第1話 高校エンカウント


「ねぇ、覚えてない?」


 夕日に照らされた放課後、体育館に隣接された屋内プール場に呼び出されたたちばな恵人けいとは、ある一人の女子生徒に詰め寄られていた。


「今みたいに、二人だけの時間があったこと」


「あなたが、生きる道をくれたこと」


 彼女は自分の想いを募らせる度、一歩、また一歩と距離を縮めてくる。そんな彼女の姿は、決意に満ち溢れている笑顔を浮かべていた。


「俺が、何を……?」


 彼女の行動に心当たりがないし、全く身に覚えもない。

 そんな俺は必死に動揺を抑えながら徐ろに近づいてくる彼女に合わせ、一歩ずつ、後ろに下がる。


「ふふっ、両方」


 本当に、彼女が何を言っているのか全くわからない。

 だが、そんなことを考える余裕もなく刻一刻と詰めてくる彼女に対して、俺は後ろに下がることしかできない。動悸が高鳴っていく。


「──っ!」


 ついに、背後の壁に行く手を阻まれた俺は逃げ場を失い、二人の駆け引きに終止符が打たれる。


 そして、互いの身長差を埋めるようにゆっくりと彼女から最後の一歩が踏み出され──、


 俺は、忘れていたを、思い出した。



▽▼▽▼▽▼



「やっと……やっとこの日が来た……!」


 まだ少し肌寒く感じるそよ風に桜が舞い散る4月上旬。

 俺はついに、念願の高校入学を果たした。


「ようやく解放されたんだ……俺は、自由なんだっ!」


 入学式から間もなく、周りが何となくざわつき始めた教室の中で俺は一人、既に充実した高校生活を噛み締めていた。


「またそんなこと言って、入学早々ヤバい奴認定されても知らないよ?」


 軽いため息を吐きながら、前の席に座る爽やかな男子が振り返る。

 園田そのだ 礼哉れいや

 幼稚園から小・中と人生を共に歩んできた幼馴染であり親友だ。何故か、高校まで付いてきた可愛いやつ。

 誰に対しても優しく、真面目でリーダーシップがあり、成績優秀……中々の優良物件だが、残念。彼女持ちである。


「れーやだって分かるだろ? 俺が散々苦悩してきた日々を!」


 俺はこれまでの人生を思い返すと同時に、その一つ一つを噛み潰すように机を叩く。


「まぁ、けーとの気持ちも分かるけどさ……本当に、何もしないの?」


 そんな親友の凶行を前にしても、れーやは冷静に俺のことを心配してくれる。唯一の理解人。まじでいい奴。


「当然だ。俺は今日という日を楽しみに待ち望んでいたんだ! もう誰も、俺をさげすむ人はいないし、毎日学校帰りに泳がなくてもいい! これからは、帰宅部に現れたダークホースとして高校デビューを飾るんだ!」

「勢いだけで全然かっこよくないよ……それに、高校デビューってそういう意味じゃないと思うんだけど」

「れーやこそ、彼女持参で高校に進学だなんて……もう俺とは一緒にいられないってか、この浮気者!」

「そんなことないよ。彼女がいても、僕とけーとの関係は変わらない。僕に大切な人が増えただけだよ」


 くそっ! いちいちかっこいいな!

 これだから天然たらしってやつは!

 くそっ! けーと許しちゃう!


「それと帰宅部になるって言うけど、ここのプールは水泳部じゃないと使えないんだよ?」

「そ、それは……」


 何を隠そう、俺は屋内プールでくつろぐことを生きがいとしている者。

 俺にとってプールという環境は、放課後の図書室のように、あるいは自分の部屋のように心を落ち着かせる。それほど思い出深い場所なのだ。


「それは、あれだよ! こう……しれ〜っと侵入して? その場の空気に溶け込み、俺を無き者として扱ってくれれば」

「もう変態だよ……ヤバい奴認定飛び級してるよ……ちゃんとって言ってるし」

「じゃあ、れーやはどうすんの。水泳部に入んの?」

「もちろん、ぼくは続けるよ」

「なら……!」

「ダメ、絶対。嫌なら諦めてぼくと一緒に」

「もう、水泳はやらないって決めたんだ」


 一瞬、視界に映る隣の女子生徒の体がピクリと俺の言葉に反応したように見えたが、気のせいだろう。


「……まぁ、けーとがそう言うならいいけど」

「でも、勿体ないと思うな……全部なかったことにするのは」


「いいんだ、俺がなかったことにしたいから」


 俺は開き直るように静かな微笑みを浮かべる。

 もう、何も思い残すことはないから。


「すまない、遅くなった」


 足早に教室へと駆け込んできたのは、ここ1-Bクラスの担任、小見山こみやま先生だ。

 男子高校生にも引けを取らない高身長と細身のスタイル、キリっとした顔立ち、黒髪を後ろで束ねた、まさに美人教師という言葉を体現している。

 ってか、美人教師ってほんとに存在するんだ……。


「随分と待たせてしまったな、今日はこれで解散だ」


 先生の登場によって入学式後の待機時間から解放された生徒たちは、それぞれ帰り支度を始める。


「明日から授業始まるからなー、気をつけて帰れよー」


 そうして、校内のざわめきが一層増した中──、


 (……よしっ、帰ろう!)


 俺は早速、記念すべき一日目の直帰に胸を踊らせて──、


「ねぇ」


 ……ん?


 今、誰かに声をかけられた気がしたような……。


 思わず声がした方向に顔を振り向かせる。

 そこには、隣の席に座る女子生徒が横目でこちらを見つめている姿があった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る