第35話 今だけは
「なあ。大丈夫か?」
泥まみれの服の汚れを払い落としながら立ち上がった少年が言った。短い髪、キラキラ光る明るい色の瞳、長いまつ毛。すんなりと伸びた手足。
彼は、手を伸ばし、同じように泥まみれになって地面に座り込んでいる、もう1人の少年に手を差し出す。
その手を握って、立ち上がった少年は、サラサラの少し長めの黒髪、切れ長の瞳、端正な顔立ちをしている。彼の方が、最初に声をかけた少年より、わずかに背が高く見える。
「大丈夫。ただ、ちょっと……」
彼は、ズボンのお尻を気にしている。泥水を吸って、ひどい有様になっている。おそらくは、中までしみているのではないだろうか。
それに気づいたのか、短髪の方の少年が、笑いながら言う。
「やばいな。それ、パンツまでしみてそう……」
「……めっちゃ、しみてる」ちょっと情けなさそうな顔で、長い髪の方の少年が答える。
「ん~、それじゃ、うちに来るか? うちで着替えたらいい」
「うん。いいの? ありがとう」
そして、2人は、短髪の少年の家に行き、そのまま、庭でホースやじょうろで、お互いに水をかけあいっこして、楽しそうに遊び始める。
明るい夏の陽差しと、きらめき飛び散る水の輝き。屈託なく笑い合う少年たちの笑顔。とても爽やかなシーンだ。でも、その直前までは、二人して、年上の不良少年たちと闘って撃退し、泥まみれになってしまうハラハラドキドキするシーンだったのだ。
そう。これは、ドラマの中のシーンだ。
想太と琉生くんは、2時間ものスペシャルドラマで、2人の主人公の子ども時代を演じているのだ。
想太はこの役のために少し短く髪をカットした。今までふわふわの、やや長めの髪だったから、あまり目立たなかったけど、彼は、眉の形がとてもきれいなのだった。キリッと濃いめで、スッキリと伸びた眉。ステキだ。
(ああ。またこれで好きな理由が一つ増えてしまうじゃないか)
私は、秘かにため息をつきつつ、そのドラマを巻き戻す。
テレビで放送されたのを録画して、私は、もう何度このシーンを見ただろう。
ドラマ全体も、途中いろんな出来事があってドキドキハラハラした。でも、すごく爽やかで心に響く物語だった。
様々な出来事のせいで、離ればなれになって成長した幼なじみたち。2人は離れていても、心の中にずっとお互いへの友情を抱き続けていた。しかし、大人になって、思いがけず対立する立場で再会する。再会したことが本当は嬉しいのに、それを口に出来ない状況で。もどかしくも切ない事件が2人を巻き込み、見ているこちらはハラハラしてしまう。
でも、最後の最後、(ああ、やっぱり、2人は忘れてなかったんだ。泥まみれになって、笑い合ってた、あのきらめくような夏の日を。やっぱり2人の心は、親友のままだったんだ)そう思える、ステキなエンディングだった。
想太たち2人の出ているシーンは、はじめの方だけの短いものだ。でも、その後も主人公たちの心に残り続ける大事な思い出のシーンなのだ。
自然と、そのシーンを演じた少年たちにも、視聴者の注目が集まる。
「あの可愛い子たちは、なにもの?」
「すっごい魅力的! あの子ども時代のシーンが、大人になってからのストーリ-にすごく生きてる」
「カッコいい。笑った顔とか、ドキッとするほどいい!」
「どっちか選ぶとか、無理。カッコ可愛いって、まさにこれ!」
「2人とも、すごくいい。息もあってて、ほんとに親友同士に見える」
「どこにこんなすごい子役の子たちが眠ってたの?」
「大人時代の主役2人も、超イケメンだけど、子役の2人も負けてない」
……などなど。
放送直後から、ネット上でも、そのドラマの話題が盛んにやりとりされた。
彼らが、EMエンタテインメントの研修生だということがわかると、ますます反響は大きくなった。
ライブのバックで踊っている2人の画像がアップされると、ドラマの素朴な少年たちのイメージとは、またちがう雰囲気なのが、さらに評判になった。
想太も琉生くんも、ますます忙しくなっているみたいだ。
「すごいよね」サトミちゃんが言った。
「なんかで言ってたな。物事が進むときは、あっという間に一気に進むもんだって。なんかそんなことわざって、なかったっけ」
ミヤちゃんの言葉に、私たちは、首をひねる。
「さあ?」
「でも、CDデビューするには、まだちょっと若いから、もう少し、バックでがんばって、その間ドラマや映画とかで名前を広めていく、ていう戦略かな」
ナナセが分析する。
「どうだろう……」
ネット上では、想太と琉生くんの親の話は出ていないので、今の彼らへの評価は、純粋に彼らに対する評価といえる。
こうやって、少しずついろんなところで認められ、力をつけて、いつかCDデビューする日がくるんだろうな。
私も、ナナセと同じことを思っていた。
その晩、私は、1人で近所のプラネタリウムに行った。最終上映だ。今日もちょうど、アロマサービスデー。
今日の受付は、私の知らない人だった。チケットを買って中に入り、前に想太と2人で来たときに座った席に腰かける。今日のお客さんは、私以外にカップルが3組。
席に座った瞬間、あの日の記憶がよみがえる。
あの日、私にもたれて眠っていた想太。つないだ手を握りしめていた想太。彼のふわふわの髪の香りが心地よくて、星空の解説も、アロマの香りも、私は何にも感じる余裕がなかった……。
そんなに前のことではないのに、なんだかめちゃくちゃ遠い昔のように思えてしまう。
私は、そっと目を閉じた。
(さみしい、って声に出さない)
そう心に決めた私だけど、今だけは。1人でいる、今だけは――――いいよね?
誰も知らない。聞いていない、この場所でなら。
「さみしいよ……想太」
ほろりと涙がこぼれ落ちる。
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