第3話 邂逅
「――ただいま」
言ってみたものの、帰ってくる言葉はない。
五畳半のアパートには必要最低限の家具と、四匹の猫のぬいぐるみがあるのみだ。
築三十年以上経過していて、夏は暑くて冬は寒い。
一応備え付けのエアコンもあるにはあるが、使ったところで焼け石に水。
そのくせ電気代だけはいっちょ前に跳ね上がるのだから、使わない方がマシと思わなくもない。
今みたいな中途半端な季節ならばまだしも、夏になったら空調の効いた図書館に逃げ込む日々が続きそうだ。
トドメにキッチンも狭いなど、部屋自体のグレードはお世辞にも高いとは言えない。
元々安さだけを売りにしたような物件なのだし、住める場所を提供しただけありがたいと思えと言わんばかりだ。
「……別に寂しくなんてないぞ」
口に出してみると、いかにも強がりですと言った感じになってしまった。
実際に寂しい、のだろうか。
同年代の学生よりも、忍は一人暮らしの期間が長い。
ただいまと言って、おかえりと最後に帰って来たのがいつだったか、思い出せなくなっている。
少なくとも、忍がまともだった頃――いや、自分がまともだと思えていた頃まで遡らなくてはいけないだろう。
そんなことを思いながら、スマホの銀行アプリを開く。
表示された数字は、前に見たのより減ってこそいたが、ちっとも増えていなかった。
お金というものは使えば使うほど減るものであることは忍も理解していたが、高校に入学してかれこれ二ヶ月、一度も増えていなかった。
「……むう」
ヤバいなぁと思いながら、アプリを消す。
こうすればあっという間に問題解決――になるはずがない。
目の前にのさばる問題を見えなくしてるだけだが、打開する術を持っていないのであれば気が楽な方を選んだ方がいい。
「一人暮らしというものはお金がかかるなあ……」
一人暮らしをしていると言うと、よくクラスメイトから羨ましがられるが、忍としては実家暮らしの方が遙かに恵まれていると思う。
少なくとも、貯金が生活費という名目でガリガリと削られていくストレスとは無縁な生活を送っていられるだろう。
「やはりバイトをしないとなあ……」
この社会は、金が欲しければ労働に勤しまなくてはならない。
忍は別に働きたくないでござると思っている訳では無い。
必要なら働くか、と思うくらいにはやる気はあった。
しかし悲しいかな、こっちがやる気でも雇う側に雇う気がなければ働くことは不可能なのだ。
週一で一時間からOKと募集要項に書いてあったのに、面接で週四で一日四時間は働けと言われ、話が違うと言ったら落とされたこともあった。
それはまだマシな方で、面接で問題が無くても結局落とされたことは枚挙にいとまが無い。
唯一受かったコンビニのバイトも、クレーマーに何度も突っかかりクビになった。
思い出すたびに、あれは言いがかりとしか言えないクレームをぶつけてきた客側が悪いと思うのだが、店長は忍が悪いと断じた。
クレームの原因も別に自分のミスというわけでもないのに、なぜそこまで言われないといけいのか。
こんな職場辞めてやると思ったら職場の方からクビを言い渡された。
結果こそ同じだったが、先手を打たれると凄まじい敗北感がある。
先手必勝とはよく言ったものだ。
お客様が神様だというのであれば、私は神殺しになってやろうと割と本気で思った出来事であった。
そのことを薫に話して、
「まあ忍は社交性ゼロだからね~」
と、妙に納得されたのが凄まじく釈然としなかったことをよく覚えている。
とは言え、一人暮らしが不便だらけという訳ではない。
何と言っても家族から殆ど干渉されない、絶対的なプライベートが確保できる。
忍のような殺人鬼には、望んでもいない環境だった。
「……ん、そろそろか」
既に日は落ちて、暗闇が外を包んでいた。
制服から、黒のパーカーとレギンスに着替える。
これは闇に紛れて見つからないようにするため――と言う訳では無く、ただの趣味である。
アパートから出ると、僅かに湿り気のある空気が忍の頬を撫でる。
「……むう」
露が近づいていることは理解しているが、どうもこの水気をたっぷり含んだ空気を、忍は好きになれそうになかった。
豊かな四季とかなんとか言っているが、個人的にはずっと秋であってほしい。
あのからっと涼しい気候が、忍には一番合っている。
おいしいものがいっぱいあるのもいい。
「おっと、今は目の前の事に集中しなければ」
頭を振って雑念を取っ払う。
前に人を殺したのは一週間前。
確か警察の人間だった。
職務質問をされたので、裏路地に逃げ込んで返り討ちにしたのだ。
銃声がうるさくて、耳がキーンとなったのを覚えている。
死の間際、仲間に連絡を取ろうとしていたので慌てて殺したが、その後忍のアパートに令状を持った人間は来ていないので、正体はバレていないとみていいだろう。
忍は体を蝕む衝動を沈めるために、定期的に人を殺している。
今回はいつにも増してインターバルが短い。
いつもだったら一ヶ月は保つのだが、まあこんなこともあるだろう。
苦しみから逃れるために人を殺していたら、いつの間にか世間から殺人鬼と呼ばれるようになっていた。
マスコミやネットは、死体が発見される度に殺人鬼が現れた殺人鬼が現れたと、飽きもせず報道する。
現代の切り裂きジャックと言われたこともあったが、これには是非異議を申し立てたい。
往年のホワイトチャペル野郎は、殺した後に内臓を引きずり出したり、新聞社に犯行声明を出したりと、とにかく悪趣味だ。
あんなのと一緒にされてはたまらない。
中にはこの国の行方不明者の大半は件の殺人鬼によって殺されているのだというトンチキ極まりない記事まであった。
さすがにPV目当ての釣り記事だと思いたいけれど、本気でそう思っているのだとしたらかなり重症だ。
忍はしがない殺人鬼であり、人を殺すことくらいしか出来ない。
そんな魔法みたいにポンポンと人を消せるのであれば、そもそも忍が起こした殺人が表に出ることはないというのに。
そんなことを考えながら、繁華街を徘徊する。
最近よく利用する狩り場の一つだ。
ここでは既に六人を殺しているが、客足が途絶えて閑古鳥が鳴いている――なんてことはなく、いつも通り無駄に暴力的でエネルギッシュな空気と、熟しすぎて崩れた果物みたいな匂いが蔓延している。
既に皆、麻痺しているのだろうか。
忍じゃなくても、よく分からない力を持つヤツが人を殺すといった事例は、この国ではゴロゴロと転がっている。
どぎついネオンの色は少し苦手だけれど、ここほど格好の狩り場はない。
ここは一歩間違えれば、アンダーグラウンド――雰囲気ではなく本物の世界を体感できる。
深入りすればあっと言う間に引き返せなくなってしまう、スリル満点のアトラクション。
普段だったらお近づきになりたくない場所ではあるけど、人を殺す場所としては結構気に入っている。
なにより監視カメラが少ないのがいい。
あったとしても、どう言うわけか壊れていたりハリボテだったりするので、忍としては大助かりだ。
標的は、なるべくヤクザみたいな、無法者っぽい奴を物色する。
しばらく試して分かったことだが、その手の連中を殺すと表沙汰になりにくいのだ。
どんな力が働くのかは忍の知ったことではないけれど、それを大義名分に警察やらなんやらに痛い腹を探られてしまうからだろう。
だからこそ、自分達の縄張りの中で秘密裏に処理する。
無論、殺人鬼である忍に対する恨み辛みもかなり蓄積されている可能性はかなり高いのだが。
絶対に捕まらないようにしようと心に決めていると、スーツ姿の男が裏路地へと入っていくのが見えた。
「……あいつにするか」
カチリ、とスイッチを入れる。
瞬間、視界がクリアになり、聴覚もいつも以上に音を拾ってくる。
黒猫忍、殺人鬼モード――とでも言ったところか。
自分で勝手にそう呼んでいるが、多分巷で話題の異能というヤツなんだろう。
それにしては少々地味な気もするけど、これほど人を殺すことに向いている能力は無い。
無数の靴音の中に、忍を追跡するものはない。
肩が凝ったような動きをしつつ、首を回して周囲を見渡す。
怪しい人間もいない。
正確には、私にロックオンしている怪しいヤツはいないというべきか。
怪しいヤツなら、ここには売り物にならないほど転がっている。
何人か殺しても問題ないくらいに。
裏路地に入る。
ネオンの光が遠ざかり、まるで別世界のように暗くなるが、今の私にはゴミ箱からはみ出た菓子パンの成分表まで見える……なんか結構怪しいものが使われているな。
次から食べないようにしようと思いながら、地面を蹴る。
加速
加速
加速
腕のホルスターからナイフを引き抜く。
相手は気付かない。
追い抜きざまにナイフを走らせた。
刃が月光に反射して、キレイだなとぼんやり思った。
「あぇ――?」
傷口から迸る血を呆然と眺めながら、男は湿気の多い地面へと倒れ伏した。
即死だった。
それを確認した瞬間、今まで体に居座っていた衝動がすっと引いていくのが分かる。
同時に湧き上がる快楽に、思わず頬が緩んだ。
砂漠のど真ん中でキンキンに冷えた水を飲んだら、きっとこんな感覚なんだろう。
「さて、そろそろ帰るか……」
用が済んだら、ここに用はない。
明日は化学基礎の小テストがある。
寝る前に少しでも頭に入れておいた方がいい。
そう思い現場を後にしようとしたその時だった。
「にゃあ」
足下から聞こえてきた鳴き声に、ぴたりと動きを停止させる。
その声はもしやとと振り向くと、世界一かわいい生き物が、そこにいた。
「猫……」
ちょっとふくよかな三毛猫である。
予定変更。
しばし彼もしくは彼女(持ち上げて確認したら彼女だった)と戯れてから帰ろうと決める。
「ほーら、こちょこちょ」
忍が顎を撫でると、三毛猫は気持ちよさそうに目を細めた。
それに比例するように、忍の頬も緩んでいる。
ついでに気分もほわわんとしてきて、人を殺した時とは違う、なんとも温かい心持ちになる。
この時間よ永遠なれと思っても、世の中そううまくはいかないもので、
「待ちやがれー! どこへ逃げやがったクソ猫――!」
裏路地に無遠慮極まりない声が響き渡り、びくりと猫の体が震えた。
その声の主は、いかにもチンピラでございと言った風体の若い男だった。
所々跳ねた赤髪に、赤いスカジャン。
顔は……まあ悪くない。
年齢は恐らく二十代半ば。
そんな奴が、左手には安っぽいペットキャリー、右手に捕獲網を持っているのは中々に珍妙な光景だった。
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