第44話 人間標本(9)

「――智也君を、取り戻す!」

 優子がそう宣言したのを聞いて、智也は困惑した。胸を打たれたわけでもなく、ただただ困惑した――どうして、と。

「ゲェッ、ゲヘェッ…………!」

 那麻吾呂氏だったものは、断末魔にしては気の抜けた声をあげ、煙に紛れて消えていく。

「……………………白石、さん。」

 智也は躊躇いながらも、彼女の背中に呼び掛ける。

「……僕を…………僕は、君の敵じゃ、無いのかい?」

 優子は振り返って、その直ぐなまなざしで智也を見据える。智也はどうしても、目を逸らしてしまいたくなる。

「敵なんかじゃないよ……智也君は、私の大事な友達だよ。あいつらとは違う。」


 ――違うって、何が……?


 「あれ」は紛れもなく、智也自身の一部だと言うのに。他の契約者たちと同様、智也の心の醜い部分を忠実に写し取った、「もう一人の彼」だと言うのに。

「……僕が何を願ったのか、聞いただろ……僕に対して、怒ってるんだろ……?」

 智也はあくまで、その笑顔を疑ってかかる。それはただの気休めなのではないか。聖女が聖女らしくあるための、偽りの慈愛なのではないか、と。

「怒ってないよ、全く。だって――」


 ――彼女が最後まで言うより早く、その背後から白い蛾が飛びかかった。

「っ!白石さん!」

 優子は智也の声を聞いて、辛うじて振り返った。四本の腕が彼女の胴体に襲い掛かる――この距離で反撃できる手段は、限られている。優子の握りしめた拳に、鉄製の鞭が巻き付く。

「せいやっ!」

「キイッ!」

 みぞおちにパンチを食らった蛾は、口から透明な体液を吐きだして後方に吹っ飛ぶ。

「アァッ……イッ、イィッ!」

床に背中から落下して悶絶するその様は、異形の頭部さえ見なければ、むしろいたいけな少女そのものだった。だが、優子はその様を平然と見下ろし、続いて素早く周囲に視線を走らせる。

『ゲッゲッゲッゲッ…………!!!お取込み中失礼いたしマス!デスガ、此処で終わらせて差し上げる訳には参りマセン!』

 再び那麻吾呂氏の声が響くと共に、優子が割ったショーケースから、複数の昆虫たちが次々と歩み出てくる。

「逃げようっ!」

 狭い場所で複数体と戦うのは難しい。優子は智也の手を掴んで駆けだす。

『ゲッゲッゲッゲッ……逃げられる訳がないデショウ!』

 優子達は隣の部屋に入るが、そこでもショーケースの中で昆虫たちが動き出す。また隣の部屋へ、そのまた更に隣の部屋へ――彼らが通るそばから、次から次へとケースを割って、虫たちが這い出てくる。廊下にはありとあらゆる悲鳴と羽音が反響して重なり合い、逃げていく二人を責め立てる。

 斜めに折れ曲がった廊下を次々と渡り、複雑な位置関係の部屋を巡って行く。どの部屋もまったく同じ構造で、昆虫がいない場所などどこにもないかのようだった。どこまで行っても、出口のない無限の繰り返し。

 ……だが、あくまで契約者の数は有限だ。優子に引きずられる智也が息を切らし、そのすぐ背後までハチ男の鋭い針が迫って来た頃、ようやく二人は館内の違うブースに辿り着いた。

 そこは今までの部屋と違い、天井も高く体育館並みの広さがあった。碁盤目の経路の間にいくつもの標本箱が並んでいた。あるものは立てられ、ある者は寝かせられている。大小さまざまな標本たちの色鮮やかな四肢が、空間全体に広がる不自然に均等な白い光の中にくっきりと浮かんでいる。

 二人はそれぞれ箱の間を潜り抜け、廊下からなだれ込んでくる虫たちの動きをうかがう。

「――伏せて!」

 優子が平行に振った鞭は標本箱の上を通り抜け、箱の上で威嚇のポーズをとっていたハチとカマキリの首を刈り取る……というより、歪な断面を残して抉り取る。人間の血をまき散らして床に落ちる彼らを見て、優子は「しまった」、と言う顔をした。敵はあくまで人間の魂の一部分である以上、できるだけ傷つけたくはなかったのだが、こうも簡単に致命傷を加えられるとは……。

 だが、彼らの心配をしている暇はない。その後ろから続々と援軍が入ってきていた。高速で走り込んできたゴキブリの顔面を、優子の鞭が打ち据える。片方の触角がもげ、顔の半分が潰れる。その頭を踏み越えてバッタ男が踊り出し、その他の虫たちも部屋の左右にわらわらと広がっていく。

「オ、マエ……!イツモ、ユウトウセイデ、エラソウデ、ハッポウビジンデ……ナノニミンナニスカレテテ……デモホントハ、ミンナオマエナンカキライッ、ダイッキライ!」

チョウ女が甲高い声で叫び、羽を激しくはためかせる。その声に呼応するように、標本箱が次々と割れていく。

「オマエタチ、ユウトウセイドウシ、ナカヨクシンジャエ!」

 その合図と共に、箱の中から無数の蝶や蛾が飛び出してくる。あっという間に空中に広がった彼らは、優子の視界を奪い去っていく。

「っ…………!」

 優子は顔に飛びついて来ようとする彼らを、鞭で手早く捌く。その群れの中に突然、バッタ男が飛び込んできた。

「ペロペロサセロオォォッ……!」

 不意打ちに対し優子の反応は遅れる。しかし、バッタの首に鞭がひとりでに巻き付いて締め付けた。

「グエッ、エェェ……エ˝ッ!」

 優子は鞭を力いっぱい振りかぶり、バッタたちは甲虫達の群れの中に落下する。そして、ちょうどそこにいたカブトムシの角が、彼の背中に突き刺さった。鮮血が飛び散り、甲虫たちの小さな眼球を覆ってしまう。彼らは慌てふためいて自分の顔をぬぐおうとし、お互いに角をぶつけあってよろめいた。

 その間にも、蝶と蛾の群れは勢いを増している。優子たちは何も言い合わせず、一緒に次の廊下に駆け込んでいった。顔に鱗粉が降りかかり、涙目になる。

「……あんな人たち、私知ってたっけ?」

 優子はぶぜんとした顔で言う。彼女に対する同級生らの秘めた感情など、知る由もない。そもそもそこまでネガティブに想像を巡らすことさえない。……そう、人間関係に問題が起きそうだったら、全て彼女の「能力」で解決してしまえるのだから。

優子は今になって、そのことを強く後悔する。「能力」で感情を一時的に操れても、人の負の感情を永久に消せるわけではない。何が悪魔を生み出すのがわからないのだから、もっと気を回すべきだった。智也の自分に対する恐怖も、同じことではないか。

「――あっ!」

 優子は突然声をあげて、足を止める。

「優子さんっ!?」


 そうだ、彼らが人間の魂なら――


「――もうやめて!」

 優子は振り返ってそう叫ぶ。すると、本当に虫たちはぴたりと動くのをやめて、そのまま呆けたようになった。広い廊下の天井近くを、指揮系統の失われたチョウ達が気ままに通り抜けていく。


「っ、なんだ……!?」

「驚かせてごめんね……これが私の『能力』だよ。」

「能力……。」

「人の敵意とか、戦意を奪うこと。あの怪異たちには魂そのものじゃないから通じなかったけど、人間の魂なら通じるかな、って思って。……今まで黙ってて、ごめんね。」

 優子は走りながら、軽い調子で言った。


 これが、「能力」――彼女の、「異常」。


 二人はこれまでと違って、六角形のホールのような空間に出た。全面の壁を標本が入った額縁が埋め尽くしており、上を見上げるとその壁がどこまでも高く伸びていく。天井はもはや見えず、はるか遠くの額縁は、白い光に溶け込んで消え入るように見えた。先ほど自由の身になったチョウ達が、その空間を天高く登っていく。

 周囲にはいくつか扉があったが、優子が確かめたところ、全てカギがかかっていた。


「どうしよう……壊せばいいかな…………ていうか、そもそも物理的な方法で脱出できるのかな……?」

 智也はなにもアイデアを出さず、ただ黙っている。先ほどの優子の告白のことを、まだ考え続けていた。


……まさか今までの学校生活で、彼女はずっとあんな力を使い続けていたのか。

道理で、人間関係で「無敵」になる訳だ。それは決して、彼女の人格が優れているからなどではない。と言うより、改めて普通に考えれば、そんなことが不可能であるのはすぐわかることだろう。


 ――なんだよ……まるで詐欺じゃないか。


 智也の心に、再び優子に対する負の感情が湧き上がってくる。これまでのような劣等感によるものではない……むしろ言うなれば、これは「幻滅」だ。

 優子にとってそれは、後ろめたいことでも何でもないようだ。『人の心を操るなど許されない』などと叫んでいた彼女だったが、彼女自身がそれをするのは許されると言いう訳だ――自分が得をするためではなく、みんなの幸せのためだったのだから。

 だが彼女は気づいていないのだろう――それが結果的に、自分の自尊心をも守ることになってと。そう、彼女はそもそも劣等感など知らないで済むのだ。だから、妬みも嫉みを抱く他者を、堂々と非難できるのだ……何も、わかっていないから。

 小学生の時からずっとそうだった。相手の友達として、学級委員長として、「良い子」として――堂々と、朗々と、清く正しく美しく……!彼女の世界ではずっと、彼女だけが完全な正義のヒーローでいられるのだ……!

 なんて、なんて――


「――ナンテ卑怯ナンダロウ!」 

「っ……!!?」

 唐突に耳元で甲高い声を聴き、智也は振り返る。そこには、いつからそこに立っていたのか、那麻吾呂氏の姿があった。

「トクベツなチカラでヒトの心を操っテ、誰トモ争わないカンペキな聖人を演じ続けてたナンテ……!」

「っ!智也君から離れて!」

 優子は自分に対する中傷も耳に入れずに怒鳴った。

「トンデモナイ!ワタシは彼の本当のオトモダチなんデスヨ?『ボク』達ハ、白石優子のことが大っ嫌イ、ソウでショウ?ゲッ、ゲッ、ゲッ…………!」

 後ずさろうとする智也の肩を抱き、那麻吾呂氏は生臭い息を吐きかける。

「――アンナ奴、サッサとシハイしちゃおうヨ、ナァ?」

 智也は荒い息を繰り返す。


 ――違う、僕は……僕、は…………。


 智也は怪異の醜い顔を睨み、震える声で言った。

「僕、は……お前らと同じには、ならない……!」

『――イイヤ、ナルヨ。サイショカラソノハズダッタンダカラ。』

 那麻吾呂氏はぐにゃぐにゃと体を変形させ、智也の容姿をそっくりそのまま写し取る。さながら鏡のように、忠実に。しかし、瞳だけはぎょろりと歪んで膨れ上がった、悪魔のそれだった。

『――ホラ、オナジダロウ?』

「っ…………!」

 智也がひるんでいる間に、彼らの周囲の空中に無数の針が出現する。

「――智也君っ!危ない!」

 優子が叫んだ時には、もうそれらは二人の智也を仲良く貫いていた。

「あっ……う、ぁ…………!」

 智也は確かに、意識の深奥にが開いたのを感じた。その空洞は次第に広がっていき、智也の思考を、感情を、貫かれた痛みさえも奪っていく。

 そしてその開いた隙間に、どっと異質な何かが流れ込んでくる。真っ黒で、どろどろしていて、喉の奥を、粘膜を、心臓を犯されるような耐え難い生理的な不快感。だが同時に、とても慣れ親しんだ、懐かしいような、流れ込み、混ざり合うほどにそれが自分にとってあるべきものだとさえ思えるような、さながら血やリンパや排泄物のような、そんな何か――


「あぁア……アッ、ゐィッ、痛いッ、いだっ!イヒヒヒヒヒッ…………!」

 優子が遠くから自分を呼ぶ声が聞こえる。次第にその声も、水の底に沈んでいくように、くぐもって聞き取れなくなっていく。深い、不快な黒に溺れていく――


 外から見れば智也は文字通り、もう一人の智也と溶け合って、ぼこぼこと脈打つ白い塊の中に溺れていくところだった。

 優子は彼を引き戻そうとしたが、手を掴んだ瞬間に、その手すらも白い紙粘土に変わってしまった。攻撃を加える訳にもいかず、ただ、指をくわえて彼の「変身」を見ているしかない。


「ウヒヒヒッ!ゲッ、ゲッゲッゲエッ、アハ、アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハhahahahahahahahahahahahahahahahahahaha-Ha-HA!」


 仮面と本性……否、表の仮面と、裏の仮面。ふたつのトモヤが、一つになる。


 人間たちの裏面を引き受け、逆転し、表と交わったイメージの結晶。弱く、愚かな人間達の怨恨感情ルサンチマン


「――初めまして。あるいはいつも通り、こんにちは。僕の名前は、え~っと……『小さな皇帝スローエンペラー』、かな。――改めてよろしく、|お嬢さんユンゲダーメ。」


 優子への敵意と、悪意の権化――新たに生まれ変わった青年が、優子の前にその姿を現した。


—————―――――――—————―――――――—————―――――――――

 中学生たちのイメージから生まれた「彼」がドイツ語を話せるのか?とも思ってその案はボツにしようかとも思ったんですけれど、気障っぽくていいな、と思ったのでそのままにしました。襲われた教師の内だれかがドイツ語を知っていたのでしょう、多分。

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