第二章 今は遠き友

第七話 コーヒーの好み

 隠世かくりよの門が立つ狭間の町――通称『門前町』。ウォーデッド達の拠点でもあるこの町は、今となっては時代も国境も越えた不可思議な空間である。


 そんな町の中にある一軒の屋敷。決して大きくはないが、それでも他の建物とは一線を隔す、見事な造り。それが彼――颯の現在の住処であった。


 彼はただ、黙って河原を見つめている。ふと視線を移すと、隠世の門へと続く大通りには、今日も大勢の人間が列を成していた。聞くところによると、隠世の門はこの一つだけでなく、世界中にいくつかあるらしい。そしてこの門を通るのは、ほとんどが日本人だ。老人から若者まで、年齢層は様々。平和だといいつつ、毎日行列を成すほどの人が死んでいる。いつも通りの光景。特に目に付くものもないため、颯はすぐに河原に視線を戻す。


 脳裏に浮かぶのは、自分の名を呼ぶ人間達。女が二人と、男が一人。見覚えはないはずなのに、妙に気にかかる。仮に彼等が生前の自分と交流があったとして、それが今の自分に何の関係があるだろうか。ウォーデッドとしての道を歩いている以上、自分は過去を捨てたのだ。追求しようと思う気もない。だが、静まり返っていることが当たり前のはずの水面に波紋が広がるように、颯の心は落ち着きを失っていた。


「……何を考えている?」

「……別に」


 不意に現れた十六夜にも、驚くことはない。彼女は、用のあるなしに関わらず、颯の前に現れる。いつの間にか傍にいて、何をする訳でもなく時間を共有することもしばしばだ。何か用があれば、それを一方的に告げてくる。情ではなく、契約によって成る絆。近くて遠い、あやふやな関係と言えなくもない。


「十六夜」

「何だ?」

「俺が知っているのは、お前だけだ」

「……唐突過ぎて意味がわからん。何が言いたい?」

「俺を知っているやつは、どれくらいいるんだろうな」

「それを知って、どうする?」

「さあ、な」


 颯は考えるのを止めた。何度思考を続けたとて、過去を捨てた以上、答えが出たところで何の意味もないのだ。


「ちょっと出てくる」


 颯は立ち上がって、襖に手を掛ける。が、すぐには開けることはしなかった。本来ウォーデッドに自由はない。全ての行動に、十六夜の許可が必要なのだ。


「……好きにしろ」


 颯の声のニュアンスから、十六夜は行き先が現世うつしよであることを感じ取ってくれたようだ。何か思うところがあるのか、彼女は颯を止めなかった。


「御意」


 許しが出た所で、颯は襖を開け放つ。続け様に『転移』の呪印を張り、そのまま現世へと出て行った。





 先日訪れた大学の研究棟を訪れた颯。目的は神楽と名乗る同業者に会うことだ。


 ノックなしの入室にもかかわらず、神楽は正面から颯を出迎える。まるで彼の訪問を秒単位で予見していたかのようだ。


「こんにちは。来るんじゃないかと思ってたわ」

「……エスパーか?」

「まさか。女の勘よ」

「……似たようなもんだ」


 颯は手近な椅子を引き出し、腰を下ろした。


「この辺りはお前の縄張りなのか?」

「う~ん。縄張りを主張するほど固執はしてないけど、まぁこの辺りで活動しているのは確かね」


 どうやら縄張りを荒らされて怒っているということはないらしい。


 ウォーデッドの中には強い縄張り意識を持つ者もいる。そういう手合いは縄張りに他のウォーデッドは侵入すると攻撃を仕掛けてくることもあるのだ。ウォーデッド同士の私闘は禁じられているが、好戦的な者というのはどこにでもいるもの。そのためウォーデッド同士の戦いで負傷する者も後を絶たない。


「そう言うあなたはどうしてここに?」

「悪食を追っていた。奴は移動しながらウォーデッドを捕食して回っていたようだったからな」

「それじゃあ悪食を倒した今、あなたがここにいる理由はない訳ね?」

「…………」


 颯は言葉に詰まった。神楽の言い分は尤もだ。本来同じ地区にウォーデッドは複数必要ない。目的がなくなった以上、颯がこの地を訪れる理由はないはずだ。


「それは――」


 颯が口を開こうとした瞬間、部屋のドアがノックされる。


「どうぞ、入って」


 颯の言葉を待たず、神楽は新たな来訪者を部屋に招き入れた。


「し、失礼しま~す」


 ゆっくりと控えめに開いた扉から顔を覗かせたのは、詩織達であった。颯は小さく舌打ちをする。自分の精神を乱す根源が、目の前に現れたからだ。


「……颯」


 颯の存在に気付いた詩織達は、重々しく口をつぐむ。神楽に呼び出されて、この場を訪れたものの、まさか颯が居るとは思っていなかったのだ。


「何のつもりだ?」


 颯は残された右目で神楽を睨みつける。凍りついたような冷たい視線。それは詩織達の知る颯が一度たりとも見せたことのないものであった。


「彼女達はあなたに関する事実を知っている数少ない人間よ? この場にいる権利は、充分にあると思うけど?」


 神楽はそんな極寒の視線をさらりと受け流し、詩織、縁、翔と、順を追って眺める。


「コーヒーでも飲む?」


 それまでの重苦しい雰囲気を一蹴するように、勤めて、明るい声で話題を変える神楽。詩織達の表情も、僅かに和らいだ。


「いえ、お構いなく」


 有り触れた社交辞令が交わされ、神楽は席を立った。彼女の姿が続き部屋の向こうに消えると、颯は場を去ろうと腰を上げる。


「こら、そこ。勝手に居なくならない!」


 壁越しに神楽の牽制が届いた。颯はため息と共に渋々腰を落ち着ける。その間一度たりとも詩織達の方に視線を向けることはしなかった。


 しばらくして香ばしい香りと共に神楽が戻ってくる。トレーに乗せられた人数分のコーヒーがてきぱきと配膳されていった。


「ミルクと砂糖は?」

「……砂糖抜き、ミルク多め」


 長居無用を決め込んでいた颯は、咄嗟にそう注文する。それは、彼がウォーデッドになる前からの癖であった。生来の颯はブラック派。長時間の滞在を想定していない場合にのみ、彼はミルクを入れるのである。


 颯は一気に飲み干そうと、カップに口をつけた。が、途中でカップを傾ける手を止める。


「……美味い」


 コーヒー通という訳ではない颯だが、神楽の淹れたこのコーヒーの味には素直な感想を漏らした。


「でしょ? 豆から選んだ、私のオリジナルブレンドよ」


 颯は感心したようにカップを眺める。


「死後を楽しむちょっぴりのコツってね。私も師匠から教えてもらったの」

 

 死後という言葉に詩織達は首を傾げるが、神楽はそのまま先の言葉を綴った。


「他人から見たらどうでもないような些細な楽しみを見つけること。私にとってはコーヒーこれが、そう」

 

 師匠とのやり取りを思い出しているのだろう。神楽は少し目を閉じて微笑んだ。


「落ち着いたでしょ?」

「は?」

「温かいものを飲むと、小さなことは、どうでもよくなるものよ」

「……そうだな」


 口元に薄く笑みを浮かべてから、颯はカップの中身を一気に飲み干す。そして、空のカップを神楽に差し出して言った。


「もう一杯、貰えるか? 今度はブラックで」

「ミルクはいいの?」

「ああ。その方が、ゆっくり長く飲めるだろ?」

「りょ~かい」


 若干堅さが抜けた颯であったが、何かを感じ取ったのか、すぐに表情を引き締めた。


「……すまない。呼び出しだ」


 二杯目のコーヒーが届く前に颯は十六夜からの念話をキャッチする。彼が席を立ったところでカップを手にした神楽が戻ってきた。


「……仕事?」

「まぁ、な」

 

 そう言って、颯は転移の呪印を発動させる。


「……また来る」

「ん。いってらっしゃい」


 颯は、一度詩織達に目を向けたが、そのまま何も言わずに呪印の向こうに消えた。




 それと入れ違うように、ピンク髪の十六夜が姿を現す。右目の下に星型のタトゥーを持つ彼女は、神楽の十六夜だ。


「妖の件なら、もう颯が向かったけど?」

「……なるほど。不結むすばずの霊力感知か」


 仲間内から『不結』の名で呼ばれる颯の十六夜は、十六夜の中でも特に能力の高い個体として有名だ。能力の高い十六夜に、能力の高いウォーデッド。颯達は歴代でも有数のベストチームであると言えた。


「「「…………」」」


 一方、詩織達は突然の十六夜の出現に言葉を失っていた。つい先日に想像を絶する光景を目の当たりにしているとは言え、彼女達の感性は、まだ一般的な人間のそれと大して変わっていなかったのである。


「……ああ。紹介するわね。このが私の十六夜」

「まるで年下を紹介するかのような口ぶりだな?」

「ちなみに、ほとんど同じ見た目だけど。この前颯と一緒にいた娘とは、別人だから」

「……全く人の言うことを聞いていないな」


 神楽が言うように、全ての十六夜は、髪の色やタトゥーの柄や場所といった細かな違いがある他は、まったく同じ容姿をしているのだ。


 十六夜を抱き寄せる神楽と、最早諦めたとばかりに大人しく抱きしめられている十六夜。この二人も、仲のよいチームとして有名なのであった。

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