第一章 石面の苔、荷と生ひて

第2話 魔魅は往にし回雪の袖

 南武線を降りて、少し伸びたボブカットをふわふわと揺らしながら、いつもの帰り道とは逆方向へ走っていく。初夏に降る雪の柔肌に、赤みがさしていく。汗ばむ額をセーラー服の袖で拭いながら、5月にもなってタイツなんか履いてくるんじゃなかったと歯を嚙み締めた。


 二十歳の盛りを待ちきれず咲き零れた蕾のような美しさを湛えた少女の、その勝気な性格がよく表れている少し吊った目には、花屋のクレマチスも洋菓子屋のケーキも映らない。今の彼女が認識しているのは、スポーツウェアを身にまとい、野球道具を背負った――部外者には、あくまでただ体を動かして汗を流したいようにしか見えないような恰好をした――三人の男が自分を追っているか否かだけであった。

「撒けそうにないか」

 関係のない一般人を巻き込んでしまったら厄介だ。少女は以前から何か所か目をつけていた路地裏のうちの一つへ駆け込んだ。


 人通りの少ない小道にまでおびき寄せたところで、振り下ろされた木製バットを左手で薙ぎ払う。間髪入れずに右手で先攻の男の襟に掴みかかり、相手が前のめりになったと同時に腹に膝蹴りをお見舞いする。引き寄せられた勢いと蹴り上げられた勢いの相乗効果でまずは敵を一人減らした。


 後ろから来る二人目の攻撃も疎かにはしない。自分より背の高いその男の腕を掴んで体制を崩し、よろけて互いの顔が近づいたところを顎から脳天に向かって殴りつける。膝から崩れ落ちた二人目の肩を容赦なく踏みつけて飛び上がり、更に後方の、少し怯んだ様子の三人目に飛び掛かった。その勢いのまま押し倒し、金的に遠慮なく蹴りを入れた。


 男から手を離し、立ち上がる。三人とも気絶していることを確かめると、服についた埃をパンパンと手で払った。


 帰路につきながらため息をつく。盛咲和梅さかさきかずめは、いい加減うんざりしていた。


 異能などあったところでいいことはない。こんな風に反異能集団に襲われるのは日常茶飯事だし、異能を展開して相手に怪我を負わせれば、こちら側が不利になってしまう。異能を使った時点で、正当防衛扱いにはして貰えないのだ。大体反異能集団なんてものが存在するのも、授かった異能の威を借りて威張り散らすバカ共が世に蔓延っているからだ。異能に頼らず真っ当に暮らしている者からすれば、いっしょくたにされて迷惑極まりない。


 その上和梅を取り巻く環境は、文異能者が生きていくにはあまりにも居心地が悪すぎた。

 異能を持つ少年少女は、私立の金持ち学校へ進学してそのままコネで人生勝ち組コースが多い。和梅の父時也は文異能者、それもこの国では最高ランクとされる何代も続く歌象者の中では非常に珍しく、政府との癒着の一切を放棄していた。ひたすら短歌の研究に没頭し、学会では圧倒的な存在感を放っていた。自身の努力で得た地位が異能によるものと言われることを何よりも嫌った。


 勿論盛咲家に伝わる異能の源となる継承歌の研究にも力を入れていた。異能は自身の「解釈」を極めることでより強大になっていく性質があるため、研究すればするほど「解釈」は脅威を増していった。誰よりも歌を愛する時也は、いつしか「最強の文異能者」と呼ばれるまでに至った。


 そんな父を誇りに思う一方で、和梅自身はどうしようもない生きづらさを感じていた。先述の通り金にも権力にも一切興味を持たない父を持つため、当然盛咲家は金持ちではない。家計に私立へ行く程の余裕はなく、和梅は公立高校へ通っている。そこでは文異能者はマイノリティにあたるため奇異の目で見られるため、落ち着いて読書すらできない。皆自分を遠巻きに観察するだけで誰も話しかけてはくれない。後ろの席の男子が落とした消しゴムを拾ってあげた際に目が合っただけで、ヒソヒソと噂されてしまう始末だ。


 最も、じろじろと失礼な視線を浴びせてくるようなクラスメイトと馴れあう必要などない。和梅には友達と呼べるような者は誰一人としていなかった。実際のところ、和梅がやたら目立つのは、彼女の閉鎖性を象徴するかの如く固く閉ざされた唇すらも魅力だと周囲に思わせてしまう、その圧倒的な美しさにあるのだが、当の本人にそれを言う勇気のある者はこの学校には一人としていなかった。


 歩いているうちに、アパートが見えてくる。ほっと息をついて和梅はその一室のカギを開けた。靴を脱ぎ、中へ入っていく。私物の少ない自室の床に、和梅はカバンをおろした。うち一室は父が一応書斎として占拠しているものの、基本的に家へ帰ってこない彼と二人暮らすには広すぎる3LDKのこの部屋も、適当に作った野菜炒めを1人で食べる日々も、和梅には最早当たり前のことだった。


 宿題をする前に部屋の掃除をしようと窓を開け、和梅は物置へ向かった。

「ん?」

 部屋の中心部ともいえるリビングに出たところで、和梅はふと引き戸の一つに目が留まった。いつも閉め切られている父の書斎の戸が、少しだけ開いているのだ。

「珍しいな」

 変わり映えのない日々の中で、その小さな変化は和梅の中で思いがけない好奇心を生んだ。たまに帰ってくる父に、掃除するためでさえも入らないようにと言われている書斎。部屋の奥から何も気配も感じないことを確認して、和梅は引き戸を引いた。


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