第20話 ノイズ
「ひぃっ、ひぃ――!」
階段を転がるようにして、男は逃げていた。
顔も迫力があり、ガタイもいい。
しかし体はみっともなく震え、顔は恐怖で歪んでいた。
男は数ヶ月前に岸島の舎弟になった新人だった。
彼の持つ狂気をはらんだカリスマに引かれた故の選択だった。
しかしそんな彼も、この世にはいない。
男の目の前で、殺された。
黒猫忍。
巷を騒がせている殺人鬼。
その正体が小柄な女子高生だと知ったときは、驚きよりも肩透かしを食らった気分だった。
精々、拷問にかける際に楽しみが出来たという認識だったが――だからと言って、彼女が殺人鬼であることに変わりがない。
それを失念していた。
尊敬する兄貴を殺されて男がとった行動は、仇を討たんと殺人鬼に立ち向かうことではなく、ただただ無様に逃げることだけだった。
悪夢。
そう、悪夢だ。
忍は人間離れした俊敏な動きで、男の仲間を次々と殺していった。
ナイフの刃が煌めく度に、命の灯火が消えていく。
人が殺されるのを見たのは、これが初めてではない。
男達はいつも奪う側であり、奪われることはないと確信していた。
しかしその確信が、何の根拠のない思い込みであることを、男は身を以て理解することになった。
「あ、あの女……笑って、笑っていやがった!」
仲間達を仕留めていくその姿は、既に男の脳裏に焼き付いていた。
淡々と殺していくのならばまだ救いはあっただろう。
だが、忍は笑っていた。
暴力に陶酔しているというより、極上のケーキを口にしたような、そんな年相応な笑み。
それが逆に恐ろしかった。
故に男はヤクザの矜持を捨て、逃亡することを選んだ。
いつの間にか、建物の中に響いていた銃声が止んでいることにも気付かぬまま、外へと脱出した。
湿気を含んだ空気が、男の頬を撫でる。
岸島の事務所は、十階建てのビルの最上階にある。
他ならぬ岸島がビルのオーナーであるため、どこぞの貧乏探偵のように家賃にひーひー悲鳴を上げることはない。
それ以外の階はテナントとして解放してあるが、安い家賃に釣られて借りると高額なショバ代を請求されることになる――が、これからは、そういうこともないだろう。
それどころか、事故物件としてさらなる家賃の値下げが期待できる。
男が階段で一階まで降りると、ビルの出口近くにパンツスーツを着た刑事が壁に手を付けていた。
首にかけてある古びたヘッドホンが印象的な彼女は、朝一番に殺人鬼の情報を伝えた張本人だった。
刑事――鈴音は男の方をちらりと見て言った。
「なんだ、生きてたの」
「……!」
まるで男の――否、男達の生存をまるで期待していなかったような、そんな冷めた声音。
「みんな、みんな殺されちまった……くそっ。なんでだよ、なんでこんなことになってんだよ……!」
「別に説明しなくていいわよ、状況は大体聞いていたから」
聞いていた、とはどう言うことだろう。
まさか盗聴器でも仕掛けていたということだろうか?
「やっぱり、無理だったのね。期待していなかったけど、こんな風に現実を見せつけられると失望せざるを得ないわ。結局あなた達は、お山の大将だったということかしら」
ハッと、嘲るように鈴音は笑う。
ぶちんと、何かが切れた。
彼女は罵倒したのだ。
死んだ仲間と、彼らの矜持を。
それだけは、なんとしても許せなかった。
「ふざけんじゃ――」
胸ぐらを掴んだ瞬間、言葉が途切れた。
絶句したのではない。
唐突に、声が出なくなったのだ。
「! !? !?」
ぱくぱくと口を動かしても、喉を震わせても、鈴音を罵倒する言葉は出て来なかった。
なんだ。
なんなんだ、これは。
「ノイズは消すのが一番よ」
鈴音が男の手を振り払い、とんと男の額に指を触れた。
――イィィィィィィィィィン。
遠くから響いてくるような音――
そう認識するのと同時に、男の頭部が吹き飛んだ。
吹っ飛ぶ血と脳漿とが、背後の白い壁に、前衛的とも見えなくもないような不格好な模様を描いていく。
自分が何をされたのか――そも、目の前の刑事は何なのか。
知ることができぬまま、男の意識は断絶した。
「ふんふん」
血塗れになった事務所の中で、忍はソファーに座って呑気に鼻歌を歌っている。
改めて事務所内を見渡してみると、なかなかに豪奢な作りで、ソファーやテーブルも進の事務所にあるものより3ランクは上な代物だ。
が、やたらめったら飛び散っている血のお陰で、色々と台無しになっていた。
特に血の海に沈む黒スーツのオブジェクトがいただけない。
「まあ、私がやったんだがな」
凄惨な現場とは対極的に、忍はほとんど傷を追っていない。
銃弾を利用して縄を解いた時に脚を少し抉ったことくらいで、それ以外に目立った傷はない。
ちらりと足首を見ると、傷はほとんど塞がりつつある。
「我ながら、本当に人間離れしているな……」
化物。
戦っている時に、何度もその言葉を聞いた。
別に傷ついた訳では無い。
やっぱりかと、自分が今置かれている立ち位置を再確認しただけだ。
進と暮らしているとついつい忘れそうになるが、自分は化物と呼ばれるくらいには異物なのだ。
人を殺した際に湧き上がる多幸感で、ぶっちゃけ些細なことは気にならないのだが。
「これで、しばらくは殺さずに済みそうだな……食いだめならぬ殺しだめ、とでもいうのか?」
我ながらうまいこと言った、と思いながら、血が飛び散った窓から外をみやる。
「もう夜か……早く帰らねばな。進もお腹を空かしているだろうし」
んんっとのびをしてソファーから立ち上がる。
「スーパーにでもよってくか」
スマホや財布が入ったリュックは岸島達に奪われてしまったが、廃棄されていない限りは近くにあるだろう――
瞬間、どんと衝撃が忍の体を揺らした。
「……?」
誰かに突き飛ばされたのだろうか。
しかしこの場に動いているものはない。
変なことがあるものだ。
見れば、腹に穴が空いていて、そこからじわじわと赤黒いシミが広がっていく。
つうと、口の端から血が流れていく。
殺人行為で湯だった脳が、一気に冷えて現状を判断する。
自分は今、撃たれたのだと。
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