第46話 人間標本(11)
空穏が戦闘態勢に入ったのを見ると、鏡の妖精は慌てて優子の首に手をかける。
「動クナッ!コイツノ魂ヲ破壊スルゾ!」
空穏は少しも動揺せずに、武器を持って彼にとびかかっていく。
――どっちみち、そのつもりだろ?
「っ――!」
鏡の妖精は優子を掴んだまま素早く飛翔し、彼女の体を盾にしようとする。
空穏はさすがに急停止し、長刀を背後に下ろした。
「ハッ!オソインダヨオマッ、エ゛ッ…………!!」
嘲りの言葉は途中で途切れ、彼は空いている
「アガッ、アアアアァッ…………!」
首筋から激しい火花と蒸気が立つ。人質を取ったはずが、一瞬で命の危機にまで追い込まれていた。
鏡の妖精はやむを得ず優子を捨て、全ての腕で鞭を掴む……だが、手袋をつけた掌さえも、その黒鉄に触れると爛れ、力が入らなくなっていく。
空穏は床に倒れた結子には見向きもせず、地面を蹴った。左腕に鞭を吸い寄せながら回収しつつ、長刀で一直線に敵の腹を狙う。
「クッ、ソ…………!」
刃に貫かれる直前、彼の体はどろり、と融解して鉄のくびきを逃れた。
更に、廊下で立ち竦んでいった昆虫たちも同じように溶け始め、空中に寄せ集められていく。
反対側の廊下からも、黒い液体が津波のように流れ込んでくる。二十匹か、三十匹か…………いや、もはや数では数えられない。襲われた人たちの魂、全員分だろう。
だが、それらは空穏を襲うことは無く、ただ空中に漂う「彼」の元に、暗雲のように集まっていく。……そのどす黒い塊は上空に昇っていき、再び「
――なるほど、魂にそんな使い方があったとは。
攻撃が空ぶった空穏は、そのまま空中で身をひねって壁を石突で打ち、更に両足で蹴って反対側の壁に移る。
――もっとも、この世界で「魂」が持つ実体はあくまで一つの現れ方でしかなく、実際はこの空間全体が「彼」そのものなのだろう。ならば、建物自体から予想もつかない方法で攻撃されるかもしれない。
見えているものに囚われるな――空穏は、「色即是空」、と肝に銘じる。
額縁を蹴り、また反対側へ。そのまま高速のアスレチックを以て、わずか三秒間のうちに10メートルも上昇した。額縁の縁の上で下駄の歯が滑る時、音は一切立たない。
だが敵も敵で、彼の見事な軽業を待ってやることなどしない。翅の上で憎悪に燃える黒い目を見開き、ありったけの鱗粉の洗礼をお見舞いする。
「ギャハハハハハハハハッ……!」
だが、勝ち誇った高らかな笑いは、すぐにかき消される――空穏はいつのまにか、わずか五メートルの距離まで近づいていた。
「――ナンデッ、キカナインダヨォッ!?」
見れば、黒い鱗粉は確かに、彼の肩やスキンヘッドに降り注いでいる……だが、触れた傍からぱちぱちと爆ぜ、塵と化していた。
鏡の妖精が動揺した隙に空穏は左腕を伸ばし、鞭で敵の胴体を捕らえる。
「ガアァァッ!」
鏡の妖精は鞭から逃れようとしつつ懸命に翅を振って追撃するも、全く意味がない。そのまま重力に従って、空穏に引きずられるように落下していく。
鏡の妖精は再び液状化して脱出し、空穏は壁に長刀を突き立てて落下の勢いを殺す。地面に音もなく降り立ち、天気でも見ているかのような顔で上を見上げる。
「クソッ!毒ガ効カナイナラ……!」
鏡の妖精は四つの腕を胸の前でクロスして力む。するとたちまち手袋と袖を突き破って、茶色いカマキリの刃が現れた。鏡の妖精は急降下しながら、四つの刃をそれぞれ振りかざす。
「コレデドウッ――」 ――彼の腕は長刀と触れ合った瞬間、黒ずんでなまくらになった。
「ハアアアァァッ!!?」
鏡の妖精は怒り狂って鎌を振りまわすが、どれも同様に無力化される。
彼は腕を再構成し、更に腿節を継ぎ足して延長した。服の肩から先が破れ去り、毛だらけで筋線維が混じった歪な外骨格が露わになる。
空穏はその悍ましい変化に一瞥だけくれて、再び壁を駆け上がり始める。
鏡の妖精は約十メートルも上空から腕を振るい、空穏を刃で抱き込むように切り刻もうとする。だが、彼は相変わらず平然とアスレチックに勤しんでいる……疲れることを知らないかのように。
――果たして彼の背中に食い込んだ鎌は四つ共、バチッと言う電光と共に雲散霧消した。
「アアァァァッ!!!ナンナンダヨオマエェッ!」
掌から蜂の針を撃つ――長刀で全て捌かれる。
口から蟻酸を吐く――それは皮膚の上で揮発させられる。
腹から蝉の音波を放つ――平然と聞き流される。
「クソッ!クソクソクソオォッ……!」
鏡の妖精はやむを得ず攻撃を止め、距離を離すことに専念し始めた。こちらには無限の体力があるが、向こうは生身の人間だ。いつかは限界が来る。……その時になったら突き落としてやろう。
――だが、その魂胆は全て見透かされていた。
空穏は突然壁登りを中断し、両手で長刀を握って念を込める。鏡の妖精は何をする気か、と身構える。
先端の刃が青白く輝き出すと、空穏はそれを横なぎに大きく振りかぶり、周囲の壁をぐるりと切り裂いた。
「ッ……!?」
刃の厚みからは想像もつかないほどの、大きな亀裂が発生する。その向こう側にはどこかの青空が広がっていた。
その直後、鏡の妖精の周囲の壁の表面にノイズのようなものが走り、空間が靄のように揺らぎ始めた。あたかもあの亀裂のせいで、そこから上部が倒壊し始めたかのように。
空穏は壁かかった標本の額縁の配置パターンが、一定度上昇するごとに繰り返されていることに気づいていた。
空間属性とは言えども、怪異の力で無限の容積を作り出せるわけではない。すなわち、同じ空間を
従って彼は、向こうが勝手に二巡目以降の高さまで登ってくれるのを待ってから、そのループを破壊することにした。
つなぎ目が崩壊した「場所」に留まっていれば、空間の消滅に巻き込まれて死んでしまう。
――ゆえに、今の鏡の妖精に残された唯一の選択肢は、
「ッ~~~~!!!」
「…………さあ、降りて来なさい。坊や。」
――下に、降りること。
鏡の妖精はありったけの速度で空穏の脇をすり抜けようとする――だが、そんなことができる訳がない。
まず、あの忌まわしい鞭が飛んでくる。火の輪くぐりの如く回避しようとしたが、鞭は彼の落下よりも速く上半身を締め付け、翅の動きを封じる。
そこに再び飛び込んできた空穏は、今度こそ彼の腹に刃を突き立てた。
「ガハアッ……アッ、アァァ……!」
そのまま壁に磔にされた鏡の妖精は、液状化することもできずにもがき苦しむ。全身に電流が流れ、彼のありとあらゆる「力」を奪い去る。
空穏は片腕で体を持ち上げ、その長刀の上にひらりと飛び乗る。
「早くその少年から離れた方が良いのでは?」
空穏の言う通り、今やトモヤの体内には無数のヒビが広がり、鏡の妖精を――彼の「力」である部分を、完全に消し去ろうとしていた。
「――クソッ、オォォォ……!ウアアアアァァァァッ!!!」
鏡の妖精は絶叫し、体中から黒い絵の具をほとばしらせた。彼の体は徐々に溶け去り、七色と純粋な黒に分離した。
七色のグロテスクな肉は、赤色と肌色を中心に組成が再編され、ヒトのカタチになって落下していく――世常智也、まぎれもない人間として。
空穏は武器を掴み取りつつ、彼を抱きかかえた。長刀で壁を削りながら勢いを殺し、今や視線が届くようになった天井を見る。先ほど自分が作った亀裂は消えていた。
黒い塊はその天井に昇って行って張り付き、ぼこぼこと泡立ち始める。
「ア゛ァッ……ア゛ア゛ア゛アアアアアアァァァッッ…………!!!」
また何か仕掛けてくる――そう気づいた空穏は、地面にすかさず長刀を突き立てた。
すると彼の頭上に透明な膜のようなものが現れ、たちまち優子と智也を覆い隠した。膜の表面は周囲の標本たちを反射して映しながら、仄かな虹色を醸している。
膜の完成とわずかに前後して、黒い塊が弾けた。
その表面からありとあらゆる昆虫が湧き出し、落下し始めた。体表は真っ黒に染まっている。黒い甲虫、黒い蝶、黒い蝉――それらの脚は意思が無いかのようにひくひくと痙攣しているが、体中から生える棘は殺意そのものだった。
あたかもドクムシのバケツをひっくり返したかのように、どぼどぼと黒い悪意が降り注ぐ。優子達が下からその光景を見たら、恐怖で耐えられなかっただろう。
――死に物狂いの最後の抵抗、と言ったところか。
それらの攻撃は全てあっけなく、膜の上で爆ぜて蒸発していく。
ドバドバドバドバドバドバドバドバ…………!
「ギッ!」「ギイッ!」「ジジジッ!」「ギヤアァッ!」
肉の塊が叩きつけられる音と、虫けらたちの断末魔が響き続ける。空穏はその地獄絵図を黙って静観し続けた。
十秒、二十秒――と。黒い雨は降り注ぎ続けた。
二十三、二十四、二十五、二十六、二十七、二十八、二十九、三十、三十一…………
遂に黒い塊は、これ以上新たな質量を生み出すことができなくなった。
残った残滓をかき集め……何も作り出せず、原型である少年のカタチとなって、落下し始めた。
――アアァァッ!クソガアアァァァッ…………!
鏡の妖精は、完全に空穏のことを見くびっていた。
そもそも彼のような祓い屋の存在を知らなかった上、攻撃が全く通じない相手がいるなどと思いもよらなかった。自分の土俵である鏡の世界に入ってきた時点で、罠にかかったエサも同然だと思っていた。……だがそれは、単に自分で自分の逃げ道を奪う行為に過ぎなかった。
鱗粉が効かないと知った時点で上空に誘い出そうとなどせず、空間の裂け目から逃げ出すべきだったのだ。
だが彼は、自分が負けるなどとは夢にも思わない。
彼はあくまでヒトの観察者であり、審判者であり、支配者なのだから。
それは傲慢ではなかった。彼はそのような「自己」愛など、持ち合わせていない。ただ、人間を徹底的に嘲り、愉悦を求めるのみ。
しかし結局、そんな
故に、井の中の蛙、大海を知らず。
所詮、お山の大将――――
空穏が地面から長刀を引き抜くと、膜が消滅する。
黒い塊は地面に頭から落下し、したたかに打ち付けた。ぐしゃり、と潰れる歪な顔。
「――ごめんね、智也君。でもこの方が、君のためにもなるはずだ。」
「アッ、アァ…………?」
あふれ出す黒色をかき集め、何とかカタチを取り戻した左の複眼で彼が見たのは、正に今、自分の首に向かって振り下ろされんとする刃だった。
「ギャアァッ!マテッ……ヤメ、ロオオオォッ…………!!!」
バシュッ――と、泥の塊を切り裂いたにしては異様な音と共に、その首に青白い光が走った。
そして次の瞬間、彼の全身が硬化する。
首筋から全身に――そのカタチをなしていない歪な指先に至るまで、パキパキとヒビが広がっていく。
そして――――ガサリッ、と。
突然、柔らかいものが崩れるように、塵となって消えていった。
熱しすぎたガラスは溶け、汚い不純物を溜め込んで黒くなった挙句、砂に還っていく――
空穏は作業のように処刑を終え、瞑目してその塵を見おくった。
目をうっすらと開けた優子が、彼の方を見遣る。
「せん、せい……智也君、は…………。」
「解放されましたよ。全部終わった……お疲れ様、よく頑張ったね。」
「あぁ…………迷惑かけて、ごめんな、さい……。」
優子はそう言って再び目を閉じる。
――鏡の妖精の全身が崩壊した後、博物館の空間そのものにもヒビが入り始めた。
「――さあ、帰りましょう。」
優子と智也の体も、透き通って消えていくが、また向こう側で会える。
…………だがその後にまだ、様々な問題が控えているのだ。
空穏は這入ってきた時と同じ亀裂をくぐって、小さな標本の城を立ち去った。
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