第三話 曇天の龍、手加減をする
試験官は円盾を真正面に構え己の顔と胸を守り、西洋剣を突き出し腰を落としている。
西洋剣のような上段からの斬撃によって相手の頭蓋を粉砕する武器では、己よりも大きな生物相手にあまりに不利であった。
その形状ゆえ切れ味も抜群というわけではない、横薙ぎの斬撃ではとても龍の装甲を突破することなど不可能だ。
であれば、まっすぐ突きの姿勢で構えを取るのが最も合理的と言える。
対する蛟龍は、今のところ何の動きも見せていない。
彼女にとって、人間などという矮小な存在は取るに足らないだろう。
蛟龍は人間という生物の組織力こそ評価しているが、人間種という個体を別段高く評価しているわけではない。
一対一、このような局面で神格を得た龍が敗北するなどありえないのだ。
「もうすでに試験は始まってるはずなのに、お互い全然動かねぇな。蛟龍は相手の出方を伺ってるんだろうが……」
蛟龍は今この瞬間、どのタイミングでも試験官を殺すことができる。こんな茶番、一瞬で終わらせられるだけの実力を有しているのだ。
だが、試験官は違う。むしろ問題は彼の方だろう。
この街の冒険者と言えば、大型の魔物と戦うことはあってもせいぜいが巨大熊といったところ。
冬は寒くなるこの地域では、熊はとてつもない大きさになる。
だがそれでも、最大で10mに達しないほどだ。
対する蛟龍は、神龍の幼体でありながら全長24m。幅は3mにも及ぶ。顔だけでも試験官より大きい。
こんな大物相手に、いったいどうすれば戦えるのか。試験官もそれを計っているのだろう。
腹を斬ろうにも届かない。心臓を突こうにも、そもそも心臓がどこにあるのか見当が付かない。
かといって頭蓋を割ろうものなら、強烈な咬合によって彼の肉体は砕け散るだろう。
どう考えても、彼では蛟龍とまともな勝負ができるビジョンが浮かばない。だからこそ、試験官は一歩も動けずにいるのだ。
もし不用意に一歩踏み出そうものなら、その瞬間粉微塵にされていてもおかしくはない。
硬直する二人に、酒を持ち寄り見物に来ていた冒険者たちがヤジを飛ばす。
早く始めろだの、やられるのはわかってるだの、無責任な者ばかりだ。蛟龍の矛先が自分に向いていないからと、好き勝手に言っている。
そしてそんな冒険者たちを、同じく観戦に来ていた職員が厳しく注意していた。
もし観客席に蛟龍の視線が向けば、殺されるのは自分たちかもしれない。
これはあくまでも蛟龍が友好的であることを確かめる試験であって、まだ彼女が人類種の味方であると確証が取れたわけではないのだ。
だから職員たちも必死に冒険者を黙らせる。この場で死者を出してしまわないように。
「……試合が動かないな。私から仕掛けようか」
と、そんな時、ついに蛟龍が一言発した。
まったく動かない盤面と冒険者たちのヤジに、痺れを切らしたらしい。
彼女はまるで猫が伸びをするときのように、大きくその身体を撓めかせた。
その瞬間、明らかに試験官の顔が青ざめたのが見て取れる。
何か凄まじい一撃が来るのではないか。もしかしたら、この修練場そのものを破壊するほどの暴力が吹き荒れるのではないか。
そんな思考から、彼の背中にどっと汗が噴き出す。剣を握る手も自然と湿っていた。
……しかし、次の瞬間驚くべきことが起きた。
なんということか。試験官の方が先に動き出したのだ。
蛟龍は身体を撓めかせただけで、まだ何の攻撃も行ってはいない。
だが試験官は、まるで特大の突きを回避するように大きく右前方へステップを踏みながら前進した。
「蛟龍の奴、わりとガチじゃねーか」
傍から見れば、試験官が勝手に回避行動を取ったように見えただろう。
だが蛟龍という人物を知っている
試験官は蛟龍の放つプレッシャーに耐えられなかったのだ。
『強烈な攻撃が来るかもしれない』という思考を、いつの間にか『強烈な攻撃が来た』に変換させられた。
蛟龍の挙動と視線だけで、試験官は右前方へ誘導されたのだ。
しかしラッキーなことに、蛟龍の左半身、試験官から見て右前方はがら空きだった。
蛟龍という龍は蛇の身体に四足の付いた妖怪だが、顔から前脚まで中々距離がある。
そのため、頭突きや咬合を回避すればおのずとがら空きの胴へ潜り込めるのだ。
これ幸いにと、試験官は走る推進力をそのままに剣を両手で構えなおし、タックルの要領で腰を落としながら腹部へと剣を突き付ける。
鋭利な西洋剣は蛟龍の分厚い皮を突破し、そのまま内部へと侵入した。
……驚きだ。あんなにも絶望感があったのに、剣を振るってみれば案外戦える。近づいてみれば龍という生き物の弱点が見えてくる。
試験官はこの一撃で自信を持った。確信を持った。
どれだけ巨大な存在であろうと、知恵を振り絞り理合いをもってすれば勝てるのだと。
「嵌められてる。いや、これがアイツなりの手加減か」
しかし忘れてはならない。試験官はそもそも、蛟龍の術中にはまっているのだということを。
試験官が前へ進むことができたのは何故か。もちろん戦いを恐れぬ勇猛な精神が前提にあるだろうが、そもそもは蛟龍が放ったプレッシャーによるものである。
彼の動きは、ほぼ完璧に蛟龍によって制御されていた。
彼が右前方へ回避行動を取ったのも、彼が龍の懐に入り込むことができたのも、すべては蛟龍の意思によるものだと。
であれば、この僥倖こそ蛟龍の仕組んだモノ。
「人間でも龍と戦えるんだと、この場にいる冒険者たちにパフォーマンスしてるわけか。自分が人間の味方だと思わせるために。試験官は自分の意思で動いてるようで、蛟龍に動かされてる」
正直愚策だと、阮は思った。
確かに人間は、己が御せるものを好む傾向にある。逆に、手綱を握れない化け物にはとことん排他的だ。
所詮人間は、支配するか支配されるかの二つしか存在しない。自分が上か下か。
相手が自分より下なら、簡単に好きになるのだ。
そういう意味では、蛟龍の策は良いのかもしれない。
しかし、誇りある龍種としてそれでいいのだろうか。妖怪の中でも屈指の強者と言われる者として、それでいいのだろうか。
阮は、百鬼阮という男は、己より実力で劣る者に舐められるということを何よりも嫌っている。
その彼からしてみれば、蛟龍のやっていることは恥ずかしくて仕方がない。
試験官を視線と圧力のみで巧みに操り、己の身体に太刀を入れさせる。そんな行為が愚かに映ってならない。
こうしている間にも、試験官はまた距離を取らされ今度は蛟龍が前脚を突き出す。
それに対応させられた試験官が回避行動を取ると、そこにはがら空きの胴。
なんと滑稽な舞踏か。きっと周囲の冒険者や職員は勘違いしているだろう。
この修練場が、龍には狭いのだと。だから大立ち回りができず不利になっている。
逆に、もし龍が暴れ出したら狭い空間に逃げればよい。
そう思っているに違いない。本当は、彼女のパワーをもってすれば修練場ごと粉砕して余りあるというのに。
「……滑稽だ。あまりに滑稽だ。いつから道化師になった、蛟龍ッ!」
プライドがない。尊厳がない。野心がない向上心がない。
戦友として、同じ太古の妖として、阮は断じて彼女の行動が許せなかった。
ガンと地面を踏みしめ勢いよく立ち上がる。その立ち姿に、周囲の者は畏怖を覚えた。
これぞまさに、悪鬼羅刹の現出。大河を割り巌を砕く、妖怪殺しの修羅。
彼のひと踏みが修練場の岩石を震わせ、彼の眼力は道を切り開く。
己の正体もわからぬ悪鬼は、その日熱烈に火を噴いた。
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