第4話 悪鬼羅刹の蔓延る街で

 街灯が歩道を照らす逢魔が時。紺色の天蓋が下がった空の西側は、紫と橙の諧調で彩られている。無事宿題を済ませた和梅は、すたすたと近くのドラッグストアへ向かって歩いていた。カースト下位の歌象者にとって、夜に一人で歩くことほど危険なものはない。反異能集団の動きが活発になり始める時間帯が近づいてくるからだ。


 異能を展開せずに戦える人数には限りがある。下手に動けないのをいいことに犯罪に巻き込まれでもしたら最悪だ。なるべく明るいところを通って、ノートと最低限の食料だけ調達してさっさと帰ろう。夏の香りが立ち始めた五月の空気を振り払うかのように、足早に和梅は進んでいった。


 大通りに出ようと角を曲がったとき、悲鳴が聞こえた。同時に、怒鳴り声も聞こえてくる。


「誰に向かって口きいてんだ!!」

 ブランド品で身を包み、耳にピアス穴をいくつも開けた金髪の女が、股を広げてしゃがみ込み、倒れている男性の頬を掴んで無理やり目を合わせさせている。

 ボロボロの服を身にまとった男性は、唇を震わせながら、懇願するように叫んだ。


「もう限界なんです!お願いします……僕と離婚してください……がっ!……んぐ!」

 掴んでいた頬を勢いよく地面に叩きつける。立ち上がった女は、無抵抗の男性の顔面を踏みつけ、ぐりぐりと彼の頭部を地面で擦りつけた。

「てめぇなァ、誰に向かって命令してんだ?あ?」

「ぐぅ……う、たすけ……」

「あたしの親父が誰か、分かってんだろうなァ!?」


 涙を浮かべた男性が助けを求めるも、警察を呼ぶ者も、仲裁に入る者も、一人としていない。道行く者は皆、何も見えていないかのように通り過ぎていく。

 それは、その肩から生えてきている植物のようなものに起因しているのは明らかだった。


 文異能者は、非能力者を異能を以て傷つけることは固く禁じられている。しかし、禁じてただ押さえつけるには、異能はあまりにも強すぎる力であった。

 日本に五千といない文異能者だが、解放を求めて団結し、自由の掌握という大義名分のもと暴動でも起こしたら、国が崩壊することは目に見えていた。


 法の下に異能を封じる。そのために政府が考えたことは、異能者が生きやすくなるよう社会を整えることだった。少しずつ増えていった暗黙のルールによって、異能者が現代日本において絶対的な力を持つようになるまでに時間はかからなかった。

 目の前の女は、「異能によって」男性を傷つけているわけではない。異能者にとって、非能力者に課せられた法律はないも同然だった。


 ぎり、と歯を軋ませる。眉間に皺が寄っているのが自分でも分かった。現場に駆け寄り、和梅は、すらりとした脚をまっすぐに伸ばして怒りのまま女の顔面を蹴りつけた。

 その勢いで一メートルほど吹っ飛ばされた女は、倒れた先で白目をむいてぴくぴくと体を痙攣させている。振り返ると、男性が目を丸くして自分を見ていた。


 膝立ちになり、男性と目を合わせる。顔付近を集中的に攻撃されていた彼は、鼻血を流していた。ポケットからティッシュを取り出し、和梅は男性に手渡したところで、ぐるりと周囲を囲まれた。


「……」

 如何にも成金趣味を丸出しにした文異能者がボディガードの一人もつけていないわけがなかった。

 溜息をつき、和梅は、掌から梅の花を出して見せる。スーツを着た男たちはギョッとした顔で、そそくさと退散していった。


 何も考えないように努めながら、和梅は歩いていく。どう足掻こうと、あの男性に救いなどあるわけがなかった。DV保護シェルターを勧めたところで、異能者関係の者と分かれば法人団体も我関せずの姿勢を貫くだろう。下手に希望など与えれば、その後待っている絶望が大きくなってしまう。


 和梅がしたことなど応急処置にすらならず、先程助けたせいで、彼はますます悲惨な道を辿る可能性すらあるのだ。先程見た地獄の一端をどうにか記憶から追い出そうと、和梅は拳を握り締めた。


 自分が異能者だということを隠そうとした時期もあった。自分が置かれた環境で公表するのはリスクが高すぎるし、何より世間的なイメージとしての「異能者」と同じ目で見られるのが嫌だった。しかし、異能者によって蹂躙される非能力者を傍観することが和梅にはできなかった。先程の一件を見た者たちの好奇の目に晒されながら、和梅はドラッグストアへ入っていった。


 買い物を済ませ、店を出る。その頃には和梅に興味を示す者は大通りから消え去っていた。しかし憂鬱な気分は拭いきれず、買い物袋がやたら重く感じた。ただ帰宅することだけに集中しようと歩を進める。

 暫く続けていると、その努力が功を奏してきたのか、自然と意識が帰り道へと向いていった。


 しかし、その意識は、ふいに別のものへと向くことになる。住宅街の、車がギリギリ二台通るか通らないかという幅の道まで来たところで、ふわりと漂う花の香り。

 香水などにはまるで興味のない和梅だったが、その香りには不思議と心惹かれた。嗅いでいると、何だか心が洗われるような。


 曲がり角の先の、ごく細い道。いつもは右側、比較的広い道へ出る方向に進むその分かれ道を、和梅は心の赴くまま、左の小道へと入っていった。


 進むにつれて、香りが強くなっていく。噎せ返るほど濃厚な香りのその先に、和梅は一人の少年が立っているのが見えた。その手に浮かぶ白を見て、和梅は、この香りを放つ花が百合であることを知った。

 平均的な女子より高身長である彼女からみても少年は背が高い。端正な顔の縦中央にすっと一本筆をおろしたような高い鼻、その少し上。眼鏡の奥の切れ長の目が和梅を捉えた。


「来てくれると思ってた」

柔らかく微笑んで、少年は告げた。

「君のお父さんを、止めてほしい」

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