第十七話 憑神
水無月の切っ先が颯の首を落とす。そのはずだった。しかし後半歩というところで足が止まる。動かなくなった両足に目を向けると氷の花が足元を覆っていた。
「……これは」
それが颯の呪術であることは明白だ。あの一瞬で呪印を展開させるとは、敵ながら天晴れである。半歩足りなかった踏み込みで放った一撃は、颯の喉元ギリギリのところを通り過ぎてしまった。
すぐさま颯からの反撃が来る。当然だ。今の自分は両足を地面に固定されていて動けない。その隙を突いてくるのは至極真っ当だ。しかし、そのまま反撃させてやるほど自分も軟ではない。透かさず法術――
まさにギリギリの攻防。少しでも気を抜けば即座に決着がついてしまう。不謹慎ではあるが、少し気分が高揚した。これほどの相手とは戦ったことがない。門下の中でも自分に並び立つ者のいなかった琴葉にとって、この戦いは初めて全力で戦えるものだったのだ。
間一髪だった。
颯は透かさず反撃に出る。攻撃を加えるなら、相手が動けなくなっている今の内だ。斬り殺してしまってはいけないので、狙いは突き。目標は相手の右肩。利き腕を封じるのだ。
しかし突如琴葉の足元から炎が生じ、氷の花を溶かしてしまう。颯の放った突きは、あえなく空を切った。
流石は妖退治を専門としているだけのことはある。判断力も身体能力も、人間の域を超えていた。恐らく法術とやらを使っているのだろうが、人間とはこれほどまでに強くなれるものなのかと、手放しで褒めたくなるほどだ。
再び水の刃が颯に迫る。颯は側転しながらそれを
だが、相手を捕らえていられたのも一瞬のこと。琴葉はすぐさま土で出来た
このままでは
遠巻きの攻撃は効かないと判断したのであろう琴葉が、再び突進をかけてくる。近接戦が望みならそれに答えるまでだが、何の考えもなしに彼女が突っ込んでくることはありえない。颯は細心の注意を払いながら迎え撃つ構えを取った。
琴葉は颯に向かって突進をかける。狙いは法術――流転を使って相手の裏を取ることであった。
流転とは簡単に言えば転移のようなものだ。ウォーデッドの転移ほど遠距離移動は出来ないが、空間を渡り移動することができる流転は、近接戦においても役に立つ。
琴葉は颯の懐まで一気に距離を詰め、そのまま一撃を繰り出すと見せかける。颯がそれに反応したのを見計らって流転を発動させた。琴葉の身体は空間を渡り、颯の後ろへと回り込む。タイミングは完璧。今度こそ完全に颯を捉えた。そう思った。しかし――。
「――っ!?」
渾身の一撃であったはずの一太刀は、颯の刀に受け止められている。颯は向こうを向いたままだ。こちらの場所は把握できていないはずである。しかし、彼は琴葉の斬撃を受け止めて見せた。
「悪いな。左目がない分、気配には敏感なんだ」
琴葉の頬を汗が伝う。このタイミングで決められないのなら、今の自分ではどうやっても颯に勝てない。それがわかったからだ。
「見えない一撃に刀を合わせるとは、その反射神経には脱帽です」
颯の力で押し退けられ、琴葉はそのまま彼と距離を取る。
「流石はウォーデッド。ただの妖とは訳が違いますね」
「そう思うなら剣を引いてもらえると助かるんだが?」
「そうは行きません。全ての妖を狩るのが退魔師の使命。ウォーデッドも例外ではありません。特に、あなたは」
琴葉は大きく息をついてから、瑠璃に声をかけた。
「……瑠璃!」
「はいにゃ!」
琴葉の意図を汲み取った瑠璃が光の塊になって彼女の中へと消える。
「……久坂琴葉。参ります」
その動きはそれまでとは全く違った。まるで猫のように俊敏に、そしてしなやかに、縦横無尽に駆け回る。颯の反応速度を遥かに超え、一方的に攻撃を加えていく。一撃一撃は浅いが攻を焦らず、少しずつ、確実に相手の体力を奪う作戦。颯の舌打ちすら遅れて聞こえる。この瞬間、明らかに琴葉は颯を圧倒していた。
颯は防戦一方を強いられる。それだけ憑神を使った琴葉は速かった。視線はもちろん、気配を追うのも間に合わない。縦横無尽に駆け回る様は猫を彷彿とさせる。しかし実際はそんなに可愛いものではない。それはまさに獲物を狩るハンターの動きだ。
右から攻撃を受けたかと思えば左に、後ろから来たかと思えば前に。いくら追っても追いつけない。移動の方向には一貫性がなく、先を読むことも難しいと来ている。
思わず舌打ちをするが、それで事態が好転する訳ではない。幸い、こちらには刀が二本ある。別々の方向からの攻撃にも対処が可能なのだ。後はそれを生かせばいい。颯は目を閉じ、気配を追うことに神経を集中する。
向かって右方向からの斬撃。これを右の刀を使って防ぐ。次に後ろ方向からの蹴り。これを左の刀で捌く。続いて前、再び右。ギリギリの所で琴葉の攻撃を捉え、致命傷を避けるように立ち回る。が、相手のスタミナがどれほど持つかわからない状況での防戦は厳しいと言わざるを得ない。先にこちらの体力が尽きれば、それはまさしく死を意味する。
颯は必死に刀を振り続けた。自分には守るべきものがある。他の誰かは変わってくれない。自分がやらなければ、そこで全てが終わるのだ。
妖の相手がいかに楽であったのかが思い知らされる。妖相手ならばただ斬ればいい。そうすることが正しいことであり、一々意味を求めなくて済む。だが退魔師相手となるとどうだ。斬ること自体が間違いであり、いくら求めた所で戦う意味などない。一方的な理由で戦わされる身にもなって欲しいものだ。
背中に、腕に、足に傷が付いていく。それ自体が不満だが、そもそも少しでも気を抜けばその場で斬り殺されてしまうと言うのが厄介だ。よって神経が張り裂けそうなほどフル稼働している。この様子だと持って数分。それ以上は肉体も精神も持たない。
打開策を模索していたその時。視界の隅にありえないものが映った。詩織である。
「なっ!?」
人避けの結界が張ってあるこの公園には、今は誰も近づけないはずだ。にもかかわらず、彼女はそこにいた。徐々に広場へと近づいてくる。どうやらこちらには気付いていないようだが、偶然だろうか。いや例えこの場に来たのが偶然であったとしても、結界内に入ることは本来不可能のはずだ。ならば何故。
この時、防御に神経の大半を費やしていた颯は気づいていなかった。結界内への侵入者が詩織だけではなかったことに。
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