第7話 密心に怒れる毒の花

 南の碧霄へきしょうから光の差し込む、校舎と校舎に挟まれた小さな空間。 普段は誰も興味を示さないような正午の中庭を、東側の校舎の2階の窓の一角から血眼になって観察する者が数名。

 完全に自身の縄張りだと思い込んでいた園芸が趣味らしい校長が、居心地が悪そうに花壇の花に水をやっている。


 楠の木陰に座って、「じゃあ」と和梅は持ってきた古典の教科書とノートを開く。

「まず、飯じゃね?」


 蛍が弁当包を取り出したので、それもそうかと和梅は思い直す。「弁当持って中庭で」と言われたことを律儀に守り、購買で買ってきた菓子パンの袋を開ける。窓の野次馬がひそひそと何かを話し出した。


 まさか自分のことを観察し、蛍の成り行きが気になって仕方ないクラスメートたちに逐一報告しているなんて夢にも思っていない和梅は、もそもそと食事を始めた。


 隣で蛍は、卵焼きを頬張っている。近くに座っているので、この時間帯になると毎日嗅いでいるメロンパンとはまた違った、醤油と混ざった甘い香りが和梅の鼻をくすぐる。その香りを嗅いだ途端、喉がきゅっと締まった。


 ずっと昔、小さな体操着をどろんこにして、短い脚で必死に駆けた園庭。一等のバッジを貰うことすら忘れて、ゴールテープを切ったその足で飛び込んだ柔らかな胸。


『和梅ちゃんが頑張るって言うから、張り切って作りすぎちゃった』

 彩り鮮やかな重箱の中の、一際目を引く黄色い渦巻き。これを逃したら遠足でしか食べられない、運動会のお楽しみ。幼子の口には大きすぎるそれを、ひとり占めしたくて必死に頬張って。


(……母さん)

 交通事故で亡くなった彼女のために毎朝線香をあげる時が、和梅が一番人間であれる瞬間であった。愛された過去を思い出し、自身も又人を愛せるのだと実感できる、彼女にとって最も大切な儀式だった。


 いけない、と思った。今は、母のことを思い出してはいけない。これ以上記憶に踏み込んだら、きっと辛くなってしまう。


 異能者として生きてきた中で、多くの人につけこまれそうになった。自衛を繰り返すうちに、弱さを他人に見せないことが習慣になっていった。

 せめて、家に帰るまで。誰も見ていない場所にたどり着くまで、平静でいなければならない。気持ちを切り替えて、メロンパンにかぶりついた。


 そんな和梅を静観していた蛍は、水筒の麦茶を少しだけ口に含んだ。表情だけでも和梅が平静に戻ったのを確認して口を開く。

「盛咲っていつも本読んでるよな。どんなの読むん?」


 思いがけず穏やかな蛍の口調に、自然と和梅の食べる手が止まった。早波さなみの如くさゆらぐ心が少しずつ凪いでいく。

 口に入っていたメロンパンを飲み下し、和梅は素直に答えた。

「日本神話の現代語訳版とか、民俗学の解説書とか。本当は万葉集に関わる本とかも読みたいんだけど、父さんが、お前にはまだ早いって」


 ぴく、と蛍の肩眉が動いた。ごくりと唾を呑んで、蛍は質問を続ける。

「すげえじゃん、俺なんかマンガばっかだし。めっちゃ勉強してんだな」

 高揚した気持ちを悟られないよう、蛍は和梅を尊敬している風を装う。そんな蛍の真意に気付かない和梅は、少しだけ気をよくして自身の夢を語った。


「父さんが、有名な学者で。私も父さんみたいになりたくて」


 掛かった。慎重に言葉を選びつつ。


「あー、盛咲のお父さん、有名な教授とかで結構新聞とかにも載ってるよな」


話の核心に迫る。


「どんな研究してんのか気になるなー。色々教えてくれよ」


***


『……ちょっと展開が早すぎない?』

 電話口から、少女の声が蛍をなじる。

『もっと慎重にいった方がよかったんじゃないの?』


 口の端を吊り上げて、蛍は答えた。

「相手がチョロすぎた。まさかあんな簡単に口を割るとは思えなかったよ」

 

 五月とはいえ夕方は冷える。この時期に半袖のカッターシャツは一見異様な姿だが、彼はあやに様になっていて誰もこちらを気にしない。

「待ち合わせ場所」が近づいていくにつれて、人も少なくなっていく。工業地帯の一角、誰も近づきたがらないような廃工場で足を止めた。

 涼し気な目を三日月のように細める。

「やっぱぼっちはオトすのが楽でいいわ」


 しかし、それを聞いて彼をなじる少女の声は、スマホが弾き飛ばされたことによって突如聞こえなくなる。スマホを奪った花吹雪を目の端に留め、蛍は振り返った。


 鋭い眼光を浴びせる白花に、挑発するかのように蛍はニヤリと笑みを浮かべた。

「新参者が何か用かよ、愛妻ンとこの長男さんよォ」

 何も答えない白花に、

「それとも盛咲の周りをウロチョロしてたストーカーって呼んだ方がいいかよ」

と更に煽ってやると、漸く白花が口を開いた。


「盛咲和梅に手を出すのはやめてもらおうか、承諾しないなら容赦はしない」

 負けるわけがないという絶対的な自信から来るその言葉に、かっと蛍の瞳孔が開かれた。

「面白れェ!」

 凶暴性を秘めた笑みを浮かべ、蛍は異能を展開した。


  さゆりばの 知られぬ恋も あるものを 身よりあまりて 行く蛍かな


 蛍は、右腕を前へ出した。腕全体に、淡く光を宿らせる。点滅を繰り返す緑がかった黄色いそれは、蛍が腕を振るとちろりに強い光芒となり、まっすぐに白花の脇腹に当たる。

 ベージュのニットが焦げて小さく穴が開き、肌が灼けて流れてきた血がニットの下のシャツを赤く染めていく。

「今日は服を汚したくなかったんだけどな」

 そう呟き、白花はぱっと手を上げた。瞬間、蛍の周囲直径二メートルほどをぐるりと取り囲むように、地面からにょきにょきと白百合の花が生えてくる。


「はっ。こんなん、フツーに切れんだよ」

 光線を出したまま、右腕を左から右へ横に振る。腕の動きに同調する光線によって宣言通り茎を焼き切ることに成功するも、切れた先から再び生えてきた茎に蛍は舌打ちした。

「しつけーな」


 しかし、再び焼き切ったところで蛍は目を見開いた。百合の壁の外側に、更に多くの百合の茎が待っていたのだ。


 右腕の光を左にも孕ませ、両腕で百合を切り裂いていく。しかし、切っても切っても前へ進めない。そのうちに百合の茎は、花が内側に来るように、ゆららと先端がドーム状に閉じ始めた。


「おい、待て、待ってくれ!」

 焦り始めた蛍の声が聞こえているのかいないのか、白花は無表情で屋根を閉じていく。その間も次々と百合は再生を続けており、蛍が逃げ出すことはできそうになかった。


 上部がすっかり閉じ切った時、辺りは塊然独処として、ただ毒々しいほどの百合の香りだけが辺りに広がっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る