第8話
D組は足並み揃えて体育館へ向かう。しかし、その足取りはさほど速くなく、むしろ、時には立ち止まってしまうほどゆったりとしたものだ。おそらく、もちろん、私たちD組だけではなく、前を歩くE組、後ろからついてくるC組もほぼ同じタイミングで足を止めている。
(入場に手間取ってるのかな?)
榎本先生からは特に入学式に関して説明はなかった。一応、入学案内には入学式のプログラムが同封されていたので入学式がどんな風に進行されるのかは頭に入っている。しかし、最初の項目には『新入生入場』としか書かれていなかったと思う。
「……」
ちらりと隣へ視線を向ける。そこには少し眠たそうに前を見ている例の男の子の姿。この調子では私たちが体育館へ入場するには少し時間がかかりそうだ。それは他の生徒たちも感じているようでコソコソと小声で話しているのが耳に届く。
(これは、話しかけるチャンスでは?)
進まない列。
暇そうな彼。
話しかけたい私。
これはまさに神様がくれたチャンスと言っても過言ではないだろう。
(でも、どうやって話しかける? 話しかけた後は?)
だが、いきなり話しかけても怪訝な顔をされて無視されてしまうかもしれない。ここは一度、頭の中でシミュレーションしてからの方がいいだろう。
『いい天気だね』
『ああ』
『……』
『……』
はい、会話終了。空気完全にお通夜モード。
駄目だ、天気デッキは緊急用の切り札。最初から使ってしまったらもう手札がなくなってしまう。もう少し引き延ばせそうな会話はないだろうか。
そうだ、自己紹介。まだお互いに名前を知らないはずだ。まずは名前を知ってもらうところから始めよう。
『影野姫っていいます』
『は?』
『……』
『……』
うん、いきなり名前を言われてもビックリしちゃうよね。『なんだこいつ』となって関わらないようにしようとか思われるかもしれない。
私の名前を知ってもらう前にワンクッション……いや、ツークッション、スリークッションほど欲しい。そのためには、共通の話題? でも、彼のことは何も知らないし、共通点はどこにも――。
(――そうだ、彼も南町住み!)
これはなかなかいい話題なのでは? きっと、彼も朝の登校を経験して愚痴を吐きたくなっているかもしれない。これぞまさに共通の話題と言っていいだろう。
『確か、あなたも南町住みだったよね? 登校、大変じゃなかった?』
『いや、別に』
『あ、そうでした、か……』
『……』
『……』
そうだよね、必ずしも彼が朝の登校が大変だったと思っているとは限らない。もし、そうだった場合、いきなり愚痴を吐き散らかした失礼な女扱いされてしまう。
「――い」
(それだけは避けたいなぁ。彼には朝、助けてくれた恩もあるし)
「おい」
(そうだ、まだお礼をちゃんと言ってなかった! そこから切り込んで――)
「おいって」
「ひゃい!?」
上から男の子らしい低い声が聞こえてビクッと肩を震わせてしまう。咄嗟に見上げると怪訝そうな表情を浮かべた彼が私を見下ろしていた。そこそこ距離が近くて理由はわからないが、私は息を呑んでしまう。
「……進んだぞ」
「へ? あ、はい!」
何の用事だろうと体を硬直させていると彼が私から視線を前へ移す。そこには数歩ほど進んだクラスメイトたちの背中が並んでいた。しまった、考え事に夢中になって周囲が見えなくなってしたらしい。慌てて、広がった距離を詰めると少し遅れて彼も私の隣に並んだ。
たった数歩。多少、間が空いていても列そのものが止まっている今の状況で周囲から注意されることはないだろう。
――なにぼさっとしてるの、邪魔なんだけど。
それでも彼はわざわざ私に声をかけて教えてくれた。まだ彼のことは何も知らないのにそこに彼なりの気遣いが込められているような気がして少しだけ胸の奥がポカポカする。
「ぁ、の……ありがとう」
「別に」
気づけば、私は彼にお礼を言っていた。もちろん、彼の反応はたったそれだけ。私と関わりたくないのか、それともお礼を言われるようなことではないと思っているのか。そのどちらにしても続けようとしていた言葉を止めるには十分な切れ味だった。『ひゅっ』と小さな息が私の震えた唇から漏れる。
――話しかけないでよ。
「それでも、ありがとう」
だが、いつもなら立ち止まっていたはずの私は彼が声をかけてくれた時のようにもう一歩だけ、彼の心へ踏み込んだ。どうして、勇気を出せたのか。正直、私が一番驚いている。それでも、一歩踏み出せた事実は変わらない。
「……そうか」
その結果、少し驚いた表情を浮かべた彼は先ほどよりも僅かに柔らかい声音でもう一言だけ添えてくれた。
「ぁ、と……朝のバスの時もありがとう」
「……何のことかわからん」
「止めててくれてた、よね?」
「……結果的にそうなっただけだ」
「なら、やっぱりありがとう。おかげで遅刻せずにすんだよ」
ああ、なんというか。久しぶりの会話らしい会話だ。もちろん、一緒に住んでいたおじさんたちとは普通に会話していた。でも、同年代の子と会話らしい会話ができた試しがほとんどない。だから、ちょっとだけ新鮮な気分だった。
「……そうか」
彼は私のお礼を受け取ってくれたのか、特に反論することなく、短い言葉を零して前へ進む。当たり前の話だが、彼が私を追い越した。大きな背中が私の視界に大きく広がる。
(大きいなぁ……)
朝のお礼も言えたし、会話すら満足にできない私にしてはよくやった方ではないだろうか。
いや、だからこそ。ここで満足してはいけない。ここで終わったらこれまでと同じだ。
(一歩、踏み出せたんだ……だから――)
――もういっぽぐらい、ふみだせるよね?
「名前」
「……は?」
「名前、聞いてもいい?」
私はいつの間にか彼の左袖を掴み、質問した。私に掴まれた彼は自然と足を止める形となり、驚いた様子でこちらを見ている。ジッと目と目が合う。朝と同じ。違うのはあの時は私が振り返っていたのに対し、今回は彼が振り返っていること。
「……『
「ツルギ、ハルカ」
どんな字を書くのだろうか。もっと、聞いてもいいだろうか。迷惑、ではないだろうか。
いいや、違う。まず、私がすべきことは――。
「私は……私の名前は『影野 姫』。これからよろしくね、ツルギ君」
――私のことを知ってもらうことだ。
「……ああ、よろしく。影野」
「ッ……うん! ほら、早く行こ!」
「あ、おいって」
ツルギ君に苗字を呼ばれただけで何故か嬉しくなった私は少し遠くまで行ってしまったクラスメイトたちに追いつくために駆け出す。彼の左袖を掴んだままだったのでツルギ君はバランスを崩すがすぐに態勢を立て直してついてきた。
よし、この調子でどんどん声をかけていこう! 楽しい学校生活にするために!
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