第4話 水面


「あちゃー……ちょっと、やりすぎたかな」


 先輩の言葉に触発されたぼくに、親友けーとはしびれを切らして帰ってしまった。

 あんなに怒った彼を見たのは初めてだった。


「あっ! 先輩が悪いわけではないので気にしないでください! あと、ぼくは水泳部に入る予定なのでこれからよろしくお願いしますね! それではっ!」


 気まずそうに佇む先輩にそれだけを言い残し、急いで彼の後を追いかける。


「……」


 そのまま男子更衣室に直行するも、彼の姿はない。

 ぼくは自分の鞄を雑に取り、慌てて上履きに足をはめる。

 そして、男子更衣室の入り口から飛び出したその時、


「待って」


 思わぬ人物から呼び止められた。


「! 君は、確か……」


 まさかこのタイミングで声をかけてくるとは思わなかった。

 ぼくは咄嗟に足を止め、女子更衣室から出てきた彼女と向き合う。


「鷹口さん、だよね。何の用かな?」


「……橘君、市民プールが好きなの」


「え、ああ! そうだよ、彼にとって大切な場所なんだ」

「……ル」

「え?」

「沼岡、市民プール」

「そうそう! けーとはあそこが大好きだったん……って、ええ!? なんで、それを知って」

「なんでもない」

「いやいや! そういうわけにも」

「ねぇ、急いでるんじゃないの」

「あっ」


 突然のあまり彼女に気を取られていたぼくは、本来の目的を忘れかけていた。


「んーそれじゃあ! 今度、いろいろ聞かせてもらうからね!!」


 気になることが山ほどあるけど、それよりも大事な人がいる。

 ぼくは夕日に照らされた学校の中を駆け走り、昇降口へと向かった。


 もう二度と、彼の背中を見捨てるわけにはいかない。


 ぼくが、ぼくであるために。



 ▽▼▽▼▽▼



 ──遡ること1時間前。


 私は、今日も一日を普通に過ごしていた、わけではない。

 というのも隣の席に座っている、茶髪で、いかにもチャラそうなこの男。

 昨日はこの男にいきなり匂いを指摘されてドン引きしたが、今はもう気にしていない。

 さすがに初対面の女子を相手に「君、匂うね」なんて言ってくるほどデリカシーのない男子高校生はそうそういない、はず。とりあえず、言葉の綾かなんかだと信じておくことにした。


 それとは別に、私はあることで彼に気掛かりをしている。


 それも、彼が前の席の男子から『けーと』と呼ばれていること。

 橘 恵人。恐らく『けいと』だと思うが、私の記憶の中にも『けい』という人物がいる。

 彼らの会話を耳にした時、その似たような名前と水泳経験者という共通点から心臓が跳ね上がりそうになったが、落ち着いて考えれてみれば当然のことだった。あんな最低な男と私の『けい』が同一人物であるはずがない。


 だけど、気になってしまったものはしょうがない。

 いくら別人とはいえ、私の中の『けい』はそれほど大きな存在なのだから。


 放課後を告げるチャイムが鳴り、帰りのHRが終わった頃。

 彼らから、水泳部を見学するという話が聞こえてきた。

 ちょうど、私も水泳部に入部しようとこのまま直行するところだったから、試しに彼らの会話を聞きながら後を付けてみることに──

 

 ……は? 何言ってるの、私?


 無意識にとってしまった自分の行動に対して冷静になるも、時すでに遅し。

 ここまできたら、もう最後まで付いていこうと決心した。


 そして、屋内プール場の更衣室で別れた後、彼らに遅れる形でプールへ出たとき―


「ほんと、けーとはあの市民プール好きだよね」

「はん、言うまでもないだろう? あっちには二階席もあるし電光掲示板だってある。ここまで広くはないけど、自分の部屋みたいに落ち着く狭さだし、何より古臭い」

「それ褒めてるの……?」


 (え……、今なんて……?)


 私にとって、聞き捨てならない話が飛び込んできた。


 二階席。電光掲示板。それほど広くない狭さ。古臭い。


 そんな市民プールなんて、あそこしか──、


「おや? 君も見学者かい?」


「あ……はい」


 呆然と立ち尽くしていた私は先輩と思われる人に呼ばれ、自分が置かれている状況を理解し、すぐさま彼らの下へと歩み寄る。


「そうか! 来てくれてありがとう! さっきも言ったけど、今は部長がいなくてね。代わりに俺が対応するよ。何か聞きたいことはあるかい?」


「園田と言います。ここの水泳部ではどんな活動をされているのですか?」

「それで……うちにはそういったハイレベルな選手がごく僅かでね」

「先輩……それなら、ちょうどいいところに! ピッタリな新入生がいますよ!!」

「しかも、小学生でJOC! 中学生で関東そして全国大会にも出場できる実力を!」

「いい加減にしろよ!!!!」


 なにやら会話が進まれている中、私はさっきの市民プールの話で頭がいっぱいだった。

 そして、プール全体が静寂に包まれた瞬間をきっかけに、私は再び我に返る。

 気が付くと橘 恵人の姿はなく、園田とかいう男子も彼の後を追いかけるようだった。


「ぼくは水泳部に入る予定なのでこれからよろしくお願いしますね! それではっ!」


 ダメ。彼が行ってしまったら、もう確かめる機会は来ないかもしれない。


「……私も」


 気まずそうに佇む先輩を取り残し、私も彼の後を追う。

 私は一目散に女子更衣室の入り口に走りこみ──、


「待って」


 なんとか、彼を呼び止めることに成功した。が、その先はノープランだ。


「……橘君、市民プールが好きなの」


 半ば強引に話を切り出し、聞くだけ聞いて済ませることにした。


「沼岡、市民プール」

「そうそう! けーとはあそこが大好きだったん……って、ええ!? なんで、それを知って」

「なんでもない」

「いやいや! そういうわけにも」

「ねぇ、急いでるんじゃないの」

「あっ」


「んーそれじゃあ! 今度、いろいろ聞かせてもらうからね!!」


 彼は私にそう言い残すと、颯爽と走り去って行く。


 とりあえず、聞けてよかった。

 いや、よくない。非常によくない。


 (……私の推測が当たってしまった)


 沼岡市民プール。

 私と『けい』が一年間、二人で過ごした場所。


 そして、橘 恵人けいと


 (まさか、本当に彼が……)


 トクン。


 心臓が呼応する。


「……けいちゃん」


 私は行き場のない複雑な気持ちを抱えたまま、夕焼け空を見上げていた。

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