第11話 包み文捉えし芙蓉の眥

 翌日。和梅はいつもより早い時間に学校へ来た。太陽がまだオレンジなのが、和梅には珍しかった。


  別に、何があったというわけではなかった、と思う。昨日疲れて早く眠りについたせいで、今朝は早く目が覚めてしまっただけだ。

 二度寝しようとすると白花の顔が頭をちらついてしまったからとか、そんなわけではない。


 開いたばかりの校門をくぐり、鍵を持った生徒指導の先生に形式的な挨拶を送る。校庭を突っ切って、校舎に入ろうとしたとき、ふと下駄箱前の花壇の前で足を止めた。


 普段は目もくれないアスターの花を――無論、和梅は花の名など知らないし、和歌に詠まれた花も、名前だけ覚えて実物を調べることはない――見た途端、二日前の異能戦を思い出す。

 昨日の日中の情緒ではとても目に留める余裕などなかった花壇の、咲き誇る花を立てるが如き深緑の葉に浮かぶ玉露たまつゆ。和梅はふと、こんな歌を思い出した。


  白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける


 秋の野の、草の上にある無数の露。その露が風に吹かれた瞬間の、ばらばらと飛び散る真珠のような美しさを詠んだ文屋朝康ふんやのあさやすの歌。

 父康秀やすひでは六歌仙の一人で、この歌と共に百人一首に選ばれている。古典の研究者を目指す和梅にとっては基本中の基本のような歌であった。


「……シチュエーションが違う」

 違和感は、和梅の胸の奥にさざ波を立てた。何故だか分からない。しかし和梅は、「葉に留まる露」の歌が知りたい、と思った。


 和梅が研究者を目指した動機は、ひとえに、父を見返したいからだった。自分と父を繋ぐ継承歌の解釈を極めたい。その一心で今まで勉強してきた。


 研究する歌なんて、継承歌だけでいい。ずっと自分に無関心だった父を異能を以て超えて、ぎゃふんと言わせたい。それなのに、父は万葉集より先に、もっとメジャーな平安以降の歌を勉強するように言う。それが和梅には、不満だった。


 そんな和梅が、歌そのものに対して関心を向けることは初めてだった。しかし、何となく父に相談するのは気が引けた。和梅の知る誰よりも歌を愛する父だったが、今の思いは何故か、父には告げたくなかった。


 肩にかけていたスクールバッグを、前で持ち直す。ポケット部分に入れていたスマホを取り出し、メッセージアプリを開いた。


 昨日広場にいる旨を伝えたメッセージに、『気づかなかった!ごめん』という返信が届いたのが昨晩八時。その下に、散々迷って押した、初期設定の時点でダウンロードさせられた無料の「グッド」のスタンプ。件のピンクの髪の美少女が『ありがとう』と目を輝かせているスタンプが返ってきてから、互いに何の連絡も入れていなかった。


『葉っぱに露が乗っかっていることを詠んだ歌が知りたい』

 単刀直入な一文を白花に送る。数秒後、『おはよう』と微笑むピンクの髪の美少女。それと共に『今日はそこを中心に勉強しよう』『見聞を広めるのは異能を磨くうえでも有効だから』と返信が来た。


 初めて「自分の解釈」で継承歌を捉えた日と、似た気持ちが和梅の胸に生まれる。和梅は、最近知ったその気持ちに名前を付けた。

「わくわくしてる」


 再びアスターに目を向けた。小さな花の今様いまよう色を、和梅は知らなかった。


 靴を履き替え、校舎に入った。階段を上り、廊下を横切る。誰もいない教室に足を踏み入れた。木製の床は、いつもより足音を響かせた。


 校庭に面した窓のカーテンを両手で引いた途端、朝日が差し込む。眩しさに思わず下を向くと、朽葉くちばの床板が琥珀に染まっていた。振り返ると、炎帝の栄華を飾る光を受けた、廊下側のすりガラスが七色に輝いている。


 天つ日に向き直り、クレセントを下げる。窓を開けると、教室の澱みを掃わんと科戸しなとの風が舞い込む。金色こんじきの空気に目を細めて、和梅は、真砂のきらめく校庭に目線を下した。


「何だろう」

 凡俗極まりない教室、ただ平坦でしかない校庭が、いつもと違って見える。数学の補習で夕方まで居残りした時の光景と似ているはずなのに、何かが違う。


 朝だから?そんな単純な理由ではない気がする。和梅が理由を考えていると、女の子が二人教室に入ってきた。上半身だけで振り返った和梅を見て、二人は目を丸くした。


「あ、盛咲さかさきさん……」

 クラスメイト二人は、意外な先客に言葉を詰まらせている。和梅は、体ごと二人の方を向いた。集中的に白花と長時間過ごした和梅は、少々感覚が麻痺してしまっていたようだった。


「おはよう」

 和梅の一言に――或いは後に白花の口から語られる和梅の現状に、二人の少女は口をぽかんと開くのだった。


***


『……本当に今日、実行するの?』

 樒の声が、訝し気に響く。


「やるっきゃないだろ。このまま放置して好きにさせるわけにもいかねーし。お前だっていずれは潰さなきゃいけねえ相手だろ?」

『それはそうだけど……』

 蛍の返答に、樒は何か考えるように言葉を濁した。


「大体、愛妻あづま白花にバレてる時点でやべーんだよ。あいつ、マジでつええ、あんなのに盛咲が傾倒したら、俺たちに勝ち目ねーよ」


『……分かったわ。今日にしましょう。でも蛍、あなた学校はどうするの?あの女と同じなんでしょ』


 蛍は鼻で笑った。

「フツーに休むわ。愛妻に俺たちのことがバラされちまってたら、何されるか分かったもんじゃねえ」


 沈黙が流れる。しかしそれも長くは続かない。ぎゅっと拳を握り締め、蛍は言い放った。

「俺が、異能者全員潰してやる。……生まれてきたことを、後悔させてやるよ」

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