第12話 氷面鏡、凍蝶映し

(結局小百合葉さゆりばくん、来なかったな)

 朝から背後に感じていた違和感は、昼休みになっても消えることはなかった。いつもの気配がないということに対して何かを感じるのは、和梅は初めてだった。


 欠席した蛍に昼食に誘われなかったため、和梅は再びぼっち飯に戻る。折角趣向を変えて焼きそばパンを買ってみたというのに。今日は自分から食事に誘ってみようと思っていただけに、少々残念な気持ちで、和梅は縦半分に切れ目の入ったコッペパンに噛りついた。


 その後も蛍が不在のまま五限が始まった。退屈な昼休みが終われば、和梅の気持ちは既に放課後の予定に移ってしまっていた。そわそわとした気分で午後の授業を全て終えてしまうと、和梅は手早く帰宅準備を始めた。


 いつもの黒いリュックサックを背負い、紺色のスクールバッグを肩にかけ、足取りも軽く机を離れる。廊下を走りながらスクールバッグを肩にかけなおした。

 下駄箱で靴を履き替えて校舎を飛び出し、校庭を一直線に駆け抜けていく。校門を抜けて近道の路地へ入り、息を切らして最寄り駅にたどり着いた。


 ちらと腕時計を見ると、いつも着く時間の十五分前。少し早い電車に駆け込み、『5時半には着きそう』と白花に連絡を入れた。


 多摩川の水を払う雪柳の咲き残りが夕彩ゆうあやと輝く刻に、和梅は電車を降りた。

「既読つかないなあ」

 一向に返事が来ない先程のメッセージに、少し不安を感じる。


「……」

 改札を出た和梅は、徐に走り出した。人々の間を器用にすり抜け、目的地である實彦の店へと続く曲がり角を素通りし、ひたすらに駆けていく。


 自分を狙う非異能者の気配が感じなくなったところで、和梅は足を止めた。後ろを振り返り、誰もいないことを確認する。

「……撒けた?」

「撒けてないぜ、残念だったな」


 和梅の独り言を煽り返す、聞き覚えのある声。はっとして前に向き直ると、目の前の小道へと続く曲がり角から、蛍が現れた。うっすらと光を帯びている蛍の右腕に目を遣る。和梅は、彼が異能者であることを今まで隠し続けていたこと、それを今、この状況で明かして見せたことが何を意味するかを察した。


「……さっきの奴らを使って、ここへおびき寄せたってわけ」

「そーゆーこと」

「〈梅の花 何時は折らじと厭はねど〉……」


 裏切りなんて、異能者の常だ。分かっていたからこそ、私は一人を選んだ。自分を攻撃するなら、それは敵。……期待などしてしまった、私の過ちなのだ。


 ちりと痛む胸の内を相手に悟られぬよう、和梅はきっと目を細めた。継承歌を唱え始めた彼女の右手から、梅の枝が浮かび上がる。ぎゅっと握りしめたその時、別の音が和梅の耳を捉えた。


「〈樒摘む 暁露に 袖濡れて

    見果てぬ夢の 末ぞゆかしき〉」


 鈴を転がしたような、可憐な声音。自分にはない育ちの良さがふわりと滲み出るその声の主が姿を現す。彼女が纏っているのは金ボタンで前を留めた藍色のジャンパースカートで、名門私立高校の制服だ。そのデザインから憧れる女子は少なくない。


 ハーフアップにしたシニヨンから垂れ下がる柔らかな長い蝋色ろいろの髪が、彼女の夜明けの国色天香こくしょくてんこうの肌を際立たせている。背は少し和梅より低いが、膝下までの長さのスカートから覗く脚は意外にも健康的に引き締まっている。子供っぽく見えがちな丸く大きな眼もほっそりとした輪郭が上手く均衡を保ち、年相応の十六の娘の顔立ちを作り上げていた。


 和梅の少ない対人経験の中で、琴寄姫ことよりひめとも見紛うような、これほどに美しい少女には出会ったことがなかったため、思わず固まってしまう。――そして、「固まってしまう」ことこそが目の前の天女の文異能だと、和梅が気づいた時には遅かった。


「〈小百合葉の 知られぬ恋もあるものを〉」


 はっとして蛍の方を向く。つい今しがたまで淡かった光が、見る見るうちに明るさを増していく。


 そのまま蛍は和梅へと近づいていった。後ずさろうにも体が上手く動かず、継承歌を展開しようにも喉が詰まって声が出ない。辛うじて浅い呼吸を繰り返す肺だけが、和梅が自由に動かせる体の部位だった。


 腕全体を覆っていた夜半立鳥よはたどりの光は、やがて掌一点に集中する。時は満ちたとばかりに、蛍は口を開いた。


「〈身より余りて行く蛍かな〉!」


 瞬間、細い光線が和梅の二の腕の肉を裂いた。勢いのまま、肩から倒れこむ。

 下の句を言い終わるか否かの瀬戸際で辛うじて身を捩ることができたので、どうにか命は助かったが、まともに心臓を貫かれていたらはかなくなってしまっていただろう。


「……くそっ……もっと、もう少し……」


 ぶつぶつと何か呟きながら、蛍が迫ってくる。目の前が薄暗くなり、和梅の肌が蛍の影で月白げっぱくに染まるまで近づいたところで、蛍は和梅の胸に手を当てた。


「今度こそ」


 次はないとばかりに、蛍の手のひらが再び輝き始める。白花と戦った時には感じなかった死への恐怖に、和梅がぎゅっと目を瞑った時。


「ぐがっ!?」


「きゃっ!?」


 突然、蛍と黒髪の少女が声を上げ、地面に膝をついた。


「うっ……ぐ……なんだ、これ……」


 何かに抗うように震えながら、蛍は地面に手をつく。


「……?」


 一方、何も感じない和梅は、逆に体が自由になっていることに気づく。ゆっくりと体を起こした時、背後から何者かが、裂かれたかいなを圧迫するかのように抱き寄せた。


「〈友がみな われよりえらく見ゆる日よ〉」


 振り返って見た白花の、眼鏡越しに蛍を見遣る眼差しは、和梅の前では一度も見せたことがない、霜が降りた白菊のような、冷え切った色をしていた。


「〈花を買ひ来て 妻としたしむ〉」


 地を震わせるような低い声で白花が下の句を言い終えた時、遂に蛍ら二人は地べたに倒れこんだ。

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