二、愛する人を追った少女

 別府久美香べっぷくみか。学生、二十歳、女。

 良幸の魂を無事天界に送り届けた死神は、ふよふよと地上を彷徨っていた。僕は仕事を終えて一安心だけど、彼にとっては辛いことだったんだろうなぁ、と最後まで悔しげな顔をしていた良幸を思う。

 ふわり、と死の匂いがする。それに導かれるように、死神は街角を曲がった。


「……お?」


 そこでは、交通事故が起こっていた。誰かの泣き叫ぶ声が聞こえる。

 死神は、ああと目を細めた。

 横たわっている男に、縋りついている少女。死の匂いは、既に亡くなっている男からしているのではない。大粒の涙を零して男の名を呼んでいる久美香から、匂っていた。


「珍しいな。死んだ者のすぐ近くにいる人から死の匂いがするのは……。ま、僕としては、男を見守るより、女の子を見守る方が楽しいんだけど」


 そう言って頬を掻く死神に、不謹慎だと諭す者はいなかった。


◇◆◇


 死んだ男は、久美香の恋人だったようだ。通夜、そして葬式を経た彼女が、未だに明るい表情をすることはなかった。


「どうして……あんなに元気でいたのに……。嘘よっ、あの人が死ぬなんて!」


 喪服で帰宅した彼女は、甲高く叫ぶ。艶やかな黒髪を振り乱して、手当たり次第壁に物を投げつける。

 どうやっても抗えない別れが、久美香と恋人を引き裂いたのだ。

 彼女は、本当に彼を愛していた。同じ馬術サークルに入っていた久美香は、馬に乗って駆ける恋人を見て、うっとりと目を細めていた。友達に惚気けて、人前で臆面もなくいちゃついて、幸せだった。

 物が散乱した部屋で、急に虚しくなった久美香は、へたり込む。


「私……彼がいない世界で、どう生きていけばいいの……」


 絶望的な声色の言葉に、答える者はいない。

 死神が彼女の隣で、「元気に前向きに生きるしかないよ。いつまでも泣いてちゃ始まらない。死んだ君の恋人だって、そう思ってるさ」とくっちゃべっても、彼女には聞こえない。否、聞こえていたとしても、彼女が死神の言葉で元気になることはなかっただろう。

 友人や家族は皆、久美香を励ました。恋人の分まで生きなければならない、と。

 しかし、久美香は、世界の全てを否定し、憎む瞳を光らせて、「貴方は自分の好きな人が死んでも、そう言っていられるの?」と返すだけだった。励ましていた人々は、その問いに口を閉ざすしかなかった。


「私は、他の人たちみたいに強くないの……」


 しん、と静まり返った部屋で、久美香の絶望に満ちた声が響く。

 彼女の瞳が、ベッドの上に無造作に置かれてあるベルトを映した。


◇◆◇


 数日後、連絡のとれない久美香を心配して、彼女の部屋を訪れた友人を出迎えたのは、冷たくなった久美香だった。

 彼女は、ベルトを使って首をつっていた。枕元に置いてあった遺書には、自分は恋人のところに逝くのだという旨が書かれてあった。


「どうして久美香……どうして……!?」


 彼女と親しかった者たちは、嘆く。

 そして、悔いる。

 自分たちが、もっと彼女を支えるような言葉をかけていたら、ずっと傍についていてあげたら、と。

 残された者たちは、久美香のことを思い出す。結婚を前提に付き合っていた恋人といつも楽しそうにしていて、彼との結婚生活に想いを馳せ、黒く大きな瞳を輝かせていた久美香は、可憐で優しい子だった。彼女が、愛する人を見て、うっとりとその目を細めることは、二度とない。彼女は自分の意志で、愛しい彼の後を追ったのだ。

 儚い命が、自分で消えていってしまった。

 もう見ることはない彼女の笑顔を思い浮かべて、彼女の葬式に集まった人々は、涙を流した。


「自分で死ぬなんて……勇気があるね、君」

「そんなことない。私は、彼のいない世界で生きていく力がなかっただけ……弱いだけ、だよ」


 死神の隣で、弱々しく微笑む彼女は、眼下に見える人々を見る。

 そこでは、慟哭が渦巻いていた。


「私、死なない方がよかったのかな」


 ぽつりと呟く久美香の目には、彼女の棺の前で崩れ落ちている親が映っていた。

 死神は、空中で胡座をかいて「さぁねー」と答える。


「自殺にしろ事故にしろ病気にしろ、君はあのとき死ぬ運命だった。それだけさ」

「適当なんだね、死神って。……私、恋人に会えるかな?」

「天界は広いからね。ま、気長に探してみなよ。会えるかもしれないし、会えないかもしれない。でも、君は会うために死んだ……そうだろう?」


 死神の言葉に、久美香は下を見ていた顔を死神に向けて、うん、と今度は少しだけ力強く笑んだ。

 悲しみに沈んでいる眼下の光景は、もう見ない。

 空を仰ぎ見るように顔を上げた彼女の想いに答えるように、天界への扉が開く。


「死んで後悔してるかい?」

「ううん。皆には申し訳ないと思うけど、後悔はしてないよ」


 彼のいない世界で生きるより、死後の世界で彼を捜す方がいい、と答えた久美香の顔には、確かに後悔の色はなかった。

 ついこの間看取った良幸とは全く違うな、と思いながら、死神は「そうか、それならよかった」と、本当にそう思っているのか疑わしい声色で頷く。

 残された人々の慟哭を背に、久美香は天界へと旅立っていく。


 彼女には、一生を共にしたい人がいた。

 彼の傍にいるためならば、例えこの命が果てようとも。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る