パンと毛布~宝石~
片手を挙げて素早く反応したのはクルリナだ。
「んー? なくしてもいいものってこと?」
続いてアスタも。ただし彼女の中では、例によってすでに答えが出ているらしい。
「わたしは自分の存在がなくなったら困りますけど~、それ以外ならわりと何でも~」
「えー!? ちょっと大胆すぎない?」
「アスタさん、もっと自分を大事にしてください! あれ、自分のことは大事にしてるのかな……?」
あっけらかんと語るアスタを、生きている組は驚きの目で見つめている。
彼女らの視線を受け止めたアスタは、なぜか誇らしげに胸を張っていたが……。
「……まあ、アスタさんは特殊な例だとしても、私たちにはそれぞれ人生における大事なもの、楽しみがいくつもあるわけです。そしてそれは、大きくても小さくても往々にして手放しがたいものです。では議題を変えて、大事なものをどうして手放したくないのか、少し考えてみましょうか」
逸れかけた話題を、フィーリアが丁寧に元に戻した。
彼女は手のひらをアスタに向け、追加の質問を投げる。
「アスタさん、あなたはどうして自分をなくしたくないのですか?」
「それは~、わたしがいなくなったら、わたしが楽しくないからですね~」
アスタは楽しげに答えた。彼女も彼女でなかなか図太いなと、リリーメイは密かに感心を抱いた。
フィーリアは彼女の答えになるほど、と理解を示すと、今度はクルリナに目を向けた。見ればクルリナは、リリーメイの隣で指名を今か今かと待ちわびて、うずうずとした様子を見せていた。
「――ではクルリナさんは、どうして絵をやめたくないのですか? あんな顔で悩むくらいにはパンのこともお好きなんでしょう?」
フィーリアはほんのわずかに微笑む。もしかしたら笑っていないかもしれないが、少なくともリリーメイにはそのように見えた。
やっと指名を受けたクルリナは、よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに立ち上がり、閲覧机に両手をついて前のめりになった。どうやら、喋りたくて仕方がなかったようだ。
「確かにパンは好きよ。でも自分でも不思議なんだけど――好きなものを好きなだけ描いていたらそれだけで楽しくて、心がぽかぽかして、パンも毛布も要らないって思えるのよね」
クルリナは話している間じゅう、丸い目をきらきらと輝かせていた。リリーメイは、その光が先日、クルリナが自分に挿絵作家の夢を語ったときに見せたものと同じ輝きであることに気づいていた。
彼女は本当に絵が好きなのだなと、リリーメイは思った。
思うと同時に、リリーメイは自分の好きなものを堂々と言葉にできる彼女のことが、どこか自分のことのように誇らしかった。
クルリナは表に出ていないリリーメイの内心を知るはずがない。しかしまるでその気持ちに応えるかのように、白い歯を見せてにかりと笑った。
「あたし、絵を描いているととっても楽しい。手放したくない理由があるとしたら、ただそれだけね」
フィーリアは満足げにうなずくと、顔と身体の向きを中央に戻した。そして、
「……では最後に、リリーメイさんは?」
――その先にいるリリーメイに、まっすぐ問いかけた。
「私は……」
リリーメイは自分の膝と、その上できゅっと握られているふたつの拳を見つめた。
自分にも大切なものがあることは、彼女自身にも解っていた。
でもそれは、ほかのふたり、とりわけクルリナと同じ舞台に立って並ぶことができるほどのものなのだろうか?
リリーメイは視線をさまよわせた。しかしそれはほんのわずかの間のことで、その場にいる誰もが彼女の揺らぎに気づくことはなかった。
彼女は、下を見たまま口を開く。
「私は、自分の大切なものの先に、なりたい自分があって。それが失われれば、未来の自分が死んでしまうから……」
声が震えている。今にも彼女の胸はつぶれてしまいそうだった。なぜだろう、これは単なる模擬授業なのにと、彼女は芯から震えながらも不思議に思った。
声が途切れ、ふたたび視線が迷子になる。そのとき救いを求めるように横に向けた視界の端に、クルリナの絆創膏だらけの手が映った。
――ああ、シチュエーションの問題ではないのだと、リリーメイは自覚した。
夢だ。夢の表明には勇気が要るのだ。そのせいで自分は震えているのだと、彼女はクルリナと公園で語らったときのことを思い出しながら悟った。
あのとき、クルリナは堂々としろと彼女に言った。彼女の、胸の奥にしまい込まれた夢を買ってくれた。
その対価はお金ではなく安い飴ではあったけれど、クルリナはリリーメイの夢についたはじめてのスポンサーだったのだ。それだけに飽きたらず、物好きなクルリナは彼女を自分の夢に巻き込むとまで言った。
リリーメイは友達の手を見たまま顔の力を抜いた。こんな素敵な友達の手前、ここで堂々としないのは失礼に当たる。何よりまた、絵描きさんに怒られてしまいそうだから……。
ようやっと、リリーメイは顔を上げた。その顔は、楽しそうな微笑みに染まっていた。
「……私たちの未来は曖昧です。考えているとおりに進むか誰にも判りません。でも、だからといって諦めたら、絶対に望んだ未来は訪れないですよね」
一度話し出してしまえば、その後は驚くほどスムーズだった。
リリーメイの口からは、言葉がすらすらと紡ぎ出されていった。今なら頭の中に眠っているどんな想いのかけらもスピーチにできそうだと、彼女は思った。
「私、自分がどうして大事なものにこだわるのか不思議だったんです。人には秘密にして、宝箱に入れるみたいにして。そこまでして守るのはどうしてかなって。夢を持つのが恥ずかしいのかなと思ってたんですけど、少し違ったみたい。きっと傷つけたくなかったんですね」
彼女の長すぎる回答を、フィーリアは静かに聞いている。ほかの生徒たちも同様だった。
「私の大事なもの、夢を持ち続けていれば幸せになれるってどこかで信じているから。だから、いつか幸せの種になるこの夢を、壊さないようにしまい込んでいたんです」
幸せ。リリーメイは、ここ最近ずっと自身を悩ませてきた単語を自然と口にしていることに気づいた。
「――だから私、大事なものは絶対に差し出せません。夢をかなえて幸せになりたいし、夢を持っているとそれだけで幸せなんです」
幸せ。ずっと重たく考えてきたそれは、こんなにも軽やかな言葉だった――それは彼女にとってある意味衝撃的で、拍子抜けするような事実だった。なぜならつまり、それは、
「それでは、代わりに出せるものはありますか?」
「ありません」
――幸せが、決して特別な事柄ではないことの証明だったから。
「小さい幸せをなくすのだって嫌です。一個だって減らしたくないんです。もっともっと、毎日増やしていかなければ本当は嫌なんです」
リリーメイは目の前に立つ魔女に向かって胸を張った。続いてアスタと、自分に勇気をくれたクルリナを見てにこりと笑う。もっとも、クルリナは彼女の笑顔の意味が解らずぽかんとしているようだったが。
「でも小さい幸せって特別なことじゃないですよね。友達とお菓子を食べながら話すだけでいいし、ちょっときれいな景色を見つけるだけでもいいし、大事な人たちが喜んでくれれば満点です。少し大変でも、一日の終わりに笑うことができればきっと、その日の私は幸せです」
そこまで一気に言い切ってから、彼女はほんの少しだけ首を傾げる。そして自分の言葉を頭の中で反芻するかのように人差し指で頬をとんとんと叩くと、やや困ったように眉を下げた。
「なんだか私、とんでもない欲張りだったみたいですね」
そう語るリリーメイの顔は、言葉と裏腹にとても晴れやかだった。
「……あら」
彼女の視線をまっすぐに受けたフィーリアはポーカーフェイスを崩し、目を丸くして感心したように声を漏らした。
「課題、順調じゃないですか。安心しましたよ――リリィさん」
その日、ふたりの魔女とその友人たちは、小さな古図書館の真ん中で笑い合った。
リリーメイはそこで、彼女の言う小さな幸せを見つけたような気がしたのだった。
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