最終話 僕らの天使様

 僕の名前は世常智也。ごく普通の中学三年生。


 友達がいなくて根暗で自意識過剰で、少し前まで自我の一部が化け物だったという……それだけ。


 いつも通り、平凡で退屈な中学校生活を送っている。大それた事件なんて一度も無かった……ということにはなっていない。

 半年前の集団入院の件に関しては、誰も忘れてはいなかった。その間に公民館や近隣の他学校の校舎を借りて授業を受けていたのだから、が記憶を消すのにも無理があるのだろう。

 あの事件が明らかに怪奇現象であることは、大人も生徒もみな一様に認めていた。 

 目撃者によれば、学校中の鏡が割れた瞬間、「血を流していた」ように見えたらしい。……鏡の妖精にも、人間の血が通っていたのだろうか?

 ただ、警察が突入した時にはそんなものは一滴も見当たらなかったので、ただの幻覚だったのかもしれない。

 もっとも、警察の公式見解では「バイオテロ」と言うことになっているそうだ。 

 「先生」曰く、警察は怪異の存在を知っているらしいけれど、表向きは全力でこの事件の「犯人」を追っている。……そして、頃合いになったら迷宮入りさせるらしい。


 何はともあれ、凡人で凡才の筆頭であるこの僕は今日、学校一の秀才であり美しき聖女、白石優子にこんなことを言われた。


『――今日の放課後、屋上に来てくれない?大事な話があるんだ。』

 

 ……またしても、このパターン。

 まるで以前、僕が書店で帯のあらすじだけ読んで鼻で笑った三文小説(「ライトノベル」と言うらしい)のような展開だった。

 僕はとうぜん変な期待など一切せず、かといって疎ましく思うこともなく、諦めたような気持ちで優子さんに会いに行った。

 ……そう、今は優子さんと呼ばせてもらっている。本人の希望があったからだ。『そろそろ、名前で呼んでほしいな……なんかよそよそしいし』、と。

 確かに、よく考えてみれば異性の友達と下の名前で呼び合うことくらい普通のことだ。周りから変な目線で見られる可能性は、そこまで気にしなくていいかもしれない。


 ……少なくとももう、上条礼司に気兼ねすることは無い。なにせ彼は三日前から、あの飯島玲奈と付き合い始めたからだ。


 そのきっかけは、一部始終を物陰から覗いていた比嘉英二によって、公然の周知となっていた。――相変わらずクズだね。


 恋破れて放心状態の上条礼司は、部活動の帰りに雨宿りをしていた。そこに飯島玲奈が雨に降られながら駆け込んできた。上条が彼女をタオルで拭きながらたわいのない話をしている内に、ボディタッチをきっかけにお互いに欲情……ではなく、「良い感じ」の雰囲気になって、結果、上条の方からキスをした――らしい。

 僕としては全く興味のないニュースだったのだけれど、クラスの女子が休み時間に二度も大声で話してキーキーと喚いていたので、嫌でも詳細を知ることになった。あいつらは人様の恋愛を鑑賞物と間違えているようだ。礼儀の観念のかけらもないのか――まったく、クズ共が。


 ……それにしても、皮肉なものだ。飯島玲奈は意中の人を手に入れるために怪異と契約し、他人に呪いまでかけたというのに、結局それとは全く関係のない、ただの幸運で願いを叶えるとは。

 僕の脳裏に、彼女が振り返りざまにぺろりと舌を出す顔が浮かんだ。なんだろう、この何とも言えないオチは……。クズ、いや……これは「したたか」と評する方が正しいだろう。

 まあ、せいぜい仲良くやれるといいね、としか思わない。ちらりと見かけたところ、二人とも割と打ち解けて話していた。

 そう言えば、上条も片思い相手の優子さんを亜空間に閉じ込めようとしたのだった。表面的な性格は間反対でいながら、似たような方面でクズだったようだ。そう考えると、案外相性がいいのかもしれない。

 ……ついでに、飯島が上条から良い影響を受けて更生して欲しいものだけれど。


 ……ああ、あとそう言えば、朝比奈毓はどうなったんだろう。まだ苛められてるのかな……まあ、知ったところで、僕がどうにかできることじゃないけれど。


 そんな風に今日一日も、他人を心の中で散々こき下ろした学校一のクズで化け物で人殺しの世常智也は、喜びも悲しみも何も感じずに、命の恩人にして大親友の白石優子さんの前に立つ。


 僕は彼女のことを親友と呼ぶだなんて、おこがましいことをするつもりはなかったのだけれど、向こうからそう言われた上に、あれほど熱心に熱い言葉をかけられ更生を促されてしまった以上、どうしてもそう呼ばざるを得なかった。僕なんかにそんな感動を抱く資格があるかどうかすら、もはや怪しいけれど……。


**************************************


 またしても僕たちは、水たまりの脇で対峙する……この屋上、凸凹しすぎだ。蕁麻中学校は全体的に、校舎が古すぎる。

 優子さんはまず、今回の事件の振り返りと自己反省を述べた。


「――って感じで。私、いっぱい失敗しちゃって……。」

「優子さんが反省することなんてないよ……そもそも、全ての元凶は僕だ。」

 僕はもはや、躊躇うこともなく表情も変えずにそう言えるようになっていた。

 あの事件で、僕の傍観者気取りの余裕とクズどもに対する優越感は完全に粉々にされたのだ。入院中、あまりの絶望で不眠に陥ったが、優子さんがよく病室に遊びに来て、やたらと励ましてくれた。

「そう、みんなも、色んな失敗をしたんだよね。人間たちにも、色んな過ちがあった……それが積み重なって、あんなひどい事件になっちゃった。……智也君だけのせいじゃないよ。」

 自己反省の方を先に入れ、自然な流れで僕の失敗に言及するのは高度な気遣いだ。しかも全て本心で言っているのだろう。素晴らしい。


「――それにあの事件には『鏡の妖精』とは別に、本当に悪い奴が関わってた。」

「え……そんな奴、いたっけ。誰のこと?」

「それは、わかんないけど…………私たちはそいつを、『調整者』って呼んでる。」

 優子さんが、僕にはわからない世界の話をいろいろと教えてくれる。『悪魔』たちの暗躍、人類を家畜化するシステム――なるほど、興味深い。でも僕たち凡人には、一生縁が無さそうな話だった。


 あれ以来、僕の生活は表面上は何も変わっていないけれど、感情は以前にもまして平坦になった。

 他人の欠点は相変わらず批判し続けている……意識しなくても自然に考えてしまう。事実なのだからしょうがないだろ?

 その一方で、彼らに対する怒りや憎しみはすっかり消え去っていた。みんな自分と同じなのだと、そう思えるようになったからだろう。逆に言うと、自分がその対象にならない限りは、いくらでも侮蔑できたということだ……実に立派な「正義感」だね。

 でも意外なことに、ほとんど罪悪感は感じていなかった。……むしろ、みんなこれでいいんだと、そう思っている節がある。


『――あなたはっ、『良い人』!……!』


 だって、優子さんが、そう言うなら…………それを、受け入れるしかないではないか。


「――――世界を、救う?」

「うん。」

 一連の事件がらみの話は予想していたけれど、まさかそこまで大きな話につながるとは思わなかった。さすがだなぁ優子さんは、うん。心の中の僕は目を細め、背を向けて歩き去って行く。

 だが、彼女の話はそこで終わらなかった。

「だから……智也君にも、手伝って欲しいんだ。」

「……………………え?」

 僕は絶句した。

「今回、智也君の力は暴走して、大勢の人を傷つけてしまった……でも、その力は正しく使えば、もっとたくさんの人を助けることもできると思う。……だから、協力して欲しい。」

 優子さんは、僕に向かって手を差し出す。

 僕は、表情を動かさない。……迷い以外に、表出する感情が見当たらない。

「――お願い、あなたの力が、必要なの。」

「…………僕は、そんな風には考えられない。君が言う通り、僕が『良い人』だったとしても……人類を救おうとか、そんなヒーローみたいな志は、持てないよ。」

「ううん、できるよ、智也君なら。……私は、そう信じてる。」

 優子さんは僕の手を自分から取って、両手でぎゅっと握る。

 ああ、胸が詰まるってこういうことか……。僕はもう、逃げられなくなった。でも、彼女の言う通りにできるとも思えない。


 きっと僕は、彼女の『信じてる』とか『大丈夫だよ』と言う言葉をもっと聞きたかったのだろう。そのためなら、どこまででもついて行ったかもしれない。


 でも、何と言うかこの時……どこかに、違和感があった。


 優子さんは、僕のことを過大評価しすぎだった。


 と言うか、失敗談を美化しすぎだった。その先につながる未来は、自分と同じ夢でしかありえないとでも、言うように――


 僕は、そうじゃなくて、もっと何か、言ってもらいたいことが別にあるはずだった。もちろん、そんなぜいたくを求める資格は僕にはない。でも…………。


「智也君の中には、確かに悪い願いがあったかもしれない。……でもそれは、もうやっつけたんだよ。私たちは、悪魔の智也君を殺したんだよ!」

「っ…………。」


 何か、おかしい。


「今のあなたは、『天使』の智也君……だから大丈夫。今までと同じように、他の悪意とも戦えばいいだけ……そうすればあなたも、ヒーローになれるんだよ。」


 このひとの言っていることは、何か。


「……ねえ、優子さん。ちょっと聞いてもいいかな?」

「何?」


 僕はやんわりと優子さんの手を解き、ゴクリ、とつばを飲み込む。……落ち着けよ、怖いことなんて何もないはずだろう?


「鏡の妖精は、消滅したはずなんだけど……契約者達がさ、無気力、って言うのは違うけど……丸く、なったっていうか。」

 上条と飯島を見ればわかるように、以前のように無感動や不満足に取りつかれているという訳ではない。

 ただ、なんと言うのか――かなりの割合の生徒たち、つまりおそらく魂を無視に変えられていた面々が、一様に物腰が柔らかくなったのだ。お互いに陰口を言わず、争わず、思いやり合い、笑い合う――まるで、優子さんの真似でもしているかのように。新しいカップルも例外ではない。

 それはもう、不自然なくらいに――


「ああ、それはあれだね。先生が、みんなの魂をちょっと壊しちゃったからだよ。」

 優子さんは、何でもないことのように言う。

「…………それって、大丈夫なの?」

「ぜんぜん大丈夫だよ!皆の心から悪意とか敵意が消えたってことだから。見ればわかると思うけど、むしろ良いことだしね。それに、一時的なものだし!ちょっと残念だけどね……。」


『――私たちは、悪魔の智也君を殺したんだよ!』


 ……………………あ、ああぁっ…………!


 僕は違和感の正体に気づいた。


 不自然で、気味が悪いほど均質な性格の、人間たち。


 自分の感情を忘れ、リセットされたかのように新たな人間関係を、浅く広く、しかしどこか当惑気味に作り始めた人間たち。


 それを優子さんは、喜ばしいことだと思っている――彼女はそうとしか、思えない。


 優子さんは――最初から僕のことなんか、見ていない。

 人間が、見えていない。

 常に自分の世界に住む、自分にとって「都合の良い人」に話しかけ、彼らを助けているつもりでいる。


 そうか、そうか…………優子さん、君、ほんっとに…………!


 揺れる視界の中で、目の前の屈託のない笑顔が歪む。


「……そう、これってさ、智也君の力の、一つの正しい使い方なんじゃないかな、って思うんだ。」

「…………どういう、こと?」

 僕はすさまじく嫌な予感を抱きながらも、とぼけて尋ねる。

「えっと……具体的に実現可能かどうか、わかんないけどさ、例えば、智也君がみんなの悪意を一時的に取り出して、私がそれをやっつける、みたいな……でも、全人類に対してそれをやるのは、多分無理だよねぇ。先生曰く、効果は永続的じゃないらしいし。……でもでもっ、これって絶対役に立つと思うんだ!」

「…………あー、確かにそれは、いい考えだね…………。」


『――勝手に人の心を操るなんて許されない!』


 なるほどね……………………優子さん。


 君は…………君は、本当に。


 どこまでも、


 どこまでも……………………正しいよ。


 善と悪は、決して交わらない。


 そして、人間は


「で、それはあとで考えるとして、とにかく…………どう、私のお願い、聞いてくれる?」

 首をかしげ、若干の上目遣い。媚びているわけではない。これが彼女の素だ。素晴らしい、完璧すぎるプロポーズ――


 ……………………でも。


「――ごめん。僕にはやっぱり無理だ。」

「えっ…………。」


 優子さんは一瞬、実に悲しそうな顔をしたけれど――僕の顔を見て、言い返す気が失せたらしい。

「智也、くん…………怒ってる、の?」

「え、まさか……そんな訳ないよ!」


 顔が引き攣っているとしたら――それは、どういう感情なんだろうか。鏡に聞いてみないと。


 ――ゴメンナサイ、アナタノコトハ、ニンゲントシテミレマセン。


「でも、気持ちだけはありがたく受け取っておくよ。……これからも、君とは友達でいたい。」


 きっともう、会うことは無いだろうけれど。


 僕は笑った。笑ったはずだった。世常智也はこんなに素直に他人に対して好意を示せる人間だったのか、と思わせるような、朗らかな笑顔。


「う、うん。もちろん……。」

 優子さんは当惑しながら答えた。


 ああ、本当にありがとう優子さん。


 最早、すがすがしい気分だった。


 僕はようやく、人間を受け入れられるよ――――そして同時に、安心して絶望できる。


 ――オマエナンカニ、ナラナクテヨカッタヨ。


 水たまりの中のぼくの顔は、密かに彼女を嘲笑っていた。



 <完>

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