母のぬいぐるみ

孤兎葉野 あや

母のぬいぐるみ

――ひと針ひと針 丁寧に縫われた、

  小さなぬいぐるみに触れるたび、私は前を向く力をもらうのです。――



母は、身体の強い人ではありませんでした。


それが、伝統ある都市の有力者の家に生まれ、

政略結婚により代々都市を統べる首長の家系に嫁いだことは、

母にどれほどの心労をかけたことでしょうか。



近隣の都市の中でも最も栄える一つと呼ばれ、

二百年前には海を渡り攻めてきた大国を退ける、旗頭にもなったというこの都市は、

多くの人々が暮らし、それ故に利害の対立もまた複雑で大きなものとなります。


それぞれに立場や思いを持つ住民達の齟齬は、

やがては有力者、その集まりの派閥という形で互いにぶつかり合い、

税の多寡や用途についての議論を筆頭に、いつも激しいものとなるのでした。



私が物心ついた頃には、まだ政務の場に向かう母を見送る記憶も多くありますが、

やがて床に伏せる姿を見舞うものへと、移り変わってゆきます。


母がそんな中で趣味としていたのは、

実家にいた頃から得意だったという縫物でした。


首長の弟・・・私にとっての父に嫁いだことから、

少し珍しい素材も使って出来るようになったのは良かったわねと、

いつも冗談めかして言っていました。



時にはまだ幼い妹と一緒に、母の傍にいたことは、

私にとっては楽しい思い出の一つなのでしょう。


私自身もまた、政争に巻き込まれてゆく運命ではありましたが、

母からの贈り物や思い出は、少なからず支えとなっていたのでした。



――そして今、私の前には火の海が広がり、

  多くの兵に武器や魔杖を向けられています。


いつかこうなることを、予想していなかったわけではありません。

魔法で戦う修練は、人並み以上に積んできた自負がありますし、

現にこうして、一対多の状況にも対応できています。


しかし、ただ一人の妹を危険から遠ざけるために、

こうして自ら狙われるような場所に出てきたと知ったら、母は怒るでしょうか。


決して、自らを犠牲にするつもりではありませんが、

自分よりも大切にしたいものがあるという気持ちに、嘘は吐けないのです。



私の攻勢に、幾度も退けられた敵対者達ですが、

ついに一つの魔力矢が、私の魔法をすり抜けて迫りました。


元より、死すらも覚悟していた身、

歯を食いしばり、敵を一人でも倒すことを優先しようとしましたが、

その時、懐から光が溢れ出し、私の周囲を優しく包みました。


それが、母の作ったぬいぐるみから放たれた、防護魔法だったと気付き、

私はほんの一息、そっと汗を拭うだけの時間を得ると共に、

決意を新たにしました。絶対に、死んでたまるかと。



結局、その魔法は短時間で消えてしまい、

あのまま戦い続けていれば、いつか力尽きていたのかもしれません。


けれど、他ならぬ妹が傭兵達と共に救援に現れ、

私の居場所を探るためにしたことが、同じぬいぐるみの魔力を辿ることだったとは、

もう母に何といえば良いのでしょうか。



体勢を立て直した私達は、騒動の黒幕を退けるべく、

ほんの少しの休息の後、動き出すことになりました。


甘えてくる妹の頭を撫でながら、母のぬいぐるみに触れると、

もう魔力の気配はどこにもありません。


それでも・・・この先にどんな困難が待ち受けていたとしても、

ひと針ひと針 丁寧に縫われた、

小さなぬいぐるみに触れるたび、私は前を向く力をもらうのです。

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母のぬいぐるみ 孤兎葉野 あや @mizumori_aya

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