本とスケッチブック、絵と秘密②

 そして次の日。


 約束通りファミル私設図書館に集まったふたりは、昨日とまったく同じ席に向かった。前日は同じ机に誰も座っていなかったのだが、今日は先客がいる。亜麻色の髪をした、ござっぱりとした印象の若い男性だ。彼は分厚い参考書を広げ、必死に手を動かしてノートに書き込みをしている。クルリナは彼がよく見かける常連のひとりであることを、こっそりとリリーメイに教えてくれた。


 ふたりは彼の邪魔にならないように、そっと机を移動した。クルリナは昨日と同じようにスケッチブックを広げ、リリーメイは書棚から引っ張り出してきた雑多な本たちを何冊も積み上げている。彼女たちの使っている閲覧机は、とたんににぎやかになった。


 クルリナが絵を描く音と、隣の机の男性が何かを書き込む音が、ほこりっぽく静かな館内に響く。

 リリーメイはそれを聞きながら、手元の本の目次を順番に眺めていった。


 ……あまり、頭には入らない。


 集中しきれないリリーメイは、本を取っ替え引っ替えしつつ天井と手元、それからクルリナのスケッチブックを順番に眺めた。クルリナはそんな彼女の様子を気にすることなく集中し続けている。


「ねえ」


 彼女はクルリナの耳元に向かってささやく。


「クルリナちゃんは、それ、楽しい?」


 下を向いているクルリナは鉛筆を動かす手を止めない。

 それでも空想の樹木を描き出すスピードを少しだけ緩めたクルリナは、彼女の問いにためらいなく答えた。


「楽しいわよ」

「それってどれくらい?」

「んー、躍動する生の実感があるなってくらい。今のあたし、とっても生きてるーって」

「お、おう……」


 クルリナの独特なたとえ話は、リリーメイにはよく理解できなかった。とりあえず楽しいということだけを頭に入れ、見習い魔女は本の世界に戻った。しかし彼女の潜ったその世界は、普段と違ってあまり心地の良い場所ではなかった。机に広げた本たちの上で踊る文字たちに受け入れられていないような、どこか疎外感があるような――まるでとげとげした見えないものが彼女の胸を刺すようだった。


 こんなことなら好きな小説の一冊でも持ってくればよかったと、彼女はうっすら後悔した。とはいえここは図書館なのだから館内を探せば好きな本の一冊くらいは見つかるのだろうし、フィーリアに頼めばもっと簡単で、リリーメイ自身が探すまでもないのかもしれない。それでも――そんな簡単なことであっても、今のリリーメイにはこの席を立つ気力がなかった。


「リリィ、手が止まってる」

「……ごめん」

「謝らなくていいわよ、あたしは困らないし」

「……そうだね」


 結局、この日は幸せの定義についてさしたる成果も得られないまま解散となった。フィーリアとアスタは、図書館を去るふたりを穏やかに見送ってくれた。そのことがまた、リリーメイに昨日の『失敗』を思い出させた。彼女は下を向いたまま、図書館の敷地を後にした。


 ――その翌日、ふたりはまた図書館で落ち合った。


 クルリナは相変わらずスケッチブックを広げて絵に向かっている。しかし今日は教本とにらめっこしながら何かを描いているため、どうやら学校の課題に取り組んでいるようだった。


 リリーメイは昨日までと同じように雑多なジャンルの本――幸せのヒントがありそうに見えたもの――を閲覧机に運び、それらをぺらぺらとめくっている。幸福論とかいうタイトルの本もあったが、彼女にはまったくしっくり来なかった。


 彼女はしばらく本とにらめっこしていたが、やがて気力が尽きてしまい、『参考書』と一緒に本棚から持ってきていた小説を読み始めていた。それは彼女が好きな作家の代表作であり、彼女にとって思い出深い幻想小説だった。


「……はあ、いいなあ」

「リリィ、顔面崩れすぎ」

「えぇっ!?」


 なおも集中を切らさない友人から意外な指摘を受けつつ、この日も彼女の課題は解決しないままだった。


 ――そしてまたあくる日。


 今日のクルリナは例の趣味の絵に取り組んでいる。リリーメイは参考書をめくる手を止め、友人のスケッチブックに見入っていた。クルリナは相変わらず、この世に存在しない景色を描き続けている。彼女の目指すゴールがどこなのかリリーメイには解らなかったが、彼女の手の動きを見ているだけで楽しかった。絵が不得手なリリーメイにとっては、魔法が使えないクルリナの技術こそが魔法のように見えるのだ。それは魔術学生の彼女にはどこか不思議な心地であり、課題そっちのけで夢中になっている理由のひとつだった。


 さらにもうひとつ。リリーメイは単純に彼女の絵が好きだった。芸術学生としての彼女の実力はよく解らないものの、見ていると心の奥に波紋が絶えず起こるような、想像がどこまでも膨らむような夢のある絵――それがリリーメイの持つクルリナの絵に対する印象だった。


 その瞬間、彼女の頭の中で心地よい音が鳴った。


「……!」


 リリーメイは慌てて目線を手元に戻すと、広げっぱなしだった白紙のノートに短く何かを書き込んだ。彼女のペンは課題に取り組んでいたときとは比べものにならないほど活発に動いていて、自分でものがよく判った。彼女はそのほとばしるようなエネルギーにしばし身を任せてペンを走らせ続けた。


「……リリィ?」

「…………」


 クルリナに声をかけられた気がしたが、どこかに沈んで行ってしまった彼女にはそれが夢かうつつか、判らなかった。


 ――この日、ふたりは夕陽が傾き始めるまでそれぞれのタスクに取り組み、頃合いを見て解散することになった。カウンターでの見送りはアスタだけで、フィーリアの姿は見えなかった。


「ねえ、リリィ!」


 正面扉を閉め、門に向かって歩く短い道の上で、二歩後ろを行くクルリナはやや大きな声を出した。


「どうしたの? クルリナちゃん」


 リリーメイは彼女の方を向き直る。

 するとそこにいた彼女は、丸い瞳をきらきらと輝かせて――。


「明日、あたしとデートしましょ!」

「えっ!?」


 ――リリーメイが驚くようなことを、楽しそうに申し出たのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る