哀悼歌

幾瀬紗奈

一、夢潰えし青年

 倉田良幸くらたよしゆき。会社員、二十六歳、男。

 外見は人と何ら変わらない少年姿の死神は、良幸の頭上をふわりと横切った。背についている小さな翼を羽ばたかせ、様々な角度から良幸を眺める。

 この死神は、俗にいう「あの世の使者」だった。死にゆく人間を看取るのが役目。一日に何人もの人が死んでいる世界で、死神は、死期が近い者の中から、お気に入りを探し出す。そしてその相手が死ぬまで、付き纏い、死んだ後その魂を天界へと導く。ただし、死者ではない生きた人間が死神を目にすることは、ほとんどなかった。何故なら、死神は滅多に人前に現れないからだ。自分たちの存在を認識したときの人間の動揺を知っている死神は、その姿を衆目に晒さないよう心がけていた。

 ただ、死神は確かに存在しているのだ。


「よっしゃ、流石部長だぜ!」


 家でパソコンの画面を睨んでいた良幸は、携帯電話に届いたメールを見て、歓声をあげた。

 彼は現在、某企業の開発部に所属していた。家電製品の開発リーダーに抜擢された彼は、自分の企画書を通すことを目指して、日々努力を重ねている。

 自分の案が、部長に承認されたことに浮かれた良幸は、にんまりと顔に笑みを刻みながら、腰を上げる。一人暮らしの質素な部屋で、小さな冷蔵庫を開け、缶ビールを取り出した。


「とりあえず、祝杯」


 まだ何度も会議を潜り抜けなければ、彼の案は実践されない。しかし、頭の固い部長を引き込めたのだ。第一関門突破というところだな、と良幸は冷えたビールを呷る。順調に進んでいるこの状態に、自然と笑みが零れた。

 死神は、嬉々としてチームの他のメンバーに先程のメール内容を報告している良幸を見て、「へぇ」と声を出した。


「随分と楽しそうに仕事をしているな、彼は。この子が数日後に死ぬのか……勿体無いなぁ」


 無論、その声は、良幸には聞こえない。故に、彼は数日後自分の身に起きる悲劇に気づかない。

 死神は、単にいつ人間が死ぬのかを知っているだけで、彼が何処でどのように死ぬのかは、わからなかった。

 アルコールが入って、更に上機嫌になっている良幸は、鼻唄を歌っていた。


◇◆◇


 彼の企画書は、彼の予想以上に順調に会議をくぐり抜けていった。

 そして、最終的な判断が下される会議が行われる日の早朝。倉田良幸は、交通事故で呆気なく死んだ。

 血塗れになって、息をしていない良幸の体の側で、死神はため息をつく。何もこんなタイミングで死ななくても、と彼を哀れに思う。

 そして、自分の隣に浮かんでいる良幸の魂に目を移した。先程、幽霊となった彼に自分の存在を告げた死神は、「自分の体を外から見るのは、どんな感じだい?」と問う。


「……くそったれ……」


 良幸の瞳には、悔しさが渦巻いていた。

 全面的に相手が悪い事故だったが、彼にとって、相手を憎む憎まないという問題はどうでもよかった。自分の企画が採用されそうなこの時期に、その結末を知らずに死んだ自分が情けない。


「お前の力でどうにかできねぇのかよ……」

「無理だね。死神は、人が死ぬまでの少しの間、見守ることしかできないからさ。君たちが幸せに死ぬように働きかけることはしないよ。君たちがテレビを見るのと同じで、僕は君たちの人生の内容に手を加えることはできない」


 ぐだぐだと喋る死神に、良幸は舌打ちをする。この様子じゃ、天に召される前に企画書の結末を知りたいと言っても、無理なんだろうな、と半ば諦めながら口を開こうとする。

 しかし、死神はその思考を読み取ったように、彼が言葉を発する前に答えた。


「君が言おうとしていることは、多分全部無理だよ。さ、早く天界に行くよ」


 半透明な良幸の手首を掴み、死神は天界に通ずる門を開ける。生きている人には見えない荘厳な門は、駆けつけた救急車の真上に浮かんでいた。

 自分の遺体を見ながら、手を引かれて無理矢理門に引きずり込まれる。噛み切るほどの強さで、唇を噛み締めても、痛みはない。

 自分は死んだ。一番人生が楽しい時期だった。やりたいことはたくさんあった。


「こんなところで、死にたくなかったよ……ちくしょう」


 小さな吐息を最後に、良幸は天界へと旅立った。

 その日、彼抜きで行われた会議で、彼の企画は無事採用された。開発チームのメンバーは、涙を流して喜んだ。良幸の願いは叶った、と。彼の遺志を継いで、必ず企画内容を成功させる、と。

 そして、将来的に、彼の企画は大成功をおさめることとなる。企画に関わった者たちは、立案者である彼の仏壇の前で、それを報告する。しかし、いくらこの世で彼に話しかけても、それが彼に届くことはない。

 それを知っても尚、生者は良幸に伝えようと言葉を紡ぐ。


 彼には、やりたいことがあった。

 彼にとって、それが叶う瞬間は、二度と訪れない。

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