03-コンプレックス・ヴェロシティ
「にもかかわらず流行らなかった理由を考えもしないらしい」
カバルリィ・SSRの最終調整に没頭しながらもブルの舌鋒は
「考えないね。俺は途方もなく馬鹿だから、エントロピー弾性が邪魔をして虚物質泡のふるまいが安定しない、なんて危険性は知りもしないし想像もしない」
「本当に想像できてねえのは人の気持ちじゃないのか」
「おい、ブル、俺は」
「できたぞ。勝手に行け、馬鹿野郎」
ブルがコンソールに拳を叩き込む。マシンに取り付いていた作業腕がアクチュエータ複雑系を微かに唸らせながら自らを畳むさまは、仕事終わりの一杯の相談しながら引き上げていく港湾作業員たちのようだ。俺は無言で操縦席に上がり、レーシングスーツのバイザーを閉めながら未練がましく身を乗り出した。
「よお、ブル、俺の株券、お前にやるよ。すごく美味い酒でも飲んでくれ」
「美味い酒……。ハッ」
鼻で笑われた意味が俺には分からない。ブルが再びコンソールをパンチし、マシンを
ブルの言うとおりかもな。俺がほんとに想像できてないのは、ガキの頃からつるんできたあの親友の気持ちなのかも。ブルだけじゃない。この世に存在するどんな人間の気持ちも神の気持ちも俺は全然分かっていない。だから
〔全機の射出が了承されました〕
通信機がAI合成音声で
〔グレイ・ジャヘッド卿、射出〕
衝撃。という以外にない加速度の暴力。俺は恐るべき慣性力によって特別あつらえの座席に耳まで沈み込み、重圧によって締め付けられた肺から呼気の最後の1mLまでもを吐き出した。これは加速というより正確には減速だ。
ブラックホール内では片時たりとも同じ位置には留まれない。ゆえに静止状態から一斉にスタートするのは不可能。ではどうするかと言えば複数の
俺は深呼吸を繰り返しながら外の様子に目を凝らす。光さえ吸い込むブラックホール重心に近づくにつれ、周囲は歪んだ光線が村雨のように降り注ぐ漆黒と光輝の空間に変化しつつあった。あの光線のひとつひとつが飲み込まれていく光子の瞬き。小惑星や古いマシンの残骸に光線が当たれば反射はするが、反射光さえ直進できずにブラックホール側へ吸い込まれていくから俺には周りの障害物が滅茶苦茶に崩れて見える。低質な
と、横手に淡い輝きが次々合流してきた。
ラダ
そして俺の真上には、勿論、そうとも、エヴォニッツァ。誰より尊く輝くひとよ。
〔これより先では電磁波が超重力に拘引され通信が途絶します。皆様良い
これっぽっちも情の籠らぬ励ましが何故か今は涙腺に来る。俺の情緒に構わずスタートラインは目前に迫り、
〔
発進。各機一斉に加速をかけて光のシャワーへ飛び込んでいく。先行したのは虹のイーリス。次いで天使バラキエル、ハスター、
だが負けるためにこんな場違いな競技に紛れ込んだわけじゃない。
最後尾から猛烈に追い上げ、驢馬の背中で
エヴォニッツァ。
俺は怒りに目を引ん剥いた。なんだあのチンタラした走りは。女神のマシンが明らかに遅い。一目で分かる。プランクチューブ。全然清掃してないな。グルーオン
そんなマシンで勝てる気かよ。それほど余裕か。舐めるな女神。
さらに加速し俺はついに極超光速域へ突入した。皮膚組織が虚次元泡に侵食されてずたずたに崩れ始める。静電気刺激が神経を直接蝕み始める。周囲の風景は飴のように融け、もはやどこに何があるかすら判然としないマーブル模様に変質し、俺はいやます吐き気の中でしかし一人で笑っている。たどり着いたぞ。神の領域。並んだぞ。お前の横に。
そして今、女神を追い抜く。
「ヒーハーッ」
奇声を発して俺はエヴォニッツァの前に出た。だがこれで終わりじゃない。前方に見える神々のマシンは急遽進路を変え横手の
ゆえに当然、俺も突っ込む。
垂直加速で軌道遷移、鬱蒼たる
が、予想だにしない突然の衝撃が上から俺を揺るがして、俺は悲鳴を挙げてダッシュボードへ顔面を打ち付けた。何が起きたか一瞬分からず、混乱の内に上へ目を向け、ぞっとするような漆黒の巨体が再び迫っていることに気付いて反射的にその場を飛び退く。軽くこちらの10倍はあろうかという紡錘型の船体は
「何しやがるっ……」
〔生意気な人間風情が〕
脳髄にキンキン響く神の声。俺は耐えがたい耳鳴りがためにヘルメットの中へ胃液を撒き散らす。レーシングスーツの換気機能が勢いよく吐瀉物を吸い込んでいくのを目の前で見ながら、喘ぎ、
〔神に挑もうなどとは片腹痛い〕
畜生。そういうつもりか。
デュグラディグドゥ横っ腹の全砲門が口を開けた。ただ一点、俺だけを狙って。
神々は互いを攻撃なんかしない。生半可な攻撃など効かないし、効くほど本気で仕掛ければ巻き添えで世界に傷をつけ、我が身まで危うくするからだ。だが相手が弱っちい人間なら話は別。人間ごときが神々の遊び場に紛れ込んだのが気に食わなけりゃ、軽く天罰を下したってどこからも文句は出ない。死にかけの蝉を踏み潰すようなもの。
潰されるか。潰されるかよ。
「邪魔すんじゃねえぞクソ野郎ッ」
俺は胃液の残りを吐き捨てて、マシンに再加速をコマンドした。
(つづく)
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