリ野草を帰宅させなさった一手です。同時に使用人全員一週間内にヒマをとらせなさッたのが、これにかんれんする妙手でしょうが、さすれば他の使用人はヒマをとる寸前に野草の帰宅を見て、甚吉も追ッかけ帰るだろうと軽く信じて退散したにきまっております。私どもの調査でも、誰一人この点に疑念をいだいている者はおりませんでした」

 未亡人もこういわれて軽く笑い、

「その智恵は花田先生が指図して下さったのです。この後始末ではどれぐらい花田先生のお世話になったか知れません。その後も陰になり日向ひなたになり当家をまもって下さいましたが、キク子の婚約がととのいましたのも一ツにはキク子を救って下さる有難いお志、又一ツには、先生の身に万が一のことが起った場合、若先生に代って当家をまもらせて下さるための有難いお志。なぜなら、あなた様が御存知の通り、この土蔵の中には、五年越しの陽の目を見ることも少く病気がちの人間が医薬を必要としているからでございます」

 未亡人は落着いて語りつづけた。

「すべてお見透しですから、今は何を隠しましょう。ただ、当時の切ない事情をおききとり下されませ。キクが庭内をしようようの折、矢庭に躍りかかった甚吉に首をしめられ手ゴメにされて身ごもったのでございます。一夜キク子が自害して果てようとするのを、かねて私が怪しんでおりました為に、事前に察して取り押え、事の次第を知るに至りましたが、父は激怒逆上のあまり庭前を通りかかった甚吉をこの居間へよびこみ一刀のもとに刺し殺してしまったのです。けつけて下さいました花田先生の親切なお指図により、甚吉の皮をはぎ、癩病、発狂、自殺と見せて葬り主人は生きてこの土蔵の中に今も暮していることはお見透しの通りでございます。博司は生来虚弱のところへ、この秘密の暗さにたえがたく、その切なげな日常を見かねて、海外へ送り、の地で安穏に生涯を終らせることにはからいましたのです」

「奥様、よくお話し下さいました」

 新十郎は一礼して立上った。

「午後三時には警察の者が参って、花田、野草を殺した犯人を捕えることになっております。ですが、それには玄関脇の応接間を拝借させていただくだけで沢山だろうと思います。私どもは無論のこと、警察の者も、再びこの土蔵の前へ立ち寄ることは有りますまい。奥様、末長く万引をお続けなさいませ。お嬢様が結婚あそばすと、一人分の食物から余裕を出すのは、ちょッと苦心なさいますなア。お気の毒ですが、花田、野草二人殺しの犯人一也さんは捕えなければなりますまい」

 新十郎は二人をうながし、深い感動をこめてぼうぜんと見送る二人の万引常習者をあとに、外へでた。

「母の心、母の苦心を知らなかった一也。彼もまたわが家の平和をまもろうとして、実はわが家の主護神まで殺してしまったのです。わが子にも隠しおかねばならなかった秘密があるために生じた悲しいカン違い、悲しい犠牲者というべきでしょうか」

 新十郎は苦しげにつぶやいた。


    *


「殺されたのが殺した奴で、死んだ奴は生きていたかい」海舟は手際よくだまされたのが快よげに笑った。

「そうかい。新十郎は見て見ぬフリをしてやったのかい。今や天下にこの秘密を知る者は、新十郎、花迺屋に虎之介、ならびにこの海舟の四名だが、野草に代ってユスリを働きそうなのは……」海舟がここで口をつぐむと、虎之介はドキリと胸に一発、大砲のタマをくらった驚き、ワナワナと今にも冷汗が流れでそうな不安な面持。

「ナニ、虎にはやれやしねえやな。何一ツ出来ないように生れついているんだなア」

 こういわれて、ホッと崩れるようなあんの思い。きようおくあたわざる虎之介であった。

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