愛深との出会い(3)

それは酔った勢いでの流れだった。

理性を若干取り戻した時、俺は部屋を全然片付けていなかったことを思い出して後悔した。

埼京線から東武東上線に乗り換えた俺達は、約40分の間電車の中で色々と話をした。

彼女が特に興味を持ってくれた話題は、俺の知ったかぶりの色彩学の知識だった。そのほとんどのソースはゲーテの色彩論に出てくるくだりを引用したものだった。

「俺たちの目って、実は光を見るために生まれたものなんだって。目より光が先ってことね。目はそれと感応する一つの器官に過ぎなくて……わかりやすく言うと内部の光と、その……なんだっけ。そうだ、外部の光が出会うことによって物を認識できるようになるらしい。だからこの世のすべての色彩は、視覚に衝撃を受けて生まれてるんだって。色ってつまり目と繋がってて……要するに自然的な現象の一つらしい」

「へえ〜そうなんだ」

こんな風にちんぷんかんぷんなこと喋っても、愛深は俺が何を言っているのかも分からずにただただ相づちを打ってくれた。

いつの間にか和光市駅に着いた俺たちは電車から降りて北口から出た後、暗い道を歩いて家の方へ向かった。

和光市駅北口の高架のコンクリートの壁面には、幼稚園から大学生までの子供たちが環境問題と地球平和をテーマとして描いたメッセージ性のある絵が18枚ほど飾られていた。それはピカソのゲルニカに着目した市民プロジェクトだった。

「地球がハート型になってる!かわいい~」

愛深は周りを見回しながら楽しんでいるようだった。

大したできでもないプロジェクト作品に無関心な俺と違って、彼女は一枚一枚の絵を熱心に見ていた。

6分くらい歩いてアパートに着くと、俺は携帯でドアを開けようとして、ハッと正気に戻り、ズボンのポケットをあちこち引っかき回して鍵を取り出した。

「入って」

「失礼します~」

彼女は静かにイエローのハイヒールの向きを変えると、玄関に上がった。俺は少しこわばった姿勢で玄関に立ち止まった。 無意味にパレットに搾っておいた絵の具と布団やカーテンまで染みついた臭いタバコのにおい、四方八方に散らばっている本と服の山、片づけるのを忘れたレモンサワーの缶と、オイルのにおいが支配する俺のゆりかごだった。

「ごめん。部屋汚いのに来させちゃって」

「ううん、大丈夫だよ。画家ってこういうイメージあるから」

俺がゴミを片づけている間、彼女は小さなワンルームの片隅に何重にも置かれた俺の過去作を見ながら珍しがっていた。

「わぁ、これってなんの作品?」

彼女が指さしたのは俺の黒歴史時代の作品だった。 俺は間に飛び込み彼女の視線をさえぎった。

「えっと、これは。自分の精神が吐いた嘔吐物みたいなもん。昔描いたんだけど。今考えてみると……ちょっとね」

「私は好きだよ?」

「そうなの?とにかく違うもん見せるよ」

俺は布団入れの中に入れっぱなしだった水彩画を取り出して愛深に見せた後、そっと後ずさりすると黒歴史をいちばん後ろの方に置いた。

「これは風景画なんだけど、大学の時キャンパスの中にあった睡蓮の池の情景」

「へ!すごい綺麗!」

それもそうだ。おそらくこの作品が最近の作品の中で最もうまく彩られた絵なんだろう。 当時の俺としては渾身の力作だったが、今ではただの退屈な風景画だ。

「波も自然だし、睡蓮の花とか本当に綺麗」

そしてなによりも重要な秘密は、これが模作であるということだ。 絵の具が乾くのを忘れてしまい、マスキングテープを剥がすタイミングが遅れて、波にずれた部分が所々見えた。実をいうとこれは模作の中でも失敗作に入る。でも彼女にはそんな細かい部分は気にならないようだった。

愛深が自分の水彩画を鑑賞している間に、俺は冷蔵庫からレモンサワーを取り出して彼女に渡した。

「飲む?」

「うん」

俺と彼女はベッドに並んで座り、レモンサワーを飲み始めた。

なんだか本当に違和感でしかなかった。先ほどバーでカクテルを口にしていた彼女が、スーパーで安く買っておいた低価の炭酸アルコールを飲んでるだなんて。愛深は両足を前後に揺らしながらうきうきしていた。

「あの白いキャンバスって何?」

彼女はイジェルに立てかけたままほったらかしの、何も描け始めていない白いキャンバスが気になったようだった。

「あれは最近描いてる作品。まだ十字線しかないけど、これから描いていこうと思って。モチーフがなくて困ってるんだけどね」

「え、本当に?すごく楽しみ!モチーフのない絵か……いいね」

その時インスピレーションが降りてきた。モチーフがなくても描ける絵か。それはそれでありだと思った。まるで今日見た屋根の上と一緒だ。そこには人という材料はなかった。少なくとも俺の感想はそうだった。俺は絵の方向性を模索した。

「潤平さんはなんで絵を描くの?」

その質問に俺は単純に返した。

「夢だから」

「おお!」

俺は愛深に聞き返した。

「愛深さんの夢は?」

「うーん、特にないよ。今を楽しむの」

愛深はベッドから起き上がり、くるりと一回りした。

やっと沢村愛美という人間が少し分かったような気がした。 彼女は純粋に人生を放浪していた。 今、この空間で俺は現実と理想に閉じ込められているが、彼女の魂は自由に踊っているではないか。俺はそんな愛深が心からうらやましいと思った。 そして、たかが人生の成果や生い立ちなんかで、勝手に絶望し自己嫌悪に陥ることを繰り返す自分を情けなく思えてきた。
俺はレモンサワーを飲み干して、空き缶をゴミ箱に捨てた。

「これ、予約してもいい?」

「予約って?」

「潤平さんの絵」

俺はその言葉に若干きょとんとなった。なんで俺の絵なんかを?

「だって潤平さんは将来有名な画家になるんでしょ?」

俺は手を振りながら否定した。

「多分、それはないな。この業界は徹底的に人脈を築いて名前を売る人が生き残るんだ。俺にはそんな才能なんてないし、油絵なんて時代遅れだよ」

「え、そっか……でも私は潤平さんの絵好きだよ?」

そして彼女は部屋の中で何かを見つけ、驚いて目を大きくした。

「あれは何?」

愛深が指差したのは小さなイージェルにのせた名画だった。 正確にはリンネン材質のキャンバスに下絵と数字が刻まれていて、その部分に色を塗るだけで完成する塗り絵だった。

「めっちゃ綺麗~これも潤平さんの?」

愛深はどうやらこの作品について知らないようだった。 実は俺もこれが誰の作品なのか知らない。

「いや……うん。そうだよ」

「おお、すごい!やっぱり絵うまいんだね!」

思わず自然に嘘が飛び出した。「しまった!」と思ったが、愛深は気づかずに作品を見て感嘆しているのだった。

「なんかすごく不思議。これってなんて題名なの?」

「花々の饗宴」

「じゃあ、私これ予約する!決まりね」

「えっ、いや。それはやめたほうがいい。これただの習作だし、まだ本格的なやつは準備中だから」

よくもまあそんなことを言えるなと自分でも思った。 俺は良心の呵責に苛まれながら、愛深と一緒になってその絵を見始めた。

それはずいぶんと前に通販で練習用として買ったものだった。
花園になる背景は虹色にバランスよく彩色されており、黒と白の茎に色とりどりのまあるい花が咲いていた。 一戸建ての玄関のインテリアとして飾ったら、ちょうどよさそうな雰囲気の絵だ。

「素敵〜この絵の中で寝転びたい気分」

「寝転んでもいいよ」

冗談でそう言うと彼女は「わーい!」と俺のベットに横になった。彼女の乱れたワンピースからお尻のラインがちらっと透き通って見えた。

その時、何かむくむくと湧き上がって、俺の深い思念の錘に触れた。

俺の性器はどうやら向きがまだ分かっていないようで、やや左に曲がった垂直に大きくなっていた.

いつのまにか俺は彼女に急接近していた。すると彼女はくすぐったいようにクスクス笑うと俺の耳元で囁いた。

「私のこともっと知りたい?」

そのささやきが小さな電流を起こし、俺を興奮させた。

「うん。知りたい」

俺はそう言いながら愛深の顔に口を近づけた。すると愛深は

「キスもいいけど、お口でしてあげようか?」」

こう言いながら、やらせてもないのに俺の前にそっとひざまずき、ゆっくりとズボンを脱がした後、舌を出し欲情をあおるかのように下からのぞいた。


*


時計は針はちょうど12時を指していた。明晰夢の時間を過ごした俺は、少し頭を冷やすために電気のフルスイッチを引っ張って豆電に変えた後、横になった。気づくと、電気も消すのも忘れてやってしまったなと思った。あまりにも没頭していて、周りのものに気がつかなかった。

愛深とのセックスはテキーラ一本を丸飲みした気分だった。

俺は宇宙船を操作するみたいに、すべてをマニュアル通りに行った。

そして俺はその宇宙船に乗って違う惑星に行ってきた。その惑星には洞窟があって、そこを通り抜けるとぶどう酒と蜜と魚が溢れる楽園があり、俺の体を満たしてくれた。

彼女の薄い唇にキスや魅惑的な乳房、彼女のすべてを味わった俺は、今幻想に浸っている。

俺の横で全裸になっている愛深は立派な一つの作品だった。 映画タイタニックのように、今この状態で彼女をデッサンしたい欲望が心底湧きあがった。

「ね、気持ちよかった?」

愛深が横からこっちを見つめながら聞くと、俺は「あぁ」と答えた。そして、心の中でへらへらと笑った。 それが征服欲なのか達成感なのか、あるいはその両方なのか分からない。

俺は床に腕を伸ばし,タバコを見つけて火をつけた。 またやりたいという欲望が再び巻き起こったが、水が溜まるまではまだ時間がかかりそうだった。

「ね、タバコおいしい?」

彼女から聞かれ、俺は紫煙を立てながら燃やされてゆくタバコの先端を眺めた。

この火山の中で溶岩が沸き立つようなタバコの火の色は一体何て表現するのだろう。 赤い色のようでもあり、ややオレンジのようでもあった。 その疑問はある瞬間、色の名前は一体誰がつけたのかという根本的な質問につながった。

俺はそう考えながら愛深に答えた。

「うん。最高においしい」

「どんな味?」

俺はしばらく考えた末、煙を鼻で吐きながら適当に口を叩いた。

「味って重要なのかな」

「ふーん」と彼女は上を眺めながらそっと手を差し出した.

「じゃ、私にも一本ちょうだい」

「なんで?」

「なんとなく」

すでに彼女の自由で放蕩な姿を知ってしまった俺は躊躇なくタバコを一本取り出して愛深に渡し、火をつけてあげた。 愛深は大きく息を吸うと、すぐに咳き込んだ。

「大丈夫?」

「うん。大丈夫。結構きつかった」

「吸うの初めて?」

愛深は俺にたばこを返してきた。 確かに初めてのタバコがラッキーストライクなのはきつい。 俺は、タバコを二本くわえたあと、大量の煙を吹き出して、アシカの牙のまねをした。

俺たちはたあいのない話を交わして笑った。
そして、笑いが止まると、愛深は背をこっちに向けて自分の肩を手でたたき後ろから抱くことを催促してきた。

「ぎゅってして」

俺は愛美に密着し、背中に手を回してしっかりと彼女を抱きしめた。 やわらかい胸の感触が感じられた。 暖かい温もりに目を瞑るといつの間にか眠気が襲ってきた。 俺はその暖かさにうとうとして眠りについた。

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