第3話 小夜の寝覚めと手向け花
天井にまで届くかと思われる本棚に覆われているので、壁紙が見えない。そこにぎっしりと詰められた本、本、本。雑誌のようなものが並ぶ段もあるが、その表紙には和梅が本屋で見かけるファッション誌のような美女は映っていない。誌名と掲載論文の筆者、たまに目次が記されているだけの簡素なものばかりだ。
多くは上代文学に関するもののようで、「人麻呂」とか「大伴」とか、和梅でも多少は勉強して知っている言葉の入ったタイトルも多いが、「
他にも漢詩文や歴史書のようなものや平安時代以降の研究書もいくつかあるようで、『古今和歌集』をはじめ勅撰和歌集は一通り揃っている。近代・現代歌人の歌集も少なからずあり、自作の短歌を記録したノートさえ見つけた。
「へえ……浦島太郎ってこんな昔から伝わってるんだ……。あ、こっちは昔の人の日記?……うわ、父さんこんなの白文で読むの……?」
名の知れた研究家にもなれば、漢文を読むのに返り点など必要ないのだろうが、中学を卒業して2か月しか経たない上に父親と仕事について語らう機会など皆無だった和梅からすれば、全てが新鮮に感じる。和梅は、
万葉集の注釈書のひとつを手に取り、ぱらぱらとめくってみると、ある歌が書かれたページで手が止まった。
〈梅の花
(『万葉集』巻十七・三九〇四番歌。「太宰の時の梅花に追和する新しき歌六首」のうちの一首。「梅の花は、折るまいとはばかる時があるわけでないが、花盛りに折らないのは心残りだ。」(佐竹昭広ほか『万葉集 四』岩波書店・平成二十六年八月十九日)などと解される。)
「これ、うちの継承歌だ」
満開の梅の、折り取ってしまいたくなる衝動を抑えられなくなるほどの美しさを讃えた、大伴家持の歌。和梅を歌象者たらしめるが故に、幼い頃に父が解説してくれた、和梅と父を繋ぐ数少ない碇。
「こんなに沢山の人が研究してるんだ」
「万葉集」と書かれたハードカバーだけで、三十はゆうに超える。手にしていた書を戻し、別の注釈書を手にした時だった。
「がっ!?」
突然、右手に刺すような痛みが走り、和梅は持っていた本を床に落とした。驚いた拍子によろけてしまい、机にぶつかる。同時に、一滴二滴、掌から血が落ちて机を汚した。
「何……?」
恐る恐る、落とした注釈書に目を向ける。それは最早本としての機能を失ってしまっていた。
本の小口から背にかけて、無数の枝が突き刺さっている。先端は折られたかのように尖っており、その枝に、異能を使う際に飽きるほど見てきた白い花を認め、和梅は目を見開いた。ご丁寧に、和梅の手が触れた部分にのみピンポイントに枝が刺さっているのが、何よりの証拠だった。
「……父さん」
「梅」を「折」る歌のとおり、梅の枝を飛ばして敵を攻撃する異能。同じ力を持つ和梅には、はっきりと分かった。父時也は、自分を攻撃した。それは和梅には、思いがけない衝撃を与えた。
「そんなに見られたくなかったの……?」
確かに、父から愛情を向けられた記憶は和梅にはなかった。――否、この時の和梅には「思い出せなかった」とも言えよう。しかし、普段父に関心を向けられていないというのは事実だった。それでも、父に手を上げられたことは、一度としてなかった。
実の父親に、異能を使ってまで、明確な敵意をもって攻撃されたことにショックを受けていると自分で気づくまでに、暫し時間がかかった。
「……」
リビングからティッシュペーパーを取ってきて、机についた血を拭う。幸い傷は軽く、少しの間傷口を抑えていたら、すぐに血は止まった。机にぶつかった際に床に落としてしまった卓上カレンダーを拾い上げたとき、ボールペンで書かれた文字が和梅の目に留まった。
落ちた際にめくれてしまったカレンダーは、八月を示している。その七日の欄に、小さく「月食」と書かれていた。
「……父さん、こんなの興味あったっけ」
時也は古典文学の、特に和歌に強い興味を持っているが、それ以外にはとんと興味を示さない男だ。毎年夏と冬に学校で話題になる流星群の時期だって夜にベランダにすら出ようとしない男だ。和梅には、彼が天文現象に興味があるとは、とても思えなかった。
大体は元通りにして、和梅は書斎を出た。注釈書の成れの果てだけは、どうしようもないので床に落としたままにした。
本棚に仕舞おうと手に取ってまた怪我でもしたらたまったものではないし、本に戦闘を仕掛けるなどあまりにも不毛である。大体、そう広くない書斎で暴れまわったらどうなるかなんて、誰の目にも明白だろう。
「怒られちゃうかなあ」
隠そうにも隠せない証拠を残して部屋を出た後の展開を想像して憂鬱になる。顔を合わせることがないだけで、父は定期的に我が家へ帰っている。どうかすれば明日には、書斎に侵入したことがばれてしまうだろう。
「……ちゃんと謝るしかないかあ」
ため息をつき、自室に入る。気を紛らわせるべく、宿題を片付けてしまおうとノートと問題集を開いた。
白紙のページを開き、「あ」と和梅は思い出す。
「ノート、あと少しで終わりだ」
数学のノートが、もう3ページしか残っていない。理数科目が苦手な和梅は、計算問題を解くのに少々ページを使いすぎてしまう傾向にある。
出された課題自体はそう多くはないのだが、今日中に三ページとも使い切ってしまいそうな予感がした。そういえば、そろそろ冷蔵庫の中身も減ってきたような。
「買いに行くかあ」
何はともあれ宿題だけは終わらせなければと、和梅はシャープペンシルを手に取った。
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