レームダックステイツ

懺悔

 四月某日。

 ニューヨークは、ブロードウェイの一角に建つトリニティ教会。

 そこに在中する神父は、いつものように懺悔室に入りそこで迷える子羊を待っていた。

 信仰心が薄い者が多くなった現代でも、許しを乞おうと多くの人間が訪れる。

 むしろ、現代だからこそ、懺悔室が必要だと神父は考えていた。

 インターネットの片隅に悩みを呟いたところで、マトモに相手してくれる酔狂な人物は少ない。

 それに、悩みというのは往々ににして親しい者には打ち明けにくいものだ。

 だからこそ、何も知らない他人に悩みや罪を打ち明け、黒く霧がかった心に一筋の光を差すようにする。

 聖書の教えから多少外れていようと、人間として正しい事だ。そう信じ、神父は今日も懺悔室で子羊を待つのだ。

 古い木戸が軋む音が狭い空間に響き、神父は閉じていた目を開く。


「……神父様、神父様。いらっしゃいますか?」


 向こう側に居るのは、四十から五十程の男性。声は酷く疲れている。

 

「はい。私は、ここに居ます」


 男の問いかけに、神父は鷹揚な声で答える。


「どうか、私の罪を聞いてください」

「はい」

「……そうだ。この事は、他言されないのでしょうか」

「それは、聞いてみないと分かりません。神だって、許すかどうかは貴方が話してくれないと、判断のしようがありません」

「……そうですよね。失礼しました」


 その声は、落胆している様に神父には聞こえた。


「……私は、罪を犯しました」

「………………」

「……金に困っていたのです」


 神父は、男が犯した罪に粗方の目星を付けた。

 ケチな盗みでも働いたのだろうと。金に困り人の財布でもスッたか、金が無いせいで食うに困りパンでも盗んだか。

 法を犯したのなら時効を過ぎてない限り、自首を勧める。

 罪を聞き、悩みを聞き、心のつかえが軽くなったところで自首の事を切り出す。

 単純な事だが、人間を救う道の一つだ。

 神父は頷き、進めなさいと言った。


「私は……悪魔に魂を売ってしまいました」


 悪魔。比喩にしても、教会で出す言葉としては不適切な部類に入るだろう。

 思わず、神父は声がした方を見た。声が聞きやすいようにそこは金網になっており、網目からはワイシャツにネクタイを締めた上半身が見える。

 金に困っていたと言っていたせいで、神父の脳内ではホームレスの様なイメージが出来上がっていたが、その姿は予想外だった。


「……続けなさい」


 神父は思うところはありながらも、話を進める事にした。


「もうしばらくしたら……多くの人間が、死にます。それを止めるのは、難しいです」

「………………」


 その発言を耳にした瞬間から、神父の口は開きっぱなしだった。

 悪魔と来て、お次は大量殺戮の予告。

 聖書の終末論でも、もう少し段階を踏んで新世界を作るだろう。


「私はそれの、手助けをしてしまいました。……許してくれとは言いません。ただ、罪悪感を少しでも軽くしたかったのです」

「……子羊よ。そんな事を言うんじゃありません。しかるべき場所に行き、全てを打ち明けるのです」


 神父はそう説得したが、返ってきたのは長い沈黙。

 十分程、微かな息遣いだけに耳を澄ませていたが、聞こえたのは男からの一方的な終了宣言だった。


「……神父様。私、いや、全ての人間にあれを止める事が出来ません。……もう、お終いです」


 言うだけ言うと、男は懺悔室から出て行った。

 隣の空間から人気が消えたのを察知すると、神父は懺悔室から飛び出した。

 既に教会内には、男の姿は無く半開きになった正面入口が、今しがた出て行ったことを物語っている。

 神父は重い足取りで入口を閉めに行き、それから振り返った。

 視線の先には、イエス・キリストが描かれたステンドグラスがある。それは三月の麗らかな日差しを受け、キリストに後光が射す形で煌めいていた。

 全人類の罪を救う為、自ら身代わりとなった男はその目で何を見たのか。

 神父は主を前にして、静かに十字を切った。



 トリニティ教会から出た男は、一番近い地下鉄駅に向かった。

 ブロードウェイの大通りにある駅なだけあって、ホームで電車を待つ人間は多い。

 男は虚ろな目を、そこかしこに向けた。

 髪を七三分けにしたサラリーマン。服をだらしなく着崩した若者。気怠そうに携帯に向かって話す中年女性。ガイドブック片手に、何かを話し合っている中国人。

 大抵の人物は、手元のスマートフォンなどに視線を注ぎ、数センチ隣にいる人物の事など気にも留めない。

 ある意味男には、それが唯一の救いだった。

 

『まもなく、電車が参ります。安全の為、白線の内側までお下がりください』


 そんなアナウンスが、ホームに響いた。

 英語でのアナウンスの後に、他の言語で同じ意味の言葉が流れる。

 ニューヨーク市、マンハッタン。

 アメリカ経済の中心地でもあり、多くの観光名所を抱える土地でもある。

 今日も、アメリカ人だけでなく数えきれないほどの外国人が、この街を行き来している。

 

「……お父さん、疲れちゃったよ」


 男はそう呟くと、ホーム内に侵入してきた電車の前に飛び出した。

 ホームドアなんて物は設備されてない。

 男の身体は、電車という巨大な質量によってバラバラになった。

 運転手が慌てて緊急ブレーキを作動させるが、時すでに遅し。

 確認するでもなく、男は線路上に無残な亡骸を晒していた。

 男が何を思い、何の罪を抱えて電車に飛び込んだのか。

 それを知る者も思いを馳せる者も、その場にはいなかった。

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