三、わたしのみらい

 福井天毬ふくいてまり。無職、二十三歳、女。


「あああもう、死にたい!」


 自室で、叫んでいる人がいた。偶然通りかかった死神は、何だこの人、と奇異なものを見るような目で彼女を見る。彼女から死の匂いは感じなかった。

 天毬は、無造作に置かれている雑誌を手に取り、それを床に叩きつけようと振り上げ……止めた。はぁ、と重い溜息をつく。


「またコンテスト落ちた……」


 雑誌の表紙には、写真コンテストで優勝した写真が大きく載っていた。しかし、それは天毬が撮ったものではない。

 彼女は写真家だった――と言っても、自称だったが。立派なプロの写真家になるために、様々なコンテストに応募しているが、結果は芳しくなかった。

 親には、今年中に結果が出なければ、写真家の夢は諦めてちゃんとした仕事に就けと言われている。そのため、天毬は、焦っていた。そして、自信を持って出した作品がことごとく賞から外され、自信も失っていた。


「死にたい、なぁ」


 ころん、と転げ落ちた言葉が、室内に響く。

 能力がないから仕方ないのだろうが、夢を諦めるくらいなら、死んだ方がマシだ。夢を追えない人生なんて、つまらない。天毬は、ぼんやりとテーブルの上に置かれている無数の写真に目をやる。

 空、花、海、木、人……たくさん、色々なものを撮ってきた。その一つ一つに思い出があって、それぞれが、天毬がそこにいた証だ。

 自分が生きていた証が残るのなら、もう、死んでしまっても……と彼女の視線がペン立ての中のハサミに向いた瞬間。


「駄目だよ」


 突然中性的な声がして、天毬は飛び上がった。ぎょっと辺りを見渡す。そして、ヒッと悲鳴にならない悲鳴をあげた。

 目の前で、少年が胡座をかいている。不法侵入だ何だより、天毬は、その少年の姿の方が恐ろしかった。

 白髪に、金色の瞳。ぱっと見はただの少年だが、背には小さな黒い翼がついていて、何か禍々しいものを感じた。


「貴方……誰……? どうしてこの部屋に?」


 怯えて後ずさりながら尋ねる天毬に、少年――死神は、頬を掻きながら答えた。


「僕は死神。普段は人に姿を見せないんだけど、君に言いたいことがあるから、ちょっと見えるようにしてみたよ」

「死神!? ……私死ぬの?」

「いや、君はまだ死なない」


 天毬は、訝しげに眉を顰めて、もしかしてドッキリ? と尋ねる。死神は、苦笑しながら近くに置いてあるカメラを指さした。「ファインダーを覗いてごらん」と促された天毬は、おずおずとファインダー越しに死神を見た。覗いた瞬間、弾かれたようにカメラを除けた。


「何……何で……本物……?」


 ファインダー越しに見ると、死神の姿は見えなかった。「信じてくれたのかな?」と首を傾げる死神に、彼女は観念したように頷いた。


「おお、物分かりがいいね、君は。こんな風に素直に受け入れてくれたのは、死者を除いて君だけだよ」

「……そりゃどうも」


 投げやりな相槌を打った天毬に、死神は機嫌良さそうに、ふふんと笑う。


「君、今死のうとしていたよね?」

「……ええ、そうよ。それが何?」


 確認する死神に、彼女は挑戦的な声色で答える。死神は、あからさまに肩を竦めた。わざとらしい動作に、天毬はむっと眉間に皺を寄せる。


「君はまだ死ぬ運命じゃないから、勝手に死なないでくれるかな」

「……は? 何それ……私が今ここで死んだら、そういう運命だったってことでしょ? 運命なんてあとづけよ」

「そういう問題じゃないんだよ」

「つまり、私が死ぬのを、貴方が止めれば私は死なない。……死神が私の死を止める運命ってわけ?」


 天毬が今自殺すれば、彼女は死ぬ。そういう運命だったということだ。しかし、死神に見えている運命は、彼女が死なない運命だ。だから、死神は彼女が死ぬのを止める。

 くるくると回るメビウスの輪のようで、首を傾げる天毬は、ああもういいやと考えるのを放棄した。ハサミを取ろうとすると、死神は慌てて彼女の手を叩き、ハサミを取り上げた。


「ちょっとちょっと、止めてって言ってるでしょ!?」

「別に貴方の言うことを聞く義理はないし」

「全く、せっかちだな、君は……。どうして死にたいと思ったんだい?」


 彼女に向かい合って、腕を組む死神に、天毬は俯いた。机上にある写真を一枚手に取る。海と赤い花のコントラストが鮮やかな一枚。

 これを撮ったのはいつだったっけ、と遠い記憶を探る。


「私、写真家になりたいの。でも、駄目みたい……やっぱり私には才能がないのかな……夢が叶わないなら、死んだ方がいいわ」

「死んだら、叶うものも叶わないんじゃないかな?」

「生きてても、どうせ叶わないわよ」


 ピンっと捨てるように彼女の指先で弾かれた写真が、死神の目の前に舞った。死神は、複雑そうにうーんと唸る。そして、意を決して天毬の目を見据えた。


「僕は、今まで多くの人間を看取ってきた」

「そう」

「死に方も様々だけど、死んだ人間の感情は、もっと様々だった。死にたくなかったと嘆く奴もいれば、死んでよかったと笑みを浮かべる子もいる。僕は死神の中でも、あんまり人間に興味がない方なんだけどね。人間って不思議だな、とは思うよ」

「そう」


 死神の言葉に、天毬は淡々と相槌を打つ。死神の声も淡白で、聞いていると薄ら寒くなるような、無機質な会話だった。


「最近看取った子たちは、対照的だったな。男の子は、とても無念そうだった。やりたいことがあったのに、志半ばで死んでね。女の子は、死んで後悔はなかったみたいだ。いやはや、あそこまであっけらかんとしているのは珍しかったなぁ」

「人それぞれでしょうね。で、死神さんは私に何が言いたいの?」

「君はどっちかな、と思って」


 死神の問いに、天毬は、え? と目を瞠る。

 君は死んでも後悔はないのかい、と続けて訊かれて、彼女は答えに詰まった。夢が叶わないのなら、死んでもいい。でも、万が一、どこかで、何かが起こって、夢が叶うとしたら……。


「でも……夢が叶うなんて、そんなの何億分の確率よ。どうせ叶わない」

「どうしてそう思うのかな?」

「だって、何度コンテストに応募しても駄目だったし、生活していくには、夢を諦めるしか……」


 天毬の声が、小さく震えた。

 「『でも』『だって』『どうせ』って……君面倒くさいね」と冷たく言い放つ死神に、「何よ!」と言い返す。


「やりたいことがあったのに、できなくて死んだ人間もいる。まだ夢が叶う可能性があるのに、どうして諦めるのさ? それに、君はきっと死んだら後悔するよ。死にたいって言いながらも、本当に死ぬ覚悟はないんじゃないのかな?」

「…………」


 天毬は何も答えずに、俯いた。ぽたり、と水滴が床を叩く。目の前が滲んで、死神の姿が揺らぐ。

 ごしごしと手で目を擦る彼女に、死神は微笑んだ。金色の瞳が細くなり、白髪が細やかに揺れる。ぞっとするほど、美しい微笑だった。


「ちゃんと生きなよ、天毬」


 死んだら、終わりだ。生きていれば、叶うものもあったかもしれないのに。

 彼女は、夢が叶わなかった場合が怖くて、逃げようとしていただけだ。でも、死という道は、簡単で楽な逃げ道ではない。

 死神は、最近看取った倉田良幸と別府久美香の話を、天毬に聞かせた。彼女の目はまだ自信喪失していて暗かったが、そこに死の色はなかった。彼女の奥底には、まだ希望がある。

 まだ死ぬときではない。心の中に微かな光があれば、人は生きていける。


「君は、無念な彼や、嬉々として死んだ彼女のことを知るべきだ。それから選んだらいい。君がどちらの道を歩みたいのか」


 死神の話を聞いた天毬は、結局、この世界でもみくちゃにされながらも生きることを選んだ。写真家になる夢は、諦めない。生きていれば何だってできる。足掻いてみせる。

 死神は、生きていくと決めた天毬を見て、うんうんと頷いた。そして、彼女に聞こえないくらいの小さな声で、付け加える。


「君は、僕に言われなくても、わざわざ選ばなくても、わかっていたんだ。『写真家になりたいの』という言葉は、過去形じゃない、現在形だ。君は最初から選んでいたんだよ、この残酷な世界で、美しい景色を撮りながら生きていく道を」


 「死神さん」と呼ばれて、死神は我に返り、うん? と返事をする。目の前には、にこやかな天毬の顔があった。

 彼女は、カメラを手に持ち、言う。


「一枚写真撮ってもいいかしら?」

「……あのね、僕は写らないよ」

「いいからいいから!」


 天毬は、ファインダー越しに死神を見る。そこに死神の姿はない。

 「撮るよー」という声にあわせて、死神は反射的に、む、と固まった。パシャリ、と軽い音がして、天毬は満足そうに頷く。死神は、写真を撮られるという初めての経験に、強張った体の力を抜いた。


「ああ、ほら、見て死神さん」

「何? もう、僕疲れたよ。何で写真なんか撮られてるんだ、僕は」

「影だけ写ってるよ」


 自動的にカメラから出てきた写真を死神に見せた彼女の声は、弾んでいた。死神は、え? と目を丸くする。金色の瞳が、ぱちぱちと瞬いた。

 確かに、部屋の風景に紛れて、死神の形をした影だけが写っていた。

 「へぇ……影は写るんだ」と、死神が新たな発見に驚いている一方で、天毬は「これ心霊写真コンテストに出したら、優秀賞とれるんじゃないかしら」と嬉しそうに写真を眺めている。


 私には、叶えたい夢がある。

 その夢が叶うまで、私はもう二度と、諦めない。



 死神は、この子は案外たくましく生きていくんだろうな、と直感する。死神は死を看取る役割を担っているが、生きている人間と関わるのも意外と面白いな、と思った。人間にさほど興味を抱いたことがなかった死神は、ふぅん、と天毬を見つめる。

 人間は不思議だ。よくわからない。今まで多くの人間を見てきたが、人間の考えることはいつもわけがわからなかった。彼女のような人間を見ていれば、わかるだろうか。人間が如何なることで傷つき、嘆きながらも、光を見出し、縋って生きていくのか。

「死神さん、もう一枚写真撮ってもいい!?」

「やだ」

 興奮した天毬に、死神は、素っ気なく断った。

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哀悼歌 幾瀬紗奈 @sana37sn

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