マネキン (千葉県/26/男性)

当時の俺は地元を離れ、大学近くのアパートで生活していた。比較的真面目に学業に打ち込んだ甲斐あってか、4年生になると必修やゼミ以外で学校へ行くことはなく、卒論も経過は良好であった。

大学が夏休みに入った頃、飲み会や遊びに回すお金が欲しくなった俺は、短時間かつ高収入である家庭教師のバイトをすることにした。


始め方から何も分からなかったが、とりあえず近所のスーパーに頼み、貼り紙をさせてもらった。「1時間3500円、現金手渡し」で。運のいいことに、一週間も経たず連絡が来た。酷く生気のないダミ声から電話相手を不気味に思ったが、5時間×3日で依頼された俺は、一も二もなく即決した。


自転車で片道40分。なんて言ったらいいか、人通りもろくにない片田舎と言うか、とにかく静かな場所だった。問題のその家は木造平屋で、屋根と壁にはその場しのぎのようなトタンが雑に打ち付けられていた。

はっきり言ってこの家に住んでいる人に5時間×3日分のお金を工面出来るとは思えなかったのだが、5万円を超える大金に目が眩んだ俺は、疑問もそこそこに引き戸をノックした。


「すいませ〜ん、家庭教師のAです〜」

「はい」


声をかけてから間を置かず、酷く生気のないダミ声がドア越しに聞こえ、俺はゾッとした。タイミングもそうだが、何よりその声はドアの直ぐ向こうから聞こえてきた。磨りガラス越しの景色に変わりは無い。


ずっとドアの前で待っていた…?


気味は悪いがお金には変えられないと、俺はドアを引いた。ボサボサ頭にえりの伸び切ったスウェット。声や顔立ちから辛うじて女性とわかったものの、「終わった」と率直な感想が浮かんで消えない。しかし、ここまで来たらやるしかないと思い、挨拶をした。


「初めまして、よろしくお願いします」

「はい」


また間を置かず返事が来た。


「お子さんはどちらに?」

「奥に」


そう言い、身を返した恐らく母親について行く。短い廊下にはゴミ袋が山積しており、通り抜けるだけで一苦労だった。

通されたリビングの光景を見た俺の背中から、刺すような汗が吹き出したのを憶えている。


そこには、食卓と思しきテーブルに5体のマネキンが座らせてあった。

マジックで描かれた顔や、背丈、服装から察するに、ポロシャツを着た祖父、割烹着の祖母、スーツの父、学ランの息子、そしてセーラー服の娘…。


母親は、呆けている俺を見ながら娘と息子を交互に指さし


「今日は娘に」

「明日は息子に」

「明後日は娘に」


早口にそう言った。俺は鳥肌が止まらなかった。


ヤバいヤバいヤバい

マネキンに家庭教師とかこの母親絶対正気じゃない

何をどうすりゃいいんだこんなの


「えっ…と」

「何か?」


「いえ…」


無理だ…今すぐ逃げ出したい…絶対話通じないだろこれ…

しかもマネキンに囲まれながらする授業が、正気で終えれるとは到底思えなかった。


「5教科を1時間ずつお願いします」

「はい…」


「えっと…じゃ、じゃあ国語から始めよっか!あっ、その前に自己紹介かな?俺はAだよ」

「花子です」


俺は思わず後ろを振り返った。

右手で口元を覆った母が、裏声で喋っていた。


「どうしました?」


目元を歪ませた母の瞳に、目眩がした。正直限界だったが、如何せん金がない俺は5万円を諦めきれなかった。


「な…なんでもないよ、よろしく花子ちゃん」


思わず声が裏返ってしまった。


「どこがわからないのかな?」


「作者の気持ちがわからないの」


「あ〜あれ難しいよね。じゃああんまり長くないこのお話から勉強して行こっか」



18時頃、そんな調子で初日が終わった。意外なことに授業は問題なく進行した。こんな環境でなければ、大成功の初日と言える程に。



何にせよ無事一日目を終えれた俺は帰り支度を済ませ、玄関へ向かった。


「それじゃあ、今日はお疲れ様でした」

「何してるんですか、泊まりですよね」


靴を履こうとしたところで、母親がそう言った。裏声のおかげでダミ声にもある程度耐性がついたのか、俺は自然に話せた。


「いえ、あの、聞いてないですし…着替えとかも無いので、もし泊まるにしても一度帰らないと」

「うちの服を着て下さい」

「夕飯もすぐ出来ます」

「歯ブラシも新品があるので使って下さい」

そう言うとリビングへ戻って行った。


俺は無視して靴を履き、ドアに手をかけた。


「夜は危ないですよ」

「暗いです」


背中に語りかけてきたが、初日分の給料は貰っている。こんな狂った家には1秒だって居たくない。


「ちょっとお父さん。どうしましょう」


俺はドアを引いた。それと同時に、何かが俺の顔の真横をものすごい勢いで通り過ぎた。


「お父さんもこう言ってますから、今日は泊まりなさい。荷物は明日にでも取りに行きなさい」


それは父のマネキンの首だった。玄関を遥かに過ぎ、ゴツゴツと跳ねながら道端に転がったそれを見て足がすくんだ俺は、従うしかないと思った。



夕飯は全て冷凍食品の餃子で、取り皿がマネキンの前に並べられた食卓は6人分席が埋まっており、俺の座る席は無かったのだが

「あなたはこっち」

と、キッチンに椅子が置かれ、餃子やサラダが既に取り分けられていた。俺の分だけ明らかに盛り付けは汚く、また、食器もボロボロだった。

喉も通らないと思われた食事だが量が少なかったからか、意外と早く食べ終えれた。味は何もわからなかったが…。

食べ終わった俺に気付いた母が


「お風呂はうちに無いので我慢してください」


と言った。

浴室の窓から逃げ出す気でいた俺の心は折れかけた。

明日荷物を取りに帰れるとはいえ、母親がついてくる可能性が高い上に、もしそうなったら家を知られることになる。俺は今日しかチャンスはないと思った。


「あ…大丈夫です。ちょっと初日の緊張で疲れてしまって、少し横になりたいんですけど、寝室はどちらですか?」

「22時にリビングに布団を敷きます」


俺の心は完全に折れた。寝てる間も絶対に見張られる確信があったから。

…いや、まだだ。母親がトイレで少しでも席を外すようなら、その隙にリビングの窓から逃げ出せばいい。


…そもそもトイレの窓から出られないか…?


「すみません、トイレはどちらに…」

「廊下へ出て右奥です」


「ありがとうございます」


マジ…?行ける…?帰れる…?


「私も行く」


母親が口元を隠し、娘のマネキンを抱きながら言った。

俺の希望は容易く砕かれた。


短いはずの廊下が、嫌に長く感じる。


「Aさん、明日はお兄ちゃんに教えるんですよね?」

「Aさん、お兄ちゃんは数学が苦手だから、いっぱい教えてあげてくださいね」

「Aさん、私夜のトイレってなんだか怖くて、待っててくださいね?」


「あ…うん…」


バタンと音がして、母親がマネキンと共にトイレに入ったのを確認した。

俺は今しかないと思い、音を立てずに荷物を取りに向かおうとした。

しかしその背後で…


「ふふっ」


母親が笑っていた。


ドアの隙間をいやらしく少しだけ開け、こちらを見ていた。


「Aさん、何してるんですか?」


母親はなおも娘の振りをする。


「えっと…音…聞いたら申し訳ないかなって」

「ふふっ、別にいいですよ」


「いや…ハハ…」


駄目だ…逃げられない…。

入れ替わりでトイレに入ったが、窓の向こうには嵌め殺しの柵があり、ここから外へ出ることは出来そうになかった。


そして22時になり、リビングへ布団を運んだ。何故か布団は3つだけで、左に母親、右に娘、真ん中に俺となった。窓側に足が来るように敷き、布団に入ったところで母親から「おやすみ」と言われた。

「おやすみなさい」と返すだけで精一杯だった俺への、娘(の振りをする母親)からの「おやすみなさい」に泣きそうになった。

そうして恐怖の一夜が幕を開けた。


用意されていた寝巻きは毛玉だらけでえりも伸びており、母親の着ているスウェットと同じものであることがすぐにわかった。しかもこれが異様にむずむずする。身体がかゆい。布団もノミだらけだとしか思えない上に黄ばんでいる。ただでさえこんな狂った家にいる上に、かゆすぎる衣類、何より目を閉じてからずっと感じる視線が息苦しく、俺はまんじりと出来なかった。


秒針の音が徐々に大きくなっているように感じる。

1秒ってこんなに遅かったか…?

虫の鳴き声もよく聞こえ、月明かりは煌々と射し込んでいる。

どこか片田舎の良さを感じるような夜だったが、ふいに異音がした。


……何の音だ…?


ズズズと、何か重いものを引きずっている様な音…。しかもそれはこの部屋の中から聞こえるのだ。

音の正体は気になったが、目を開けると隣にいる母親と目が合うのではないか、と恐怖していた俺は、眠りにつくことも出来なかったため、ひたすらにその音を聞くしか無かった。

そうしてわかったのだが、その音を出している何かは、時折停止するものの、基本的には一定の速度で移動し続けているようだった。

しかししばらくすると、徐々に停止する時間が長く、かつ感覚が短くなってきた。停止するタイミングは、気の所為じゃなければ俺の足元だった。

停止してからしばらく経つと、カシャ、と、カメラのシャッターのような音がした。


ズズズ…カシャ


ズズズ…カシャ


目を強く瞑り、布団を被ったが、その音は寧ろ大きくなっていく。秒針の音も虫の鳴き声も聞こえないくらいにその音が大きくなった。しかし、一向に何かをされる気配はない。


何だ…?何で何もしてこないんだ…?

この音の発生源はこの部屋で何をしてるんだ…?


僅かに湧いてしまった好奇心に負け、その音の正体を探ろうとした。

布団から僅かに顔を出し、薄目をあけて音のする方、足元を見やると、黒い何かが床を這っていた。

黒い、ひたすらに黒い。

黒く、大きい…人型のような…


「うわぁぁぁあああああああああああああっ!!!!!!」


その黒が何かわかった瞬間、俺は喉がはち切れんばかりに叫んでいた。


それは、スーツを着た首の無い父のマネキンだった。

母親が玄関で俺に投げた自分の首を探しているかのように、手元を動かしながら床を四つん這いで動いていた。

その身体がこちらへ向いた瞬間に俺は飛び起き、ドア付近に置いていた荷物を持つと、ふすまを蹴破って廊下へ出た。


俺は腰が抜けるかと思った。


月明かりの射し込んだ玄関前に、娘と父以外の全てのマネキンが立って俺を見ていた。手前にいた祖父のマネキンの手には、月明かりに照らされて怪しく光るナタのようなものがしっかりと握られていた。

視界の端に父が立ち上がろうとしている様子が映る。立ち止まっている暇は無かった。


「ああああああああああっ!!!」


俺は叫びながら体当たりのように突っ込んだ。マネキン諸共倒れ込んだが、そうしてドアを破ることに成功した。

俺はすぐさま起き上がると、マネキンを踏みつけながら全力で走った。


「Aさ〜ん!明後日お願いしますね〜!」


背後からそう聞こえ、つい振り返ってしまった。

娘の振りをした母親が玄関の奥に立ち、目元を歪ませながら手を振っていた。


「ひっ」と小さく悲鳴が出たが、母親は手を振るばかりで追ってくる様子は無かった。停めてあった自転車に飛び乗り、全力でペダルを漕ぎ続けた。

そうして俺は帰宅することが出来た。

へとへとになって部屋へ入り鍵をかけ、なんとかベッドまで行くと気絶するように眠りについた。


翌朝、スマホの着信で目が覚めた。疲れが取れていなかった俺は、画面もみずに電話に出てしまった。

「はい」

「今日も来て頂けますよね?」


その声で俺は飛び起きた。

あの母親のダミ声だ。

「お着替えをご持参の上お越しくださいね」

「昨晩の事はお父さんも許してくれています」

「娘もAさんに会いたがっています。ね?」


「Aさん、私です。今日は泊まってくれるんですよね?」


「Aさん私本当は今日もAさんに教わりたいんですよ?でも兄の日だから我慢してるんです」


「Aさん私Aさんのこと気に入っちゃいました」


「Aさん早く会いたいな」


「Aさん今日は一緒に」


俺は電話を切った。すぐに着信拒否設定にし、冷蔵庫からビール取り出すと一気に飲み干した。


もう忘れよう。1万7千円も貰えたんだ。それでいいだろ。


その日は浴びるように酒を飲み、泥のように眠った。

翌日、俺はスマホの番号を変え、家庭教師のバイトは二度としないと決めた。


それから数ヶ月後、あの出来事の記憶もそれなりに薄くなってきた頃に、少し洒落にならないことがあった。


地元で就職も決まっていた俺は大学卒業を数日後に控えており、地元へ帰るための荷造りをしていた。

作業の途中

カタッ

と、一通の封筒が郵便受けに落とされた。


何かの書類かな?と思い封筒を手に取ると、それはあの母親からの手紙だった。

布団に入り目を瞑る俺と、俺の真横に置かれた娘のマネキンとの2ショット。

そして写真の裏に一言


"お似合いの2人♡"


消印は無かった。


それから引越しの日まで、俺は友人の家を泊まり歩いた。



来月"大学の同窓会がある"と手紙を貰った。友人達には会いたいが、あの町には二度と行きたくない俺は返事を出せないでいる。

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