第二十一話 夢/前

 朝、颯はいつものように目覚める。今日は一限から講義があるので、早々に起きて準備をしなければならない。


 ベッドから下りすぐに着替えを始める。高校の頃と違い制服ではないので着て行く服に困るのが難点だ。あまりだらしない格好だと詩織にどやされてしまう。とは言え、昔からあまり着る物に頓着しない性格だった颯は、洗濯済みのTシャツをざっと被り、お馴染みのジーンズを穿くだけだ。


 着替えを終えた颯は階段を下り、ダイニングルームへと向かう。


「おはよう、颯」


 キッチンから母の声。颯は「おはよう」と返して、テーブルに着いた。


「いただきます」


 両手を合わせてから、既に用意されていた朝食を口へと運ぶ。こうして毎日食事を用意してくれる母には感謝しかない。自炊も出来なくはない颯だったが、やはり母の味が一番だ。


 そうこうしていると縁が起き出して来る。まだ高校生の縁は制服に身を包んでいた。


「おはよう、お兄ちゃん。お母さんも」


 まだ眠いのかあくびをかみ殺すゆかり。そんな縁の姿を見て、颯が一言。


「また夜更かしでもしてたんだろ」

「いや~、友達から進められたマンガ読み始めたら止まんなくてさ~」


 そう言って、縁はマンガの内容を語り始める。相当はまったらしく、その口調には熱が篭っていた。


「マンガもいいけど、ちょっとは健康に気を使えよ。父さん母さんもいつまでも若い訳じゃないんだ」

「ちょっと颯。母さんを年寄りみたいに言わないでくれる?」

「実際若いって歳じゃないだろ」


 父親の隆文は通勤のため一足先に家を出るので、これが籐ヶ見家のいつもの朝の光景である。


 その時、インターホンが鳴り来訪者を告げた。この時間にこの家を訪れるのは颯の幼馴染である詩織くらいである。


「ほら颯。詩織ちゃんが来ちゃったわよ」

「わかってるよ」


 家が隣同士で親の代からの付き合いがある高柳家。その一人娘である詩織はこうして颯を迎えに来るのが日課であった。


「ご馳走様!」


 食べ終えた皿を流しに置き、ペットボトルの麦茶を一本冷蔵庫から取り出すと、鞄を持って玄関へと向かう。玄関のドアを開けると、そこにいたのはやはり詩織であった。


「おはよう、颯」

「おう、おはよう」


 詩織が髪をかき上げる。外はだいぶ暑かった。少しの間でも待たせてしまったのは申し訳ない。


「今年は特に暑いね~」

「それ、毎年言ってないか?」


 颯は夏のギラギラした熱気も嫌いではなかったが、詩織は元々暑がりなので、夏は苦手と豪語している。実際隣の家に来る間だけでもかなり汗をかいてしまっていた。


「ほら。これ飲めよ」

「あ、ありがと~」


 麦茶のペットボトルを手渡すと、詩織は早速口をつける。


「つめた~い」

「そりゃ、冷蔵庫から出したばっかりだからな」


 詩織が笑顔になるのを見て、颯も笑顔を浮かべた。


「ほら、そろそろ行こうぜ」

「うん」


 颯と詩織は並んで駅へと向かう。肩と肩が触れ合いそうな位置。二人で出歩く時はいつもそうだった。その様子は端から見たらカップルに見えただろうが、実はそうではない。颯に近しい者なら皆知っていることだが、彼と詩織は現在、あくまで幼馴染であり、友達以上恋人未満というあやふやな関係なのであった。


 お互い相手の気持ちは何となく察しているが、後一歩を踏み出せないでいる。そんな二人にも一時期疎遠になっていた時期があった。思春期が始まった辺りだろうか。それぞれに男女の違いが現れ始めた頃、二人は距離を取るようになった。颯は男子と、詩織は女子とそれぞれつるむようになり、二人きりでいる時間は皆無になったのだ。


 そんな二人が再び関わり合うようになったのは高校に入った頃。それぞれが家から近いからと同じ高校に入ったことがきっかけだった。同じ時間の登下校。一度話すようになってしまえば、お互い勝手知ったる仲だ。身体は成長していたが、昔の感覚で二人は再び交流を始めた。とは言え、思春期真っ只中の二人が、互いの性を意識から除外することは叶わず。こうして奇妙な距離感となってしまった訳である。


 そのタイミングでどちらかが踏み出していれば、こんなにズルズルと曖昧な関係を続けることもなかったのだろう。だが、お互いがお互いのことをよく知っているが故に、下手に踏み出して変にこじれることを嫌がったのだ。


「颯はさ。誰かと付き合ったりしないの?」


 詩織がこんなことを聞いてくるのも、もう何度目だろうか。


「颯って結構モテるしさ。誰か気になる子がいたら協力するよ?」


 颯からすれば「それはこっちのセリフ」なのである。実際、詩織は顔が可愛く気立てもよくて、こっそり狙っている男子は片手の指では足りないくらいだ。その男子の筆頭というのが、見た目はチャラいが実は結構男気溢れる颯の親友――宮前みやまえかけるなのであった。


「よう、ご両人! 今日も仲良く通学とは妬けるね~」


 この空気を読まない感じが彼の持ち味なのである。とは言え、本気で他人ひとが嫌がることは決してしてはならないという親の教えがあるらしく、それを律儀に守る性格なので彼を嫌う者はあまりいない。何故見た目がチャラくなってしまったのかと言えば、それは「その方がかっこよさ気だから」だというのだから彼が根っからの愛すべき馬鹿なのは最早周知の事実と化していた。


「馬鹿なこと言ってないで、さっさと講義に行くぞ。ここまで来て遅刻じゃ話にならないからな」

「それもそうだ。あ、今日は昼どうする?」

「いつも通り学食でいいだろ? なぁ?」

「うん。今月はもうお金ないから安いのしか食べられないしね」

「てことは掛けそば辺りか~。もっとちゃんとしたもの食べないと、せっかくの美人が台無しになっちまうかもだぜ~?」

「家ではちゃんとバランス考えて食べてるから大丈夫よ」

「そいつは失敬。いらぬお節介だったな」


 翔は同期ではあるが学部が別なのでここまでだ。


「それじゃあご両人。楽しいキャンパスライフをエンジョイしてくれたまえ」

「勉強しに来てるんだ。楽しむためじゃない」

「何言ってんだ。大学は人生の夏休みって言うだろ? 楽しんで何ぼじゃんかよ」

「はいはい。そろそろ行かないとマジで遅刻するわよ」


 騒々しい朝。こんな楽しい日々がいつまでも続けばいいと思っていた。実際颯は生まれつき運が異常なほどよく、大抵のことは上手く行っている。もちろん努力は怠ってはいないが、最後にものを言うのは運だと颯は思っていた。運が悪ければ普段の実力が発揮できない。一方で運さえよければ普段以上の結果を残すことも出来る。これは颯の中では大きなウェイトを占めていた。


「はいはい。わかったよ。二人の時間を邪魔して悪かったな」

「ばっ、そういうこと言わないの!」

「へいへ~い」


 わかっているのかいないのか。翔は自分の講義室の方へと小走りに走って行く。


「もう、翔ってば」


 詩織はため息をついているが、翔の本当の気持ちに気付いているのだろうか。これは颯にとっても気が気ではない。相手が親友とは言え、詩織が他の誰かと付き合うなど考えただけで胸の中がモヤモヤする。そんなことならさっさと付き合えと縁辺りは言うだろうが、颯にとってことはそう簡単ではないのであった。


「颯、行くよ!」


 詩織が呼んでいる。颯は考えるのを止め、詩織の隣に並んだ。今はもう少し、この関係を続けていよう。お互いに居心地がいいのならそれに越したことはない。大好きな詩織がいて、仲のよい翔がいて、楽しい時間を享受できる。こんな日常がずっと続いて行くのだと、この時の颯は本気で思っていたのだった。

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