第4.5話 プロローグ『けいちゃん』
きっかけは、些細な事だった。
「ねぇ、みなもちゃん! 部活決まった?」
「いや、何も……」
「じゃあさ! 私と一緒にやろうよ!」
友達に誘われて辿り着いた先は、水泳部だった。
特にやりたいことがなかった私は、とりあえず一年間続けてみることにした。
だけど結局、部活に熱を入れることはなかった。
こうして私は、何の目標もないまま無気力に中学三年間をただ浪費する──、
かと思っていた。
彼の姿を見るまでは。
中学2年生の夏。
県大会、男子50m自由形の決勝レース。
第4レーンで泳いでいた彼は、他の選手とは段違いに綺麗なフォームで、気づけば誰よりも速く泳ぎ終わっていた。
プールから見上げる彼の表情は、一位を取った嬉しさや自分のタイムに満足した様子ではなく、どこか楽しそうな微笑みを浮かべていた。
……私は、そんな彼の姿が羨ましく、憧れを抱いてしまった。
夏が過ぎ、オフシーズンに入った水泳部は学校の屋外プールが使えないため、近くの市民プールを借りて練習することになっている。
「「お疲れ様でしたー」」
「みなもちゃん、帰ろー」
「あ……ごめん、忘れ物。先行ってて」
「そっか、じゃあ、また明日ね!」
いつも通り部活を終えて解散した後、私はその場で立ち止まり市民プールへと引き返す。
「すいません……先程お借りした水泳部の者です」
「はいはい、どうしたの?」
受付に声をかけると、奥から担当のおばさんが来てくれる。
「あの……私、もうちょっと練習したくて……」
「あら~! 部活熱心なのね! でも、う~ん、そうねぇ。少し待っててくれる?」
「はい」
受付のおばさんは、悩みながら奥に戻ると姿が見えなくなってしまった。
部員も先生も帰ってしまい、何か手続きが必要なのかもしれない。
確かに、延長するならお金も……、
「いいわよ~」
「……え?」
「20時まで1コース開けておくからね、頑張ってね!」
「はい……ありがとうございます」
時間をかけた割にはあっさりと許可が下り、私はもう一度水着に着替えてプールに足を運ぶ。
「誰もいない……」
どうやら、この時間は利用者が少ないため、1コースぐらい貸し切りにしても何の問題もないらしい。
それならと、お言葉に甘えて自主練に励むことにした。
一通り泳いだ後、プールの中でゴーグルを外し呼吸を整える。
そうした小休憩がてら、なんとなく上を見上げたとき──、
「……?」
二階席の柵にもたれかかった、ひとつの背中が見えた。
その後ろ姿は全く見覚えがないけど、私と年が近そうな男の子に見える。
(……誰かを、待ってる?)
しかし、この市民プールには今、私と職員しかいない。
彼は泳ぎにきたわけでもなく、ただ一人で二階席に座り込んでいる。
そんな彼の存在を気にしつつ、私は決められた時間まで泳ぎ続けた。
20時をまわった頃、プールから上がった私はふと二階席を確認すると、彼の姿はなかった。
私は更衣室で制服に着替え、受付で挨拶をするついでに尋ねてみる。
「ありがとうございました」
「あらあら、遅くまでお疲れさま」
「あの……さっき、男の子いませんでした?」
「男の子? ああ~! けいちゃんのことね!」
「けい、ちゃん……?」
「そうよ~! 毎日来てくれるのよ、あの子」
「その、けいちゃんって子は、ここで泳いでるんですか?」
「う~ん……私は受付係だから、あんまりわからないのよね。ほんと、毎日何してるのかしらね、ふふっ」
「そう、ですか……」
「でもね? あの子はここのプールが大好きでとっても良い子だから、うちの職員はみんな信頼してるのよ。あなたも、良かったらけいちゃんと仲良くしてあげてね?」
「え、まぁ……はい」
それから、私とけいちゃんの二人だけの時間が始まった。
毎晩毎晩、居残り続ける私は、どれだけ泳いでも孤独を感じることはなかった。
見上げれば、必ず彼がいたから。
彼の姿を見ていると、不思議とまだまだ泳げる気がする。
私は、彼のことを全く知らない。碌に言葉を交わしたこともない。
誰に見せるわけでもない自己満足の努力。
それでも彼は、いつも見てくれた。
彼の存在が、私の背中を押してくれた。
まるで、毎日頑張る姿を遠目で見守る家族のように──。
迎えた中学3年生の夏。
あの日から一年が経った県大会で、私はあの人と同じ種目で8位入賞を果たした。
自分の力で、初めて勝ち取った賞状。努力の証。
これまでの人生でこんなに嬉しいことはなかった。
だけど、これは決して私一人だけのものじゃない。
私は賞状を片手に、お世話になった市民プールへと赴く。
「こんにちは」
「あら、みなもちゃん! 今日も泳ぎに来たの?」
「いえ、今日は、いつも使わせていただいたお礼を」
「あら~! いいのよ、そのくらい! もう泳ぎには来ないの?」
「はい、引退試合も終わって、これから受験勉強で忙しくなるので」
「そうなの~、ちょっと寂しくなるわね。でも大丈夫よ! 私たちはみんな、みなもちゃんのことを応援してるわ!」
「ありがとうございます。それで、その……来てますか?」
「ん? 誰が?」
「……けいちゃん」
「ああ~、それがね? 最近来てないのよ」
「えっ」
「突然、消えたようにいなくなっちゃって、あの子も受験で忙しいのかしらね」
「そう、なんですか……」
「わからないけど、少しは顔出してくれないと心配よね、みなもちゃんも」
「え?」
「あら、知らなかったの? あなたがいつも練習できたのは、けいちゃんがいてくれたからなのよ?」
「え……」
「まぁ、近いうちにまた来ると思うけど……もし、どこかであの子に会ったら、よろしく言っといてくれる?」
「……はい、ありがとうございました」
私は、驚愕の事実に理解が追い付かないまま、ゆっくりと外に出る。
『あなたがいつも練習できたのは、けいちゃんがいてくれたからなのよ?』
それって、どういう──
ふと目についた利用時間の看板に、その答えがあった。
[ 18時以降:16歳未満は、保護者または同伴者が必要。 ]
まさか……!
『毎日来てくれるのよ、あの子』
『あの子はここのプールが大好きでとっても良い子だから、うちの職員はみんな信頼してるのよ』
私が自主練を申し出たとき、受付のおばさんが相談したのは『けいちゃん』で。
毎日、残ってくれた……私のために?
嘘、そんな──!
思えば当然のことだった。
しかし、その事実に気づくにはもう、遅すぎた。
『突然、消えたようにいなくなっちゃって』
……待って、待ってよ。
右手に握りしめた努力の証が、潰れていく。
私、まだ一度も話したことがないのに──!
「けいちゃん……」
会いたい。
「けいちゃん……!」
会いたい。
……けいちゃん。
友達でも、家族でもない、特別な人。
はじめましての一言すら交わしたこともない。
だけど、もう一度会いたい。
あの時間みたいに、二人だけの空間で。
たくさん話して、友達になって、それ以上に──。
今度は、私があなたの傍にいたい。
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