03-コンプレックス・ヴェロシティ



 複素速度コンプレックス・ヴェロシティの概念は早くも20世紀末にはC・アサロの架空戦記内で提唱されている。当時は夢物語としてすら荒唐無稽という段階で、基礎理論が完成したのはやっと32世紀、実証実験成功に至っては僅か200年前のことだ。数学的にはすこぶる単純。速度に虚数成分を持たせれば光速特異点を通過することなく速度絶対値が超光速に至りうるってわけ。だが実物質に複素速度を与えると位置座標が虚次元に取り込まれ、強い力ストロング・フォースの実部と虚部が入れ替わり、核子の崩壊を招く。そこで虚次元アモルファス外装材。全面に練り込まれた虚物質の泡がもろもろの問題を見事に解決してくれる。

「にもかかわらず流行らなかった理由を考えもしないらしい」

 カバルリィ・SSRの最終調整に没頭しながらもブルの舌鋒はにぶることがない。俺もソフトウェア面の組み込みに手こずって徹夜明けの状況だから少し気が立っていた。

「考えないね。俺は途方もなく馬鹿だから、エントロピー弾性が邪魔をして虚物質泡のふるまいが安定しない、なんて危険性は知りもしないし想像もしない」

「本当に想像できてねえのは人の気持ちじゃないのか」

「おい、ブル、俺は」

「できたぞ。勝手に行け、馬鹿野郎」

 ブルがコンソールに拳を叩き込む。マシンに取り付いていた作業腕がアクチュエータ複雑系を微かに唸らせながら自らを畳むさまは、仕事終わりの一杯の相談しながら引き上げていく港湾作業員たちのようだ。俺は無言で操縦席に上がり、レーシングスーツのバイザーを閉めながら未練がましく身を乗り出した。

「よお、ブル、俺の株券、お前にやるよ。すごく美味い酒でも飲んでくれ」

「美味い酒……。ハッ」

 鼻で笑われた意味が俺には分からない。ブルが再びコンソールをパンチし、マシンを質量射出機マスドライバーレールに載せる。運ばれていくマシンの座席から、遠ざかっていくブルを見つめる。ブルはこっちに目を向けようともしない。仕方なく俺は首を引っ込め、天蓋キャノピー閉鎖をコマンドした。

 ブルの言うとおりかもな。俺がほんとに想像できてないのは、ガキの頃からつるんできたあの親友の気持ちなのかも。ブルだけじゃない。この世に存在するどんな人間の気持ちも神の気持ちも俺は全然分かっていない。だから黒丸ブラックホール近傍の紡錘体スピンドルなんかで骨壷めいたマシンに収まり、狂気の競走ランのスタート・フラグが振られるのを待っている。

〔全機の射出が了承されました〕

 通信機がAI合成音声でさえずり、俺は四層多重操作盤クアトロコンソール投影ホロへ手を差し入れる。他の神々が黒丸ブラックホール目掛けて打ち出されていく反動が数回俺の尻を揺らし、16秒後に俺の番が回ってきた。

〔グレイ・ジャヘッド卿、射出〕

 衝撃。という以外にない加速度の暴力。俺は恐るべき慣性力によって特別あつらえの座席に耳まで沈み込み、重圧によって締め付けられた肺から呼気の最後の1mLまでもを吐き出した。これは加速というより正確には減速だ。黒丸ブラックホールの周囲を楕円軌道で周回していた紡錘体スピンドルから恐るべき勢いで減速射出された俺のマシンは宇宙空間に飛び出た途端に超重力に捕らわれる。渦巻き状に吸い込まれながらスタートラインへと近づいていく。

 ブラックホール内では片時たりとも同じ位置には留まれない。ゆえに静止状態から一斉にスタートするのは不可能。ではどうするかと言えば複数の紡錘体スピンドルから綿密に計算されたタイミングと速度で各マシンを射出し、シュヴァルツシルト半径かっきり42%の位置で全員を一瞬横一列に接触コンタクトさせるわけだ。それが競走ランの始まる瞬間。

 俺は深呼吸を繰り返しながら外の様子に目を凝らす。光さえ吸い込むブラックホール重心に近づくにつれ、周囲は歪んだ光線が村雨のように降り注ぐ漆黒と光輝の空間に変化しつつあった。あの光線のひとつひとつが飲み込まれていく光子の瞬き。小惑星や古いマシンの残骸に光線が当たれば反射はするが、反射光さえ直進できずにブラックホール側へ吸い込まれていくから俺には周りの障害物が滅茶苦茶に崩れて見える。低質な素人製インディーズゲームのバグ画面グリッチみたいな気味悪さ。こんな状況であらゆる物を避けながら俺は縫い進まなきゃいけないのか。

 と、横手に淡い輝きが次々合流してきた。競走ランの相手、偉大なる神々のお出ましだ。

 ラダ精霊ロアの長ダンバラ・ウェドゥ。その隣でロールを繰り返してるお調子者は十字路のレグバ。天部きっての俊足韋駄天カールティケヤ。瞬く間に天地を結ぶヘラの伝令、虹のイーリス。ガーナからは天空神オニャンコポン。張果老ヂァングオラオはふざけたことに白い驢馬ロバ型のマシンにまたがり登場だ。梁山泊百八星がひとり神行太保しんこうたいほう戴宗たいそうは疾走一日八百里。フリッグの侍女、空駆けるグナー。万物流転の守護者ヘルメス。白薔薇模様の気取ったマシンは稲妻の天使バラキエル。ひときわ巨大な漆黒の影、闇を撒くものダーク・スターデュグラディグドゥ。優勝候補の一角、名状しがたき黄衣のハスター。

 そして俺の真上には、勿論、そうとも、エヴォニッツァ。誰より尊く輝くひとよ。

〔これより先では電磁波が超重力に拘引され通信が途絶します。皆様良い走りランを〕

 これっぽっちも情の籠らぬ励ましが何故か今は涙腺に来る。俺の情緒に構わずスタートラインは目前に迫り、

秒読み開始カウントダウン・トゥ・コンタクト。3、2、1、接触コンタクト

 発進。各機一斉に加速をかけて光のシャワーへ飛び込んでいく。先行したのは虹のイーリス。次いで天使バラキエル、ハスター、韋駄天カールティケヤと続き残りはほぼ団子状。俺は完全に出遅れた。神威で物理法則を超越してる連中とは加速力が違いすぎる。

 だが負けるためにこんな場違いな競技に紛れ込んだわけじゃない。

 複素加速コンプレックス・アクセラレーションをかけて俺は超光速の世界へ飛び込んだ。時空が歪む。存在と時間が乖離かいりしていく。俺は必死の思いで形なき四層多重操作盤クアトロコンソールにすがり付き、猛烈な吐き気に耐えながら更に加速する。走れラン走れラン。まだ行ける。走れラン走れラン。限界か。だが限界とやらを超えなきゃ到底ヤツには追いつけない。

 走れランッ。

 最後尾から猛烈に追い上げ、驢馬の背中でおどけてる張果老ヂァングオラオをまずは追い抜く。続けてグナーを、ヘルメスを抜き、オニャンコポンに並んだところで前に彼女の尻が見えた。

 エヴォニッツァ。

 俺は怒りに目を引ん剥いた。なんだあのチンタラした走りは。女神のマシンが明らかに遅い。一目で分かる。プランクチューブ。全然清掃してないな。グルーオンかすが溜まりに溜まって超ひもスーパーストリング目づまりを起こしかけてる。俺が去ってから8ヶ月半、新しい整備士雇ってないのか。

 そんなマシンで勝てる気かよ。それほど余裕か。舐めるな女神。

 さらに加速し俺はついに極超光速域へ突入した。皮膚組織が虚次元泡に侵食されてずたずたに崩れ始める。静電気刺激が神経を直接蝕み始める。周囲の風景は飴のように融け、もはやどこに何があるかすら判然としないマーブル模様に変質し、俺はいやます吐き気の中でしかし一人で笑っている。たどり着いたぞ。神の領域。並んだぞ。お前の横に。

 そして今、女神を追い抜く。

「ヒーハーッ」

 奇声を発して俺はエヴォニッツァの前に出た。だがこれで終わりじゃない。前方に見える神々のマシンは急遽進路を変え横手の瓦礫デブリ群に突っ込む。さあここからだ。これがエヴォニッツァが為したパラダイムシフト。彼女があのショートカットをやらかして以降、全ての出場者にとって瓦礫デブリ群を突っ切るのが基本戦術となってしまった。

 ゆえに当然、俺も突っ込む。

 垂直加速で軌道遷移、鬱蒼たる瓦礫デブリの森に俺のカバルリィは突入した。奥歯を噛み締め、神経を研ぎ澄まし、ミリ単位の正確さで操作盤コンソール中へ指を躍らせ、障害物の中を縫い進んでいく。かつて女神がしたように。俺に見せつけてくれたようにだ。

 が、予想だにしない突然の衝撃が上から俺を揺るがして、俺は悲鳴を挙げてダッシュボードへ顔面を打ち付けた。何が起きたか一瞬分からず、混乱の内に上へ目を向け、ぞっとするような漆黒の巨体が再び迫っていることに気付いて反射的にその場を飛び退く。軽くこちらの10倍はあろうかという紡錘型の船体は闇を撒くものダーク・スターデュグラディグドゥ。咄嗟とっさの回避で間一髪、圧壊だけは免れたが、奴の異様な質量が生み出す質量場の歪みで俺のちっぽけなマシンは木の葉のように吹き散らされる。

「何しやがるっ……」

〔生意気な人間風情が〕

 脳髄にキンキン響く神の声。俺は耐えがたい耳鳴りがためにヘルメットの中へ胃液を撒き散らす。レーシングスーツの換気機能が勢いよく吐瀉物を吸い込んでいくのを目の前で見ながら、喘ぎ、わめき、どうにか正気を保とうと自らへ落ち着けと言い聞かせ続ける。神の思考との直接接触は人間にとっては発狂ものだ。だが奴は遠慮会釈なく敵意を送り込んでくる。

〔神に挑もうなどとは片腹痛い〕

 畜生。そういうつもりか。

 デュグラディグドゥ横っ腹の全砲門が口を開けた。ただ一点、俺だけを狙って。

 神々は互いを攻撃なんかしない。生半可な攻撃など効かないし、効くほど本気で仕掛ければ巻き添えで世界に傷をつけ、我が身まで危うくするからだ。だが相手が弱っちい人間なら話は別。人間ごときが神々の遊び場に紛れ込んだのが気に食わなけりゃ、軽く天罰を下したってどこからも文句は出ない。死にかけの蝉を踏み潰すようなもの。

 潰されるか。潰されるかよ。

「邪魔すんじゃねえぞクソ野郎ッ」

 俺は胃液の残りを吐き捨てて、マシンに再加速をコマンドした。



(つづく)

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