エピローグ:夜の入り口①
冬の終わりの日、夜の入り口。
ファミル私設図書館にはペンの音が響いていた。
気づけば館内に残っているのはたったひとり、常連の男性だけになっている。
彼は毎週この曜日の夜に必ずここを訪れるのだ。
「こんばんは」
司書のフィーリアは彼の机のそばまで行き、ぺこりと会釈をする。今日の彼女は三角帽子をかぶっていない。
男性もまたフィーリアの存在に気づき、勉強の手を止め顔を上げた。
「こんばんは、フィーリアさん」
常連の男性――夕焼け堂書店に務めるジュリオは、やさしい照明が照らす館内でにこりと笑った。
「いいでしょうか、ここに座っても」
フィーリアは、ジュリオの快諾を得て彼の隣の席に腰掛けた。ジュリオは何とも落ち着かない様子で、そわそわと髪を触っている。
自分がこうして利用者に声をかけに行くことは珍しいので、この反応も無理はないだろうなとフィーリアは思った。
彼女は静かに尋ねる。
「いかがですか? 勉強の調子は」
ああ、と小さく声に出してから、ジュリオは答えた。
「悪くないですよ。前回の試験には落ちちゃいましたが、次こそは大丈夫だと思います」
「そうですか……」
ほんの少し安心したフィーリアは力を抜き、そっとまぶたを閉じた。
「魔術具取扱一級――またマニアックな資格を取ろうとするものですね」
彼は魔術に関する道具――高位の魔術書なども含む――の取り扱い資格を取得しようと、勉強に励んでいるのだ。初挑戦だった昨年は惜しくも不合格だったが、今年こそは必ず合格するのだと息巻いて図書館に通っている。
フィーリアはジュリオの勉強の相談にたびたび乗っていて、仕事の後や休日にこつこつと取り組んでいる姿をよく知っていた。それでも、今までは最低限しか声をかけなかったのだが。
ジュリオは完全にペンを置き、大きく伸びをしながら雑談に応じた。
「ええ。これがあれば仕事の幅が広がりますし、何よりフィーリアさんのお役にも立てますからね」
「……そういうのは要りません、ジュリオさん」
ジュリオはフィーリアの刺々しく聞こえそうな発言を明るく笑い飛ばした。日頃の仕事上の付き合いの中で、これくらいは慣れっこということだろうか。自分のことを読まれているように思えて、フィーリアは少しだけ悔しく思った。
「まあ、それは三割くらい冗談だとして。一級が取れればウチで取り扱える魔術書が増えますから、ここの仕入れもスムーズになると思いますよ。今はほら、高位魔術書だけ遠方の業者を噛ませてるでしょう」
「ええ、それは確かに……助かりますね……」
七割は本気なんですね、という至極真っ当な指摘を、フィーリアはぐっと飲み込んだ。おそらくここをつっこむと面倒くさい。
彼女がそんなことを考えていると、ジュリオははたと動きを止めた。そしてしばらく考え込むしぐさを見せると、はっと気づいたように目を丸くした。
「ところでフィーリアさん、僕の名前覚えていたんですか? うれしいような、ちょっと意外なような……」
……自分は、そんなに覚えが悪いように思われていたのだろうか。
彼女は一瞬苦い気持ちになったが、それもまた日頃の態度のせいだろうと結論づけた。この点は、実はアスタからさんざん注意を受けていたのだ。夕焼け堂の扱いが雑すぎる、大人としてもうちょっとなんとかしなさい、と。それもまた恥ずかしい話ではあるのだが。
フィーリアはごまかすように咳払いをすると、つとめて冷静(に聞こえるよう)に語った。
「……今日のあなたはここの利用者ですから。仕事の外でまで夕焼け堂さんとお呼びするのは、変だと思いまして」
「はは、そうかもしれませんね」
ジュリオのほうは、フィーリアの内心を知ってか知らずかにこにことしている。いや、おそらく知るはずがないのだが、何となく胸の内を見透かされている気がして、彼女はどこか落ち着かなかった。
彼女が早いこと用件を済ませてしまいたいなと思った矢先、ジュリオはああそうだ、と言った。
「ところでフィーリアさん、アスタちゃんから聞きましたよ。最近そこの机でがんばっていた学生の子に、いろいろお世話焼いてたみたいですね。彼女に気づきを与えるために、休日返上で先生のまねごとまでしたとか」
「な……!?」
そのことに触れられた瞬間、フィーリアは顔から火が出るような熱さを感じた。
彼女は真っ赤になった顔を両手で覆うと、普段の鈴の声とはとても似つかない、地の底から響くような声を出した。
「アスタさん…………明日のお茶は思い切り苦くしてあげようかしら…………」
「あ、あはは……」
ジュリオはごまかすように笑う。それからしばらく、彼はアスタや学生たちのことに関係ない話題を脈絡なく持ち出してはあれこれと話し続けた。そうやって彼が気を逸らしてくれたおかげで、フィーリアの顔の熱は徐々に収まっていった、はずだったのだが。
「それで、本当はどういうつもりだったんですか? あなたは面倒見のいい司書さんだと思いますが、普段そこまでする人じゃないですよね」
フィーリアが顔を隠すのをやめたのを見計らって、ジュリオは尋ねた。
彼女は露骨に顔をしかめながら、ぼそぼそと言う。
「…………利用者さんにお話しすることでは」
この人、興味津々じゃないの。フィーリアは口の中に苦い味が広がるのを感じた。
ジュリオもジュリオで引くつもりはないらしく、食い下がってくる。
「では、友人として聞いては?」
別にあなたは友人ではないでしょうと言いかけて、彼女はぐっと言葉を飲み込んだ。
そんなことを言ってしまっては、今日ここに来た意味がなくなってしまう。
フィーリアは少しだけ頭の中で言葉をこねくり回して、しかし結局いい言葉が思いつかなくて、ごく短い返事をした。
「……はい、それなら」
彼女は低めのヒールがついた靴を履いたまま椅子の上で膝を抱えて、ため息をついた。
行儀は悪いが、今くらいはいいだろうと思った。
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