第18話 幼なじみ、始動

 雑居ビルの壁から手を離した瞬間、今まで聞こえていた音が遠ざかっていく。


「……ふうん、そういうこと」


 ぽつりと、鈴音は呟いた。


「よくない、非常によくないわねこれは」


 稀に現れる泥棒猫の類いだと思ったが、その正体はそれ以上の難物だった。

 ここ数年、水浜を騒がせている殺人鬼。

 それが黒猫忍の正体だった。

 そんな彼女が、進と同居していたなんていうのは、まさしく青天の霹靂。

 しかも進は、忍が殺人鬼であることを知ってて彼女をを受け入れているのだ。


 その事実が、鈴音の心をいやというほど引っ掻き回した。

 が、ある意味好都合ではある。

 普通の人間ならば、排除するのに法の網を気にしなくてはいけないが――殺人鬼であるならば、そんなものを考慮する必要は一切合切存在しない。


「大丈夫よ進……あなたは、私が守るから」


 口角を釣り上げながら、鈴音はスマホを取り出した。





「あーあ、まったく梅雨というものは憂鬱ですなー」


 傘を片手に、薫が言った。


「まったくだな……いつまで続くんだか」


 本領発揮とばかりにしとしと降り続けている雨を歓迎する人間は、今のところ周囲には存在していなかった。

 洗濯物がロクに干せやしないと愚痴りながら、てるてる坊主を作って天にお祈りしていた進の姿を思い出す。

 あれほど苦しい時の神頼みという言葉が似合う光景もあるまい。


「……ふふっ」


 思い出し笑いをしていると、薫がじいっと顔を覗き込んできた。


「何か忍、最近笑うようになったよね」

「なんだそれは。まるで私が常に無表情で滅多に笑わない氷キャラみたいではないか」


 確かによく記念写真で笑ってくださーいとカメラマンに言われるけれども、ちゃんと笑ってるのだ。


「んー、違うんだよね。前より活き活きしているというか、マイナーチェンジというか、感情が芽生えたロボットというか」

「馬鹿にしているだろう。なあそうなんだろう?」

「違うってばさ。何か最近、変わったことでもあった?」

「変わったこと? うむぅ……」


 強いて言えば、住む場所くらいだ。

 ついでに、同居人が増えた――うん、それくらい。

 確か進と出会ったのは梅雨が始まろうとしているギリギリの頃だったから、かれこれ一ヶ月以上経っているということになる。

 長いような短いような、不思議な気分だ。


「はっ、さては例の男!?」

「ぶっ」


 いきなり爆弾をぶち込まれて、何も飲んでいないのに激しくむせた。


「おー、やっぱりビンゴだったんか。それでそれで? うまくいったのん?」


 この食いつきよう、何か誤解をしている。


「やっぱり恋は人を変えるって言うけど、忍もそのテンプレコースを歩むんだな……おねーさん寂しいような誇らしいような複雑な感情」

「おまえ誕生日私よりも後じゃないか。第一アイツは――」


 ――なんなんだろう?

 葛城進は、黒猫忍にとってどんな人間なのだろうか。

 同居を初めて一ヶ月を経て、初めてそんな疑問を抱いた。

 友人?

 保護者?

 雇用主?

 それとも――


「――む」


 瞬間、忍はそれを察知した。

 殺意。

 しかも一つではない。

 一、二、三、四――計五人分の殺意が、取り囲むように放たれている。

 何者かは不明だが、プロではあるまい。


 五人中四人は、殺意を介して気配を感じるし、残りの一人は気配を殺している……が、気配を消そうとしていて逆に分かりやすい。

 気配は殺すものではなく溶け込ませるものだ――とかなんとか進が言っていたが、言ってる当人もあの格好で溶け込むのはまず無理がある気がする。


「どーしたのさ忍、お腹減ったの?」


 人のことを無感情だのロボットだのあれこれ言うくせに、薫は忍の表情の変化に人一倍敏感だ。

 さらに食いしん坊属性まで追加しようとしているのは許しがたいが、今はそれよりもやるべき事がある。


「すまない薫、用事を思い出したから今日はここで別れよう」

「え、いきなり!?」

「ああ、いきなりだ」


 驚くのも無理はない。

 何せ忍にとっても予想外の用事だ。

 今やるべき事は、一刻も早く薫から離れること。

 なんでこうなったのかは皆目見当も付かないが、連中の標的は忍のみのはずだ。

 無関係な薫が巻き込まれるのは避けなくてはならない。


「ちょっとでも変だなと思うことがあったら……ここに電話しろ」


 財布に入れっぱなしにしていた名刺を、薫に握り込ませる。


「いやあの、今の忍も充分変なんだけど……」


 戸惑う薫に背を向けて、普段とは違う道へと歩いて行く。

 薫から遠ざかるのは逆方向がベストだが、それだとあまりにも不自然だ。

 遅すぎず早すぎず、普通の足取りで歩く。

 進によると、忍は不自然なくらい足音を殺しているらしい。

 なるべく気づかれないように殺すのがポリシーなので、そのくせが日常生活にも反映されてしまっている。


 薫に後ろから話しかけるときも驚かれることが多かったのはそのせいだ。

 せめて普通に生活するときは足音を立てとけ、と言われているのでその通りにやってみるが、これがなかなか難しい。

 殺意はもれなく私の方へついてきたことにはほっと一安心。


「……さて、どうしたものか」


 なんとか一人になることには成功したが、根本的な解決にはなっていない。

 そもそも相手が誰なのかも分からないのだ。

 警察……は、ない。

 それだったら、堂々とやってきて警察手帳を見せればいいだけの話だ。。

 となると、秘密裏に忍の身柄を捉えたい連中という事になるのだが、あり得るのは岸島とかいうヤクザだろうか。


 どちらにしても忍が殺人鬼であるということを知っている人間をそのままにしておくわけにはいかない。

 禍根は断てるうちに断つのに限る。


 人の少ない道に進んでいく。

 こうすれば連中も動きやすかろう。

 いつ動くか――なんて思ってると、すぐ隣に黒いワゴン車が停まった。


「ああ、こうきたか」


 呟く忍の体を、ドアから飛び出した無数の手が捕らえた。

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