第38話 人間標本(3)
同じころ。A組でも同様の喧騒の中、世常智也は一人で読書をしていた。
ライトノベル……ではなく生物学に関するいささか難解な本である。彼はライトノベルはもちろん、小説全般はめったに読まなかった。
以前は人間の内面が描かれた物語は多少は分析用の資料として役に立つこともあったが、わざわざ時間をかけて何冊も読むようなものではないと思っている。特に純文学は、「人間を美化した妄想」として侮っていた。
そんな彼の下にやってくるのは勿論いじめっ子たちではない。学年一の優等生、白石優子である。
「おはよう、智也君。」
「……おはよう、白石さん。」
「一昨日の夜の霧、すごかったよねー。」
「……僕は寝てたから、気づかなかったけど。」
智也は一昨日の夜見たはずの、奇妙な夢のことを思い出そうとする……だが、できなかった。
「なんか塊になってて、県内を結構長距離移動して、浄水場の上に降りて行ったんだって。不思議だよね~……。智也君、物理とか詳しいからわかる?」
「いや、物理よりも生物の方が好きかな。気象学は特に詳しい訳でもないし。」
「そうだよね~、その本も……あ、それ私も読んだことあるよ。面白いよね~。」
「ああ、そうだね。特に僕は猿人類の章が好きだな。」
「わかる!
「別に、神秘だとは思わないけど。単に人間の夢とか願望もしょせん、動物の欲望の延長だってわかるだけじゃないかな。」
「そうかなぁ……。」
このように意見が合わないこともあるが、こうした書評を交換して話し合うのが二人の楽しみだった。二人とも、何がきっかけなのかはよく覚えていないが、最近になってよく話すようになったのだ。
もちろん、智也は優子と話すことであまり注目を集めたくはない。
書評以外、特にお互いのプライベートのことについては極力話さないようにしていた。
優子はそんな智也の気性を理解して尊重してくれている。だから智也も居心地のいい距離感で接することができている……正直に言って、悪い気はしなかった。
もっとも、彼女が「友達」だとは思わないが。男女の友情の是非うんぬんではなく、彼はそもそも世の中にある友情はすべて虚妄だと思っている。
だが、優子は彼のことを友人だと思っているらしい。智也としては、他の人にそれを言われると困る、と冷や冷やしているのだが。
そしてそんな楽しげな二人の様子を廊下からそっと覗いているのは、上条礼二だった。
彼の虚ろな視線の先には、もはや智也はいない。ただ、優子が屈託のない笑顔だけが焼き付けられる。
彼はもはや、ほとんど確信していた……自分は、負けた、と。
優子が智也のことが好きだと思っているわけではない。そういう類の感情があの二人の間にないことはわかっている。
ただ……何と言えば良いのだろうか。優子が自分や他の人に対して笑いかける時は、よそよそしい……という訳ではなくもちろん純真な笑顔なのだが、どこか距離を感じる部分があった。
きっと、知性のレベルの差の問題なのだろう。向こうがこちらに、大人の態度でやんわりと受け入れられ、時には合わせてくれている……そんな感じがあった。
それでいて、善い意思や熱意は真正面から受け止めて称賛してくれる。だからこそ礼司は彼女のことが好きになったのだ。
だが、智也と話しているときはそれと訳が違う。あれこそ、「対等に話している」と言えるのだろう。
いつも彼らは同じ、どこか一段高い所から人間を見て評しているようだった。
礼司には、到底理解できない世界を見ている。本当に自分が関心のあることについて、本当に共感できる相手と話している、と言う様子なのだ。
むろん、礼司はそこまで言語化してわかっていたわけではないが、とにかくあの二人と自分の間に、来れられない壁を強く感じていたのだ。
不意に、智也がこちらの視線に気づいて目を向けてくる――いつも通りの、「僕にかまうな」と言うような冷たい目線で。
礼司は慌てて目を逸らす。なぜだかは知らないが、彼は智也に対してよくわからない恐怖のようなものを感じるのだった。……一方の智也も、「なんか怖がられるようなこと、したっけ?」と困惑しているのだが。
――やっぱり俺は、智也には勝てない……。
最近よく感じる突発的な無気力が侵入して来て、礼司は改めて諦念を抱く。そしてすごすごと自分の教室に帰っていく。
彼はもう、何かを求める熱意と言うものをすっかり失っていた。やはり大会で負けた影響を引きずっているのだろうか。
……だが、その状態は彼だけのものではなかった。学校中で何十人もの生徒が、ここ数週間で同様の無気力を経験していた。
例えば今、礼司とすれ違った少女、新庄心。
彼女は基本的に、楽しいと思い込めば何事も楽しめる性格だった。
いつも通り部活にもそれなりに取り組んでいるし、友人との遊行を楽しむこともできていた。全く興味のない友人のおしゃべりも、お互いの笑い声で飾り立て、耳障りのよいBGMにすればいいのだ。「面白きこともなき世を面白く」である。
しかも彼女は、自分がそう言ったことのすべてを本当に楽しんでいると本心から思っているのだった。
……だが、ここ最近になって突然、そうもいかなくなった。
何らかの楽しみのピークに達して強い満足感を覚えるか、覚えないかと言う時点で――例えば、さんざん悩んで一番気に入った服を買った、その瞬間に――すうっ、と、感情が消えていくのである。
途端に、今手に入れたものが全く価値のないもののように思えてくる。途端に、最初から何も欲しくなかったかのような、そして、これからも何も欲しいと思うことができなくなったかのような……。
――私、今まで何やってたんだろう。
隣で早苗が「存在しないはずの記憶」の怪談について何やらまくしたてているが、耳障り極まりない。
そう、存在しないと言えば、この前バスに撥ねられるか何かして長期入院となった恵美のことを思い出す。彼女が存在しないだけ、だいぶましかもしれない。思えば本当に今まで、自分は彼女の御機嫌取りばかりだったではないか。自分の笑顔はすべて、彼女の興を保つために捧げる生産物でしかなかったのだ。
――ああ、考えれば考えるほど嫌になってくる……なんで、今になってそんなこと……。
と言うか、なぜ今まで気づかなかったのだろう。
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その日、帰宅した優子は漠然とした不安に包まれていた。
やはり、気のせいではない……最近、皆の様子がおかしい、と。具体的にどんな属性の人が、というのはわからないが、学校全体がそういう雰囲気だった。
特に今日は、優子の所属する吹奏楽部の練習がひどいありさまだった。それも最初から不調者が多かったというのではなく、途中から失速したのだった。
優子がいつも通り部員たちを優しく励ますと、「ごめん、ちょっと今は、そういうこと言われると余計疲れるちゃう……。」などと言い返す者さえいた。普段は優子以上に熱心な彼女なのに。
――おかしい。何か……『何か』が?
おかしいのは、他人だけではない……自分もだ。「おかしいのは、『何か』のせいだ」と言う確信めいたものがあるのに、それがなにかわからない。何か、色々な出来事を忘れているような気がする。おそらく、「悪魔」に関わる何かを。
――先生に、訊いてみようかな。
そう思っていたところにちょうど、正にその先生から電話がかかってきた。
『――優子、聞きたいことがあるんだ。』
「何ですか?」
『……君は、学校で起きた一連の事件を覚えているかい?」
「事件……?ううん。」
『…………やっぱりか。』
優子はすぐさま、彼の言葉の意味を理解した。やはり、自分は何か忘れていたのだ。いや、「一連の事件」と言うほどだから、他の生徒たちもかかわっていたはずなのに、おそらく彼らも忘れているということだ。
そしてそれらのことを、ほかならぬ
「先生は、覚えてるんですね……?それって、先生の能力で霊の『能力』を防いだから、ですか。」
『……そうだね。』
「その霊って…………もしかして、『私たち』の同族ですか。……事件について忘れさせるって、そういう役目の『人』が、いるんですよね?」
『……その話は覚えてるんだ……………………ええ、おそらく、そうでしょう。』
空穏はいかにも仕方なく、と言った調子でそう言った。
『実は、私がその事件の解決を依頼されていたんだけれど、きょう実地調査の予定だったのに、なぜか学校が再開されていて、しかも問い合わせたら『そんなこと頼んでない』などと言われてしまってね……。」
「……それで、先生。これからどうするんですか?」
『……どうしようもないね。同胞の『後始末』が入ったということは、我々の敵はとっくにあちら側とつながっていて、お墨付きをもらっているということですから。』
「……『手を引く』って言うことですか?」
『……ああ。…………優子も、余計なことはしてはいけませんよ。もう、事件は起きていないことですし、あなたの行動でこれ以上状況を悪くすることはありません。』
空穏は柔らかい口調に厳しい調子を織り交ぜて優子をけん制する。
「……じゃあ、もし、次に事件が起きたら――」
『いけません。何もしないでください。』
空穏はぴしゃりと言い放った。
『……わかりましたね?』
「…………はい。」
優子は素直にそう答えたが、空穏はそれが本心でないことなど、わかり切っていた。
――いざとなったら……この子なら、やりかねないな。
空穏は心中でため息をつきながら、携帯を切った。
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