水死体の男 (山梨県/28/男性)
高校生の頃から今でもたまにやることがある。それは怪談や怖い話、都市伝説などを睡眠用BGMにして眠ること。語り手の抑揚のない低い声が心地よく、最もハマっていた高校二年生の秋ごろは、ゲームをしながら、ご飯を食べながら、お風呂に入りながら、寝ながら、とまさに一日中聞いていた。
その日は学校も部活も休みで、昼過ぎに起きた私は一階のキッチンで袋ラーメンを作るとどんぶりに盛り付け、二階の自室に持っていった。怪談を聞きながら麵を啜るのは、ズルズルという音が結構大きく、肝心の話が聞こえないためオススメしない。
ものぐさな私はそのどんぶりを万年床の隣にあるこたつ机の上、作業の邪魔にならないよう奥へと置き、怪談を聞きながら絵を描いてはゲームをしたりと、休日を満喫していた。
午後四時を回ったころ、やること全てに飽きた私は、晩御飯まで眠ることにした。
五時間近くある怪談集をスマートフォンで再生し、こたつ机の上に置くと私は目を閉じた。
そして夢を見た。
私は見知らぬ森の、車二台が最低限すれ違えるようアスファルトで舗装された道路、そのカーブの中腹に空を見上げて立っていた。知らない森に視線が落ち着かないでいると、前方五メートルほどの所に一台の車が停まっているのが見えた。それがグレーのステップワゴンだとわかると同時に、自分が今いるこの山がどこなのかもわかった。
幼稚園へ入る前、今は廃車となっているこの車に乗って父の友人の別荘へ泊まりに行ったことがある。そこは随分な山奥にあり、カーブが多かったような記憶がうっすらとだが残っていた。
ここはその時に通った道だ。
そうとわかると私はステップワゴンに駆け寄った。
とはいえその状態は散々なもので、車内は砂利や瓦礫で満杯になっており、車体は砂埃だらけ。しまいには止めと言わんばかりに大木が車体を押しつぶすように斜めに倒れこんでいる。一目で廃車とわかる様相であったが、在りし日の車体のへこみやわずかな傷はそのまま残っており、あまりの懐かしさに私は大はしゃぎで観察を続けた。
バックからフロントへと、まるで美術館や博物館で展示物を吟味するかのように手を後ろに組みながら歩いた。そうしてフロント側に立つと、異様な光景が目に飛び込んできた。
助手席だけ空間が断絶されたような、新車のような綺麗な状態であったのだ。
家族旅行の際には母がよく座っていたその席に、そいつは座っていた。
全身がずぶぬれで、黒いパーカーを着た、癖の強い黒髪を雑に伸ばした、右の眼球が飛び出した、外斜視の左目で、通常の三倍ほどに膨張した青紫色の唇からどろどろの透明な唾液を垂らした、鼻の無い、そんな水死体の男だ。
焦点の合わない両目を虚ろにダッシュボードへ向けているそいつから目が離せなかった私は、ゆっくりとその場から後ずさることしか出来なかった。
とは言え音を立てて気付かれるわけにもいかない。足元へ注意しつつ、慎重に一歩ずつ距離をとっていった。
数メートルほど移動したか、私は一度足元を確認してから再び顔を上げた。
水死体の男はこちらを見ていた。
いや、見ているといっても両目の焦点は合っていない。顔を向けているような感じだ。こちらへ顔を向け、身を乗り出しているように見える。その姿勢のまま、そいつは左腕を上下に振り始めた。赤ん坊のように激しく手を振るそいつが何をしたいのかすぐにはわからなかったが、その行為の目的に気づいた瞬間、全身が総毛立った。
顔をこちらに向けたままのそいつは、動きを止める。
助手席のドアが開いた。
左足が地面についたのだろう、ジャリ、とアスファルトを踏む音が聞こえ
目が覚めた。
私は今見たものが夢だったと理解すると、大きく息を吐いて安堵した。しかしそれも束の間、低く抑揚のない男性の声が耳元から聞こえてきたのだ。
大慌てで声のした方を見ると実はなんてことはなく、ただこたつ机の上に置いていたスマートフォンが枕元に転がっていて、その声の正体は怪談の語り手のものだった。
私は寝相があまり良くなく、度々こうしてスマートフォンの充電コードを腕に引っ掛けて机から落としてしまうことがあった。
私は「またか」と思いながら動画を停止した。
すると、いくつかの違和感に気付いた。
まず一つ目、あまりにも静かすぎる。
動画を停止した際に確認した時刻は午後六時を少し回った頃で、土曜日のこの時間は普段であれば遠くを走る電車や家の近くを走る車、それら外の音や、隣室の兄弟の生活音、階下のキッチンで両親が夕飯の支度をする調理の音などが聞こえるのだ。兄弟の部屋は電気が消えているため不在とも考えられるが、いくら耳を澄ましても深夜のように私の呼吸音や布団の擦れる音以外の一切が全く聞こえないのはおかしいと言わざるを得ない。
そして二つ目、部屋のドアが開いている。
それ自体に違和感を感じる人は少ないかもしれないが、私は常日頃怪談やその他動画、音楽などを流しながら生活しているため、他の家族への迷惑からドアは必ず閉じる。また、それは家族にも徹底してもらっていたため、この部屋のドアが開きっぱなしになることは一切なく、事実この時までそうなっていたことは一度もなかった。
最後に三つ目。
その開いたドアの向こうに、何かが立っていた。
何故か部屋の電気を点けるという発想がなかった私は恐る恐るスマートフォンの画面を向ける。頼りない光の先に、そいつがいた。
全身がずぶぬれで、黒いパーカーを着た、癖の強い黒髪を雑に伸ばした、右の眼球が飛び出した、外斜視の左目で、通常の三倍ほどに膨張した青紫色の唇からどろどろの透明な唾液を垂らした、鼻の無い、そんな水死体の男だ。
そいつは私の足元へ顔を向けたまま微動だにしない。
ぴちゃぴちゃと、水滴が垂れる音だけが嫌に大きく響いていた。
どれくらい経ったか、突然水死体の男が顔を上げた。目が飛び出したりしていなければ確実に私の顔を見ていたことがわかると、なぜか猛烈な殺意に襲われた。
私はこたつ机の上に手を伸ばし、ラーメンのどんぶりを掴むと力一杯に投げた。
それが水死体の男の顔に当たると仰向けに倒れたので、私は止めを刺すためすぐさま駆け寄った。転がったどんぶりを拾い上げ、馬乗りになる。あとは全力で腕を振り上げ振り下ろす。
ばちゃばちゃと、洗面器で浴槽に張ったお湯を叩く様な音が響く。冷たい血が顔に跳ねるのも気にならなくなったころ、手が滑ったのかどんぶりが手から抜けた。後方からぼすっと音がし、布団の上に落ちたとわかると、今度は拳で殴り始めた。しかし、すでに深く窪んだ顔面に血の水たまりが出来たような状態のそれをいくら殴っても、手ごたえのようなものはなかった。これが水死体だからか、それとも人体はみなこうなのか、やたらに水気が多いなと思った。水遊びのようだった。最早窪みもわからないほど殴り潰し、水面を叩く音から若干の水気を含んだ肉と骨を砕く音に変わった。
跳ねる血が水死体のものか私の拳のものかわからなくなった頃、ふと確信が来た。
次の一撃でこいつは死ぬ。と。
思い返してみれば助手席の時点で死んでいるようなものな上に、顔面は眼球も歯も頭蓋骨も砕かれた、ただの血と肉と骨と脳へと変わり果てていた。
拳で顔面を貫くまでは死なないとでも思っていたのか、私は空手の下突きの様に構え、拳を握り、突いた。
インパクトの瞬間
目が覚めた。
滝の様に汗をかいており、その汗が飛ぶ程の勢いで上体を起こす。時計の示す時刻は午後六時三十分。
安堵の息を大きく吐くと、後ろに倒れこんだ。
今度は遠くを走る電車や家の近くを走る車、それら外の音も、隣室の兄弟の生活音、階下のキッチンで両親が夕飯の支度をする調理の音も、しっかりと聞こえた。
こたつ机の上にあるリモコンを横になったまま取り、部屋の電気を点けた時、気付いた。
流したままにしていた動画が、止まっていた。
スマートフォンはこたつ机の上にある。充電コードは腕に絡まっていない。動画はまだ三時間程残っている。嫌な予感がした。体を起こしドアを見る。
開いていた。
しかしその向こうには何も立ってはおらず、夢かと再び安堵した。それと同時に、ある違和感。
足の間に何か重いものがある。
ゆっくりと顔を足元へ向けると、そこにはこたつ机の上に置いたはずのラーメンのどんぶりが転がっていた。
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