第二章

第16話 叢雨に濡れし白妙の衣

 カーテンを開け、空気を入れ替える。風に舞う太陽の密陀みつだが床に降りかかる。誰もいない教室、眩しい窓の前で、和梅は深く息を吸い込む。


「そういえば、なんで露の歌が知りたくなったの?」


 昨夜隅田珈琲から帰りながら、白花と話した内容を心の中で反芻する。摺りガラスの三稜鏡さんりょうきょうも床木の金も、和梅は好きになっていた。こうして心地よい場所で白花のことを思い出す時間は、どことなく仏壇の前で亡き母に語りかける時間に似て、心穏やかになれるのだ。


 問われた和梅は、白花にメッセージを送った経緯を話した。

「百人一首にも、似たようなシチュエーションの歌はあるけど、そのどれも、何か……私が感じているのとは違った」


 ぱっと明るくなった白花の顔を見て、和梅の心はまた、枯木を吹く風の騒めきを起こす。自分に笑顔を向けてくれる少年がもたらすはれの天の雨に未だ慣れず戸惑っていると、嬉しそうに白花がこう言った。


「和梅なら、能力じゃなくて歌そのものを好きになってくれる日が来るってずっと思ってた。それが嬉しくてね」


 ええ、と和梅は眉根を寄せる。


「私のどこ見てそんな風に思ったのよ」


「んー、和梅の知らない継承歌の解釈を目の当たりにした時の反応見て、何となくね」


 反応って。和梅は怪訝に思う。「なんか怖い」「いつも無表情」「何考えているか分からない」。自分を遠巻きに見るクラスメイト達がそう噂しているのを、和梅は聞いたことがある。和梅自身、理解してもらう気など毛頭なかったというのに、この男はそんな和梅の僅かな表情の差分まで見極めているというのか。何のために。


「白花あんた、普段そんなまじまじ私の顔見てんの?」


 すると白花は、きょとんとした顔で聞き返した。


「え。俺、そんな和梅のことガン見してた?」


「いや、そんな感じしなかったから聞いてんだけど。何よ反応って」


 そう言われた白花は、少し考えるような素振りを見せた。そして、ああ、と納得する。


「確かに和梅、ちょっと変わったね」


「……?」


「異能戦で拗ねた顔した時から、意外と表情豊かなんだろうなとは思ってたけど。俺が和梅を〈盛咲時也ときなりの娘〉としか認識してなかった頃は、確かにちょっと表情かたかった。でも、實彦さんのコーヒー飲んだ時とか、俺にありがとうって言ってくれた時とか。和梅、笑顔が増えたよね」


 その言葉に、和梅は目を見開いた。いつの間に私は、笑えるようになったんだろう。白花と出会ってから、自分でも知らなかった自分の一面を垣間見る機会が増えていることに気づき、和梅は嬉しいような気恥しいような、複雑な気持ちを覚える。


「話を戻すけど」


「……あ!うん」


 白花の言葉に、今は歌の話をしているのだと思い出し、和梅は思考を切り替えた。


「歌に興味を持ってくれるっていうのは、お父さんを止めるという意味でもありがたいことなんだ。話し合いで解決できればそれに越したことはないけど、お父さんが異能者であり、継神の顕現を強行しようとしている以上、異能戦は避けては通れないと思う」


 白花の言葉に、和梅ははっと身を固くする。そうだ。興奮した頭のまま、思わず勢いで父を止めるなんて言ったけど。それはつまり、「最強の文異能者」盛咲時也と対峙することなんだ。


「自分と似た感性の持ち主を探すことは、解釈を極める上でも凄く大事なことなんだよ。……和梅の優れた感性を利用することになるのは、心苦しいけど、今はこれしか方法がないんだ。遠回りに感じるかもしれないけど、ゆっくり、自分の解釈を探していこう」


 申し訳なさそうに眉をハの字に下げて、白花は言う。白花こそ、表情豊かだよなと思いながら、和梅は答えた。


「そんな顔しないでよ。やるって言ったからにはやるよ、私。……白花が悲しそうだと、私もなんか嫌だ」


 ぽかん、と口を開けて、白花は和梅を見つめた。その頬に徐々に変化が見えてくるのが、和梅にも分かった。


「……そっか。そうなんだね。じゃあ、こういう顔は極力やめるよ」


 顔を逸らして返す白花の耳に血が集まり火照っているのを見て、和梅は、自分が世間一般的に「恥ずかしいこと」を言ってしまったのだと気づいた。というところまで思い出して、


「あああ……」


 時間軸を戻し、翌朝七時。銀灰色ぎんかいしょくの窓枠に手をかけしゃがみ込む。浅紅鮮娟せんこうせんけんたる頬を隠すように額をステンレスにつけ、熱を冷ましているところに、声をかけられた。


「盛咲」


「ああ!?」


びっくりして大きな声が出た。振り返ると、同じく驚いた顔の蛍が立っている。


「よ、よう」


「あ、お、おはよ」


 何でもない様子を取り繕いつつ、和梅は立ち上がる。


「あー、なんか、その、邪魔したか?」


「あ、いや、全然。何だろ、ビビっちゃって、変な声出た。ごめん」


「いや、別にそんな」


「……」


「……」


 会話が続かないのは、相手が白花じゃないからだろうか、それとも昨夜、自分を殺しかけた少年だからだろうか。居心地の悪さを感じつつも、寄りにもよって蛍と教室に二人きりで、何を話せばよいか分からない。何となく目を逸らして手を遊ばせている和梅の沈黙は、意外にもその原因たらしめる蛍自身が破ることになる。


「あのさ、盛咲」


「あ、う、うん?」


 相変わらず挙動不審を隠し切れない和梅に、蛍は苦笑する。


「……もう盛咲を襲ったりしねーよ。お礼が言いたかっただけだよ。信じらんねえかもしんねえけど。……あんなことして、本当にごめん。助けてくれてありがとう」


 恐ろしいほど素直な蛍に、和梅は面食らう。昨日の今日でこの豹変ぶりは何だろう。薄気味悪さすら感じる蛍の謝罪に、今度は和梅が表情筋をひくつかせる番だった。


「……信じるも何も、たった一晩で何があったのよ、あんた」


「……普通に、命の恩人に手を出す気になれなくなっただけだよ。あとで、なんであんなことしたか話したいからさ、今日、昼休み付き合ってくれよ」


 まさに青天の霹靂。穏やかなまどろみから唐突に引き裂かれた香少女におえおとめの頭上はいつの間にか靉靆あいたいとして雨催あまもよいの空には鳥もなし。初夏の終わりを告げるかの如き五月闇さつきやみは、和梅の心に有無雲ありなしぐもを生み出した。

 


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る