沼の女
沢田和早
沼の女
男は平凡な会社員だった。一人暮らしのアパートと入社二年目の会社を往復するだけの毎日。たまの息抜きは晴れた昼に公園で食べるコンビニ弁当ぐらいのものだ。
「彼女、今日も一人で食べているのか」
男は公園西側のベンチで昼食のおにぎりを頬張りながら、公園東側のベンチでサンドイッチを食べている女をチラ見していた。
彼女がこの公園に姿を見せ始めたのは一カ月ほど前。最初はさほど気にしていなかったが、雨の日以外は毎日同じベンチで昼食をとっているので自然と意識するようになってしまった。
「女性のボッチ飯なんて珍しいな。どんな職場なんだろう」
女は群れる、それが男の常識だった。幼稚園から今に至るまで食事もトイレも休憩時間も女たちは常にグループで行動していた。だからこそ毎日一人だけで昼食をとるあの女が気になって仕方ないのだ。
「おや」
首筋に冷たいものを感じた。パラパラと音がし始めた。雨だ。
「ウソだろ!」
日差しはある。天気雨だ。男は急いでおにぎりとペットボトルを袋に入れると中央にある東屋へ走った。こんなことは初めてだった。ツイてないなと思いながらハンカチで濡れた顔を拭いていると、女が息を切らして東屋に走り込んできた。
(いや、ツイてないどころかこれは恵みの雨だ)
女との距離を縮めるには絶好の機会だ。男は高鳴る鼓動を抑えながら平静を装って話し掛けた。
「突然降ってきましたね。驚きました」
「本当に。天気予報は大外れですね」
まるで知り合いのような気軽さで女は言葉を返してきた。きっと彼女も以前から自分に興味を抱いていたのだろう、そう解釈した男の言葉は大胆になった。
「いつも一人で食べていますよね。何か理由があるのですか」
「入社したばかりで親しい同僚もいないものですから」
「私もです。もう二年目なんですけどなかなか気の合うヤツが見付からなくて」
「同じですね」
共感の姿勢は好意のサインだ。この日を境に二人の仲は急接近した。晴天なら同じベンチで、雨天でも東屋で昼食を共にした。そうして半月ほどたったある日、男は意を決して申し出た。
「次の土曜日、何か予定はありますか」
「いえ、別に」
「それなら週末に封切られる映画を観にいきませんか。ボクも興味があるんです」
映画の話は数日前から二人の話題に上がっていた。男はそれを利用して初デートを誘ったのだ。
「それは、つまり」少し真剣な表情で女は答えた。「私と付き合いたいという意味ですか」
「はい。できれば昼休みだけでなく他の時間でもあなたと過ごしたいのです」
「その気持ちは嬉しいのですが私と付き合うことは考え直された方がよいと思います」
「どうしてですか。確か付き合っている男性はいないと言っていましたよね」
「男性でも女性でも、私と親密な仲になった者は大変な目に遭うからです」
「大変な目?」
女の真意を測りかねて男は当惑した。自分を傷つけないように遠回しに断っているのだろうか。それとも本当に何かあるのだろうか。諦めて引くべきか、さらに押してみるか。迷った挙句、男は後者を選んだ。
「具体的に教えてください。どんな目に遭うのですか」
「私と付き合った者は沼にはまるのです」
それから始まった女の話は信じ難いものだった。交際を宣言した瞬間、女の周囲に沼が生成されるというのだ。それは交際している本人にしか認知できない異次元の沼で、女に近付くにつれてその沼は深くなる。顔まで浸かれば息ができなくなり窒息する。沼の深さは交際相手の足元を基準にして決定されるので、二階や三階に上がっても沼の深さは変わらない、そんな内容だった。
「あなたを疑うわけではないのですがとても信じらません。ひょっとして私が嫌いでそんな作り話をしているのですか」
「そう思われるのならそれで結構です。これまで通りの二人でいましょう」
女がウソを言っているようには思われなかった。それに女の周囲に生成されるという沼にも興味があった。
「いえ、やはりあなたを諦めることはできません。お付き合いしてください」
「私の沼にはまる覚悟がおありなのですね」
「はい」
「では少し離れてください。危険ですから」
男はベンチから立ち上がって数メートルほど離れた。
「もっと下がってください。もっとです」
さらに離れる。数十メートル離れたところでOKが出た。
「そこから私の名を呼び『交際してください』と大声で叫んでください」
この注文にはさすがに躊躇した。男は周囲を見回した。幸い公園に人影はない。通行人には聞こえるかもしれないが二度と会うこともない他人なら聞かれても恥ずかしくはないだろう。男は大声で叫んだ。すぐ女から「お受けします」の声が返ってきた。
「これは……」
男は足の裏に冷たさを感じた。濡れている感触がする。足踏みするとぴちゃぴちゃと音がする。女に向かって歩き出すと冷たい感触が甲、足首、脛と徐々に上がってくる。目には見えないが確かに沼が生成されているようだ。
「今日はこれでお別れしましょう。明日は着替えを持って来てください」
女が背を向けて去っていく。それにつれて沼の水位も下がっていく。
「なんてこった」
沼から出た足は濡れたままだった。靴と靴下はびしょ濡れ。スラックスは三分の一ほどが濡れて色が変わっていた。女の言っていた「大変な目」とはこのことだったのかと男は納得した。
それからの日々はストレスだらけだった。女に近付けないのだ。生成された沼は女の周囲で急激に深くなる。十メートルほどの距離まで近付くと全身が完全に水没し息ができなくなるのだ。その場で跳び上がったり遊具の上に乗っても沼の水位は変わらない。しかも体だけではなく持ち物も濡れるのでコンビニ弁当は水浸しとなり食べられなくなる。
結局出会った頃と同じように西側ベンチと東側ベンチに分かれて昼食をとるしかなかった。それだけ離れても男の靴は濡れてしまうので、毎日靴下と靴の替えを持参していた。
「映画、面白かったですね」
週末は予定通り一緒に映画を観に行った。しかし並んで歩けば沼にはまって窒息するので、数十メートル離れて通りを歩き、映画館では異なる上映時刻で作品を鑑賞し、食事は別々の店で済ませた。それでも男の下半身は半分ほどが濡れるので何度もスラックスを履き替えた。もはやデートと呼べるような代物ではない。
「この沼、どうなっているんだ」
ある日、男は公園にメジャーを持参して女が生成する沼の深さを計測した。その結果、沼の深度は二人の距離に反比例していることがわかった。数式で表せばy=-a/x。yは沼の深度、xは二人の距離である。x=0、つまり女に接触した時点で沼の深度は-∞となる。文字通りの底無し沼だ。
「くそっ、また深くなっている」
定数aの値は日を追うごとに大きくなっていった。女に好意を抱けば抱くほどaの値は大きくなるらしい。最近では西側と東側のベンチに離れて座っても脛の辺りまで濡れるようになってしまった。男は公園の入り口まで後退し立って食事をするようになった。
『わかったでしょう。私と交際しても良いことなんてひとつもありません。そろそろ別れませんか。無理をするあなたを見ているのがツライのです』
最近のやりとりは全てラインで済ませている。声での会話が困難になるほど女の沼は深くなっていたのだ。
『いや、これくらいのことで挫けたりなんかしません。それに障害が大きいほど恋愛は燃え上がるって言うでしょう。絶対に別れません』
そうは答えたものの男の中には迷いが生じていた。触れることはもちろん、互いに言葉を交わすことすらできないのだ。そして沼は日を追うごとに深くなる。今では職場で働いている時でさえ足裏に冷たさを感じるようになっていた。
-a/xはxが無限大にならない限り0にはならない。女が生成する沼は宇宙の果てまで広がっているのだ。交際を続ける限り女の沼から抜け出すことは絶対に不可能だ。
「別れた方がいいに決まっている、でも」
できなかった。それだけの魅力が女にはあった。それにこんな異能を所有している以上、女は一生孤独から逃れられないだろう。それが気の毒でならなかった。
「なんとかしてあげなくては。彼女を救えるのは自分だけなんだから」
しかしその手段がわからない。焦燥に駆られる毎日の中で男は疲弊していった。衰弱していく肉体と精神。それに反するように女への思いは募っていく。彼女に触れたい、文字ではなく声で会話したい……ついに男は決意した。ある日の昼、短パンとランニングシャツだけを身に着けて男は公園に現れた。
『どうしたのですか、そんな服装をして。ジョキングでもするつもりですか』
『ジョキングではなくダッシュです。これからあなたの元へ全力で走ります』
男はラインでそう返答すると女目掛けて走り出した。今日こそ彼女に触れる、この手に抱き締める。それさえできれば窒息してもいい、それが男の決意だった。
「無理よ。この沼には浮力が働かないのよ。どんなに優秀なスイマーだって泳ぎ切るのは不可能だわ」
女が叫んでいる。しかし男は止まろうとしない。沼の水位が膝を超えて満足に走れなくなっても、腰を超えて歩くのすら困難になっても、胸を超えてもがくように進まなくてはならなくなっても、男は女の元へ向かうことを止めなかった。
「やめて、このままでは本当に溺れて死んでしまう」
「いいえ。私は沼を信じているのです。この沼は間違いなくあなたにとってマイナス要素でしょう。でも本当に負の側面しかないのでしょうか。この沼はあなたを守っている、そんな気がしてならないのです。どんなに言葉で奇麗ごとを並べても心の内まではわかりません。この沼は交際相手が本当にあなたに相応しい人物かどうか、見定めているのではないでしょうか。そして相応しくない相手からあなたを守っているのではないでしょうか。もしそうだとすれば沼はあなたにとってプラス要素になります」
「プラス要素……本当にそう思うのですか」
「は……い……」
男は満足に返答できなかった。すでに沼の水位が男の頭を超えていたからだ。息ができない。体を水平にしても浮くことはできず地面に横たわるだけ。飛び上がっても飛び上がった分だけ水位が上がるので沼にはまったままだ。
沼から抜け出るには女から遠ざかるしかない。だが男の頭に後退の二文字はなかった。信じていたのだ。沼は絶対に自分を認めてくれる、彼女の元へ行かせてくれる、と。
「うぐ、うぐぐ」
そんな男の願望を嘲笑うかのように沼の深度も粘度も増していく。苦しい。手も足も満足に動かせない。意識が遠ざかる。男は死を覚悟した。
「えっ!」
それは突然だった。男の体に絡みついていた沼が消失したのだ。手も足も自由に動く。まるで宙に浮いているように体が軽い。
「これは、どうしたことだ」
「あなたの座標がプラスに変換したのです。まさかこんなことが起きるなんて」
女がこちらへ近付いてくる。それとともに男が感じる浮遊感も大きくなっていく。
「私の本質は反比例の直角双曲線y=a/x。グラフを思い出してください。x=0においてyは二つの値を取るでしょう。-∞と+∞。マイナス座標のxが0になればマイナス無限大になり、プラス座標のxが0になればプラス無限大になります。あなたも含めてこれまで私と交際してきた人たちは全てマイナス座標のまま私に近付き、マイナス座標のまま去っていきました。最初に『沼』というキーワードを与えられたため、マイナス思考から抜け出せなかったのです。でもあなたは違う。沼をプラス要素として考えようとした。その瞬間、あなたの座標はマイナスからプラスに転じたのです」
「では今、あなたの周囲に生成されているのは沼ではないのですね」
「はい。これまであなたは私に近付くにつれて沈みこんでいましたが、今は逆に浮き上がっていくのです。プラスからのアプローチ、それこそがたった一つの正しい答えだったのです」
男もまた女に向かって歩き始めた。二人の距離が縮まるにつれ高揚感が上昇していく。二人の間にあるのはa/xの幸福。xが小さくなるほど二人の幸福は大きくなるのだ。
「ありがとう、あなたのa/xに」
「ありがとう、あなたのx→+0に」
二人は抱き合うと口づけをした。その瞬間、二人の距離xは+0になりa/xは+∞になった。ひとつになった二人は無限の幸福に包まれながら空の彼方へ昇天していった。
沼の女 沢田和早 @123456789
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
最初の酒の失敗談/沢田和早
★3 エッセイ・ノンフィクション 完結済 1話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます