古書店にて

1話

東京神田神保町。古本屋街の一角にその古書店はある。森連太郎がアルバイトをしている古書店だ。

「こんにちは」

 背後から声を掛けられ、すぐに振り向く。

「はい、何でしょう? あっ、紫子さん! どうされたんですか?」

「あの、夏目漱石の本はどこにありますか?」

「夏目漱石」という単語を聞いて、連太郎の心は弾んだ。紫子さんが夏目漱石に興味を持ってくれているなんて! 

「夏目漱石ですねっ。はい、こちらです。案内致します」

 連太郎は所狭しと本が並んだ店内を紫子と共に歩いていく。バイトを始めて約一年。連太郎が来る前は、本の並びが本当に乱雑で、芥川龍之介の隣にレシピ本が並んでいたりした。漸く本の並び方を整えてきたところだが、今回求められている本の場所はここに来た初日から分かっていた。

「本が沢山あって、趣深いお店ですね」

「有難うございます。……あ、ここです。ここからあそこまでが夏目漱石の本ですよ」

 連太郎が指差す書架にはズラリと本が並んでいる。

「ご親切に有難うございます。これだけ本があると、探すのが大変で。やはりお店の人に聞くのが正解でした」

「いえ、実は僕もまだ覚えたてでして……。夏目漱石は好きだから本棚の場所を覚えていただけで」

「そうですか。あ、何かお薦めはありますか?」

「えーっと、そうですね。どれもお薦めなんですけど、有名な『こころ』なんてどうですか? あ、これは高校の教科書に載ってるから読んだことありますよね。じゃあ『坊ちゃん』とか『吾輩は猫である』も面白いですし。他には、少し難しいですけれど『草枕』とか。えーっと、あとは……」

「ふふ、連太郎君は本当に本がお好きなんですね」

「す、すいません。僕、どれが一番お薦めか決められなくて……。あの、どんな本を読んでみたいのか教えてくれますか?」

「そうですね……」

 少女は考え込むようなポーズをとる。

「僕、今まで夏目漱石に関する本といったら哲学的なものばかりを読んできたんですよね。則天去私って知ってます?」

「ああ、はい、高校の倫理の授業で習いました」

 哲学的な夏目漱石の本ってどんなのだろう。

「則天去私というのは、自分の運命を自然に委ねる考え方で、漱石が晩年に至った境地といわれています。たしか『明暗』という作品に表れていたらしいですが」

「『明暗』! 漱石の未完の大作ですね」

「そうなんですか。すいません、僕はあまり文学の素養がないんです。今回、必要になったので本を探している訳ですが、やはり予備知識もないままではダメですね」

「いえ、そんなことありませんよ。漱石に興味を持ってくれたというのが嬉しいんです。これから知っていって下さい」

 これは営業の決まり文句ではなく、根っからの文学少年である連太郎の心からの言葉であった。

「ええ、そうします。……まずは手始めに『吾輩は猫である』を読んでみようかと。僕、猫が好きなんですよ。単純な理由ですが。それと『こころ』をもう一度読み返してみようと思います」

「あ、有難うございます。……ええっと、それでは、どれにします?」

「どれ、とは?」

「あ、そうですね。すいません。同じ本でも色々と種類があるんですよ。格好いいハードカバーか、持ち歩きに便利な文庫本サイズか。それに出版社によって、表紙や解説等に違いがあります」

「へえ、奥が深いですね」

「はい。お好きな一冊をじっくりとお選び下さい」

 


「では、これとこれにします」

 紫子は、一冊一冊じっくりと本を見て、かなり迷った後に本を選んだ。三十分以上は悩んでいたが、その間他の客も来なかったので連太郎は彼女の本選びにずっと付き合っていた。

「すいません、長くかかってしまって」

「いえいえ、大丈夫ですよ」

 事実、連太郎には優柔不断な客に待たされてイラついたなんて気持ちは微塵もなかったのである。

「本日は有難うございました。また来ます」

「あっ、有難うございますっ!」

 その一言がとても嬉しくて、連太郎は深々と頭を下げた。




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