第十五話 敵対
その日は雨が降っていた。
傘を差して歩く女性が一人。仕事を終え自宅へと帰る途中だった。
「……今日も疲れたな~」
「それにしても、この辺りも何だか物騒になったよね~」
女性が言っているのは、最近この地域で起こっている失踪事件のことだ。ニュースで見た範囲では、人が突如として行方をくらまし、足取りが一切追えなくなると言う。警察も動いているようだが、全くと言っていいほど捜査に進展はないとのこと。ネット上では神隠しなどと話題になっている。
「神隠しって、今時そんな非科学的なこと――」
女性が言い終える前だった。世界が色彩を失い、モノトーンに包まれる。
「え?」
女性は困惑した。慌てて周囲の見渡す。雨は以前降ったままだが、どこかおかしい。よく見ると、雨粒が空中をゆっくりと落ちてくる。まるで時間の流れがゆっくりになったかのようだ。
「何これ。どうなって……」
そこでふと気が付いた。後ろに誰かいる。異様な気配。人ではない。直感的にそう感じた。
呼吸が浅く、速くなる。頬を冷たい汗が伝った。この状況はよくない。一刻も早く逃げなければ。
女性の判断は正しかった。傘を捨て全力でその場から走り出す。しかし、少し走ったところで見えない壁ににぶつかり、転んでしまった。
「
女性は慌てて起き上がり、その壁に手をつく。固くはないが、まるで水の入ったペットボトルを押しているように一定の所まで行くと動かなくなるようだ。
狭間。その言葉を彼女は知らない。ある地点を中心に半球状に展開されたそれは、女性以外の何者をも通さない強固な壁としてそこに存在していた。
「ぐへへ。今日は女か」
何者かの声。どこかエコーのかかったようにぶれて聞こえるその声は、明らかに人間のものではない。
女性は振り返ることが出来なかった。明らかに危険な何者かがすぐ後ろにいる。その事実は彼女の身体を強張らせ、身動き一つ取れなくさせていたのだ。
「せっかくだ。顔を見せろよ」
何者かの腕が女性の方を掴む。異様な腕力で無理やり振り返らせられると、そこには想像を絶するものがいた。
まず目に映ったのは四本の太い腕。身長は二メートルほどだろうか。厚い胸板は鍛え抜かれたボディービルダーのようである。巨漢と呼ぶには充分であった。
「何だ~、結構可愛いじゃないか。こりゃすぐに喰っちまうには惜しいな~」
女性はその場にしりもちを着く。あまりの恐怖に今度は力が抜けてしまったのだ。地に着いた
「そんなに怖がらなくてもいいぜ。今、気持ちよくしてやるからな~」
四本腕の男の正体はわからないが、今から自分は酷い目に遭う。そのことだけは明白だった。咄嗟に抵抗を試みるが、相手の腕は四本。こちらは二本。足りる訳がない。抵抗
「嫌っ、放して!」
「おいおい、ここまで来て放す馬鹿がどこにいるってんだ」
男は女性の腕を押えながら、残った腕で女性の足を無理やり開く。
「大丈夫だって。お前もすぐに気持ちよくなる」
男が自分の逸物を女性に対してさらけ出した瞬間、その青年は現れた。
「お楽しみのところ悪いな」
青年は男の頭を掴み、無造作に放る。体重にして青年の倍以上はありそうな巨漢は、驚くほど軽やかに宙を舞った。
颯は女性に自分が羽織っていたコートを投げて渡す。
「死にたくなかったら、そこで大人しくしていろ」
女性の反応を待つことなく、颯は妖に向き直った。
「ちくしょう。ウォーデッドか。せっかくのお楽しみを邪魔しやがって!」
妖が吠える。しかし、妖の都合など関係ない。妖は斬るのみ。ただそれだけだ。
「颯、開放許可」
「御意」
ウォーデッドの姿に転身し、妖と対峙する。
相手は
「参る!」
両の刀を構え、颯は妖に踊りかかった。水溜りを蹴り、妖に向かって走る颯。対する四本腕の妖が雄たけびを上げる。
四本腕の妖が腕を振るうと、見えない何かが颯の目の前で弾けた。咄嗟に身を引く颯。雨が降っていなかったら気付かなかったかも知れない。
颯は妖から距離を取る。攻撃の正体が掴めない状態では、迂闊に近づくことすら出来ない。
現在の颯と妖の距離は五メートルほど。その距離なら妖は攻撃をして来ないようだ。
颯は試しに二メートルほど近づいてみる。すると妖は腕を振るい、例の見えない攻撃が放たれた。空中の雨粒が揺らめくのを目で捉え、咄嗟に刀でそのポイントを薙ぐ。すると、何かを切った感触があった。
「遠当ての一種か。それとも見えない何かを投げているか」
現状考えられるのはこの二つである。とにかくこの攻撃は厄介だ。ダメージ覚悟で距離を詰めるのはリスクが高過ぎる。かと言って、今の颯には遠距離から攻撃できる手段がない。そういった種類の呪術も存在しているが、颯はまだその呪術を取得していないのだ。
「どうする……」
颯は思考する。目の前の妖を斬るために必要なものは何か。
遠くで雷が鳴っている。それを聞いた颯の脳裏に一つの答えが浮かぶ。
それは速さだ。相手の反応速度を超える速さで動けば、例の攻撃を喰らわずに済む。後はどうやってそれを可能にするかだ。
不刻。あれを使えば速さも何も関係ない。止まった時の中で自分だけが動けるのだから、これ以上の有利はないと言える。
颯は不刻を発動させるため呪印を展開しようとした。しかし、呪印が完成する前に、目の前で妖の攻撃が弾ける。
「そいつは見たことがある。それで俺も死にかけたからな」
思わず舌打ちをした。この妖には呪印を見極める能力がある。呪印を展開する間に距離を詰め、こちらを攻撃してきた。なるほど、この妖もどうやら悪食であったらしい。ウォーデッドとの戦いに慣れている。
妖が動いた。四本の腕から次々と見えない攻撃を放ってくる。流石の颯も回避に専念せざるを得なかった。
「どうした、ウォーデッド! こんなもんか!」
絶え間なく続く攻撃の嵐。颯は紙一重で
先の紅夜叉もそうだったが、戦い慣れしている妖というのは
不刻が封じられている以上、後は速さに頼るのみ。颯は一層速さを上げ、妖の攻撃を捌く。しかし、あと一歩足りない。颯が再び舌打ちをしたその時だった。
何者かの攻撃が妖の腕を斬り落とす。それは遠距離から放たれた斬撃であった。切断面から噴出す血しぶきが、周囲を赤く染める。
妖の攻撃が止んだ。颯はここぞとばかりに妖との距離を詰め、滅界を放つ。斬り裂かれた空間に閉じ込められた妖は、そのまま空間と共に崩れ落ちた。
「なるほど。それがウォーデッドの滅殺ですか。話には聞いていましたが、実際に目にするのは初めてです」
先程の攻撃の主だろうか。声からして相手は若い女性のようだ。
「狭間に侵入出来るとは、お前、ただの人間じゃないな」
そう。通常であれば人間は狭間に侵入することは出来ない。となれば、その女性は狭間に侵入する
「申し遅れました。私は久坂琴葉。退魔を生業にしている者です」
「退魔師か聞いたことはある。こっちも実際に見るのは初めてだが……」
颯は刀を構える。
「妖の腕を落としてくれたのには感謝する。が、その殺気は見過ごせない」
「流石は
しかし琴葉と名乗った女性は、抜いていた刀を鞘に収めた。
「……何のつもりだ」
「そちらの女性は無関係ですので。この場は仕切り直しませんか?」
どうやら尻餅をついたままの女性を気遣ったようだ。以前殺気は放ったままだが、今この場でやり合うつもりはないらしい。
「……わかった」
颯も転身を解き、元の姿に戻る。
「ほう。なかなか精悍な顔つきをしていらっしゃる」
「それは嫌味か?」
「いえいえ、本心ですよ?」
何とも掴みどころのない女だ。本来であれば、この危険分子はこの場で斬り捨てたいが、今は先の戦闘での消耗もある。後日改めてと言うことであればそれに越したことはない。それに相手は遠距離攻撃の
「それではまた後日お伺いします。その女性は家までちゃんと送ってあげてくださいね」
アフターケアはウォーデッドの仕事ではないが、半裸の女性をこのまま道端に放置するというのもいただけない。颯は琴葉の言い分を飲むことにした。
「後日ってのは具体的にいつのことだ?」
「そうですね。三日後というのはどうでしょう。天気は晴れらしいですよ?」
「三日後だな。承知した」
それまでに退魔師の情報をかき集めておくことにしよう。颯はそう考えた。
「それではウォーデッド颯、そして銀髪の十六夜。三日後を楽しみに待っています」
それだけ言い残して、琴葉はその場から姿を消した。狭間の外に出たのである。
「退魔師か。厄介な相手だな」
颯は空を見上げた。主であった妖が死んだことでこの狭間も徐々に閉じつつある。後は被害者の女性を引き連れて狭間を出れば今回の仕事は終了だ。
「あ、あの。あなた方はいったい――」
「悪いな。詳細は話せない。今は少し眠っていてくれ」
颯は呪術を使い女性を眠らせる。眠った女性を抱きかかえると、颯は転移の呪術を発動し、十六夜と共に狭間を脱出したのだった。
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