第二十六話 狭霧

 妖――狭霧さぎりは考える。どうすれば颯を捕食出来るかを。


 前回はせっかく弱点である女を用意したのに、とんだ邪魔が入った。退魔士。確かそんな風に名乗っている連中だ。自分の認識阻害の前では大した敵じゃなかったが、それでも腹立たしい。


 最初は颯と退魔士が戦っているところに割って入って、颯のきょくはずだった。しかしどういう訳か、退魔士はこちらに向かってきたのだ。一体何故。


 考えたところで答えは出ない。何故なら狭霧は以前その退魔士の女の兄を殺して喰っていたことなど覚えていなかったからだ。


「いっそ、あの退魔士の女から喰っちまうか?」


 ウォーデッドほどではないとは言え、強大な霊力を持った退魔士は食いでがある。場合によっては更なる力を得ることも出来るやも知れない。


 今なら前回付けてやった傷も癒えていないだろう。あの退魔士の霊力は覚えた。場所も探れる。やるなら今だ。


 とは思ったものの、ふと那岐の言葉が脳裏をぎる。


 例の計画。その準備には時間がかかる。下手に動いてあの白いウォーデッドに感付かれたら元も子もない。相手は十傑。それにどんな能力を持っているのかわからない。今の自分では太刀打ち出来ないかも知れないのだ。


 ここはやはり颯を優先的に狙うべきだろう。颯を喰うことに成功すれば、更なる力が手に入ることは間違いない。それに彼は危険だ。固さに自信があった自分の腕をいとも簡単に斬り落として見せた。このまま成長させれば、いずれ計画にも支障をきたす。そうなる前に消しておくべきだ。


 そのためには入念な準備が必要である。一人でも多く人間を喰って力を付けるのだ。


 狭霧は町に向かうことにした。そろそろ人間が多くで歩く時間である。朝の光が苦手だったのも過去の話。今となっては真昼の日光の下を堂々と歩くことが出来る。弱小の妖に過ぎなかった狭霧がここまで成長出来たのは、ひとえに那岐のおかげだ。


 那岐は自らの血を妖に与えることで、妖を強化して回っている。そのうちの一体が狭霧であった。何でも、彼の計画には強力な妖が大量に必要なのだとか。その計画自体にはあまり興味はなかったが、狭霧にとってはということだけで、この計画に参加する意味があった。


 生前の彼は病弱で、体育の授業も見学しているような子どもだった。学校ではいじめが絶えず、社会に出てからも上司や同僚、果ては後輩からもきつく当たられる日々。そんな生活に嫌気が差して楽になろうと自殺を図ったが、意識はそこで途絶えなかった。彼の魂は死して尚、救われることはなかったのである。


 それはかつて自分を苦しめていた者達への怒り。彼の魂は行き場を失い、この世に留まり続けた。すると、自分と同じような境遇の人間の何と多いことか。彼はそんな者達の負の念を集め続けた。そして同時に、他者を冷遇する人間の闇を憎むようになる。


 するとある日、身体に変化が起こった。腕が刃のように変形したのである。彼はその刃で、自分のかつての同僚を斬った。生暖かい血が刃となった腕を伝う。その感触に、彼は魅了された。


 彼は怨みのある人間を次々に襲う。夜、人通りの少ない時間を狙って、人間を襲うのだ。まるで小説に出てくる殺人鬼のようではないか。彼は殺した。殺して殺して、殺しまくった。そしてふと気付く。自分はもう病弱ではない。こんなにも軽やかに動くことが出来る。それは彼にとってとても喜ばしいことだった。


 彼の前にが現れたのはそんな頃だ。男は言った。「人間を喰えば、もっと強くなれる」と。そう言って、男は自分の腕を持っていた刀で少し斬り、血を滴らせた。


「飲め。それでお前はもっと強くなる」


 彼は迷う。そもそもこの男が何者かわからない。そんな奴の話を聞いて本当にいいのだろうか。しかし、同時にこうも思う。もっと強くなれるというのは魅力的だ。この世の悪をもっと斬ることができる。それは素晴しいことなのではないか。


 彼は男の言う通り、彼の血を飲んだ。すると、体の底から力が溢れてくる。これまでの自分がまるで嘘のように塗り変わって行った。


「それでいい。これでお前も俺の同志だ」


 男は那岐と名乗る。そして彼は、狭霧という新たな名を与えられた。


 それから十余年。狭霧は今でも人間を喰い続けている。ウォーデッドを名乗る者達の襲撃を受けたこともあったが、那岐の血のおかげか、容易たやすく撃退することが出来た。ウォーデッドを喰うことで特殊な能力を得られることがわかる。狭霧は益々ますますこの生活が気に入った。


 いつしか狭霧の狙う対象は、無差別になっていく。それは強さに対する執着が強まったことを意味していた。強くなるためなら人間などいくら喰ってもいい。人間は糧だ。強者たる自分の餌に過ぎない。弱者は強者の前にひざまずき、ただ喰われていればいいのだ。


 町へとやって来た狭霧。周囲には何も知らずに歩いている人間が多数。認識阻害に制限はない。発動していればどれだけ近づいても、逆にどれだけ離れていても狭霧の存在に気付く者はいないのだ。


 狭霧はその場で狭間を展開した。周囲から色彩が消え、その場に十数人の人間を残し、世界から隔絶される。ここでようやく人間達は騒ぎ始めた。


「何だこれ!?」

「どうなってるの!?」


 後は一人ずつ喰っていくだけだ。狭霧は目の前の女に目をつけ右の触手を伸ばす。胸を一突きにされた女性はその場で絶命した。


 悲鳴が上がる。しかしこの狭間からは逃げることは出来ない。狭霧は伸ばした触手を引き戻し、女の肩にかぶり付いた。まだ新鮮な肉は瑞々みずみずしく、臭みもない。狭霧は口元に笑みを浮かべる。


「そう焦んなって。順番に喰ってやるから」


 肉だけでなく、骨も噛み砕いて咀嚼した。人間達からすれば、これほど恐ろしい光景は他にないだろう。


 色を失った世界で、人々は震え上がる。逃げ場はない。誰もがその場に膝をつき、絶望する。


 何もない日常のはずだった。


 当たり前に一日が過ぎていくと思っていた。


 しかし現実は非情である。今この場にいるのは化物で、人間はその餌に過ぎない。その食事を邪魔できる者は、この場には存在しないのだから。





 この日、また一つの町で集団失踪事件が発生した。それに気付いた颯が現場に駆けつけたが間に合わず。妖は既に姿を消した後だった。


「またか、これで何件目だ」


 ここ数日。満ヶ崎では同様の失踪事件が数回起こっている。既に数十人の命が失われていた。


 颯は壁に拳を打ち付ける。


「俺が狙いなら、さっさと来ればいいだろう!」

「慌てるな、颯。それも奴の手かも知れない」


 颯を焦らせ、判断力を奪うことが目的なら、それは効果覿面てきめんだ。実際、颯は怒りで拳を震わせている。


 颯は先日、詩織が妖に利用されていたことを知っていた。また同じ事をして来ないとも限らない。


 それでも十六夜は冷静だった。残された霊力を読み取って、連続した失踪事件が同じ妖の仕業であるという証拠を突き止める。


「間違いない。両腕が刃になっているあの妖だ」

「居場所は、居場所はわからないのか!」

「落ち着け。そんなにわめいても、妖は出てこないぞ」


 十六夜に言われて、颯は大きく息をついた。確かに十六夜の言う通りだ。こんなことではウォーデッド失格である。


「奴の霊力は覚えた。奴の能力を上回れるかはわからないが、追えるだけ追ってみよう」


 そう言って十六夜は歩き出した。颯は大人しくそれに従う。


 時刻はちょうど十三時を回った辺り。夏の太陽がじりじりと肌を焼く。


 この方向は颯の通っていた大学の方だ。嫌な予感がする。その予感が的中するまでそう長くはかからなかった。

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