第1話

 暗い暗い森の中。月の光すら届かない深い森の中。

 その人はそこで立っていた。ポツン、と何かを待つように身動き一つせずにただ、そこに佇んでいる。

 服装は闇に紛れてしまいそうなほど黒いフード付きの外套。すっぽりと全身を覆い隠し、輪郭がぼやけて見える。そのせいで体型が上手く把握できず、性別はわからない。かろうじて、身長は160cm程度だろうと予測できるぐらいだ。

 そんな彼、もしくは彼女が森の中で立っているが、しっかり見ていないと幻のようにフッと消えてしまいそうで私は必死に目を凝らす。

 どれほど経っただろうか。森の中は風すら吹かないため、静寂に包まれている。そのせいで時間感覚が狂いやすく、すでに正確な時間はわからなくなっていた。

「……」

 そんな時、不意にその人は歩き出す。深い森なので歩きづらいはずなのに彼、もしくは彼女はそんな様子もなく、滑るように移動する。その姿は見る人によっては幽霊に見えるかもしれない。

 ふわふわと、輪郭をぼやけさせながら暗い森の中を進む人影。何にも邪魔されず、誰にも縛られず、己の道を往く。

(ああ、やっぱり……)

 そんな彼、もしくは彼女の姿を何度も・・・見てきた私はいつものように心の中で感嘆の声を漏らし、その人の背中へ私は手を伸ばした。





 どうか、どうかあなたのような美しさを少しでも私に――。









「ッ――」

 私は目を開けた。涙で滲んだ視界に映るのは未だに見慣れない綺麗な天井と僅かに震える自分の手。その手を意識的に動かし、その先にある何かを掴もうと握りしめる。小さな私の手に、何かを掴んだ感覚はなかった。

「……はぁ」

 小さくため息を吐き、のろのろと体を起こす。その拍子に寝間着として利用している灰色のスウェットが目に映り、寝汗で変色していることに気づいた。なるほど、どうりで気持ち悪いはずだ。

 寝起き特有の気怠さに顔をしかめながらベッドから降りて伸びをする。気分はいくらかスッキリしたが、寝汗でぐちゃぐちゃになった寝間着をどうにかしないと気持ち悪くて仕方ない。チラリと机の上に置かれた目覚まし時計を見れば本来起きるはずだった時間よりも30分以上早い時刻を指していた。さすがにこのまま二度寝する気も起きず、私は着替えを持って浴室へ向かう。

 寝室を出た後、誰もいないことをいいことにポンポンと服を脱いでいき、脱衣所に着いた頃にはすっかり全裸になっていた。きっと、こんな私を見たらおじさんたちは悲鳴を上げて驚くだろう。一緒に住んでいた時はきちんとしていたが、素の私はこんなガサツな女なのである。

「うぅ、さむっ……」

 脱衣所で寝間着を洗濯機へ放り込んだ後、寝汗で体が冷えていたようでブルリと震える。慣れているとはいえ、いずれこれが原因で風邪をひいてしまいそうだ。そう考えながらいそいそと浴室へ入り、シャワーから熱いお湯を浴びる。

「……ふぅ」

 汗を流してサッパリした私は短く息を吐いた。自然と視線は前――浴室の鏡へと向けられる。

 普段はウェーブのかかった茶髪のセミロング。おじさんとおばさんには褒められたものの、あまり好きではない子供っぽい顔。163cmと女にしては高めの身長。自分でも心配してしまうほど白い肌。そんな私――影野かげの ひめの鏡像がどこか不安そうな目でこちらを見ていた。

(それにしても……)

 私は鏡に映った僅かに充血している目を見て改めてあの夢を思い出していた。

 小学中学年あたりから繰り返し見ている不思議な夢。内容はほぼ同じ。起きた後は決まって酷い寝汗と共に涙でも流していたのか、目元が腫れていることが多い。

 普通の夢と違うからか、少しだけだが視界を動かせるようで最初は暗い森が怖くてあまり見ないようにしていた。

 だが、少ししてそこにあの人が立っていることに気づき、息を呑んだ。普通なら怖がりそうな雰囲気を醸し出しているあの人に私はいつの間にか惹かれていた。それからはあの夢を見る度にあの人を眺め続けている。何か得られる物があるのではないか、とすがるように。

 私としてはあの人のことを見れる唯一の方法なので何度も見たい夢なのだが、欠点を上げるとしたらそれを見ると必ず寝汗で寝間着がぐちゃぐちゃになってしまうこと。それに加え、涙を流していることもあるようで夢を見始めた頃、ソファでうたた寝してしまい、寝汗と涙を見たおばさんに酷く心配させてしまったことがある。それからはおじさんたちの前で寝ないように意識するようになった。

 だが、それでも私はあの夢を見たい。あの人のことを知りたい。

 あくまでもあれは夢だとわかっている。あんな幽霊みたいな人が実在するわけがないと理解している。

 しかし、そうだとしてもこの胸を燻っている何かが求めてしまう。あの人に会って、その答えを知りたいと願ってしまう。






 だから、私はこの街に来たのだ。





「……よし!」

 少し目は赤くなっているが腫れているわけではないので問題はなさそうだ。最後にもう一度、シャワーを浴びてから浴室を出て常備しているバスタオルで水を拭き取る。手早く下着を身に着け、そのまま居間へと戻った。そして、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、一気に飲み干す。

(お腹は……空いてないからいいや)

 そんなことを考えながらペットボトルを分別し、それぞれのゴミ箱へ捨てた。一人暮らしを始めて数日しか経っていないが、どんどん適当になっていく自分に苦笑を浮かべ、寝室へと戻る。そのまま寝室のクローゼットから最初に袖を通しただけの新品の制服を取り出して丁寧に着ていく。

「……おお」

 制服を着た後、寝室に置いてある姿鏡で自分の制服姿を見る。こうやって見るのは二度目だが、前はサイズが合っているか確認するだけだったのでマジマジと観察しなかった。中学校の制服はセーラー服だったのでブレザーを着るのは初めてで少しだけ感動してしまう。難点はあまり好きではない自分がそれを着ていることだろうか。

「ひゃっ」

 鏡に映る自分を見て僅かに顔をしかめると不意に目覚まし時計が鳴り響き、小さく悲鳴を上げてしまった。起床した時に止めておくのを忘れていたらしい。慌てて目覚まし時計を止めてカーテンを開ける。暖かい朝日が私を照らし、自然と笑みが浮かんだ。

(ちょっと早いけど、行こう)

 軽くベッドメイキングした後、私は制服のポケットに入れておいたお気に入りのリップを取り出し、姿鏡を見ながら唇に塗る。そして、机の上に置いておいた傷一つない学校指定の鞄を手に取って寝室を出た。

 シン、と静まり返った居間を通り過ぎ、玄関の前に立つ。すでに玄関の鍵は手に持っている。あとはここから出て学校に向かうだけ。

「すぅ……はぁ……」

 深呼吸一つ。今日は私にとって大切な日。ここで躓けば今後の学校生活に支障をきたし、今まで・・・と同じになってしまう。

 せっかく、遠い街の高校に進学して人間関係をリセットしたのだ。このチャンスを逃したくない。

「……行ってきます」

 ガチャリ、と玄関を開けて誰もいない部屋に告げる。

 まだ肌寒い4月6日。高校1年生になって初めての登校。これから通う、『市立音峰北高等学校』――通称、『北高』の入学式の日だ。

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