第39話 人間標本(4)

 昼休みに異性の友人を屋上に呼び出して二人きりになるなど、紛らわしくリスキーな行為を取るべきではない――智也は優子にそう言ってやりたかった。

 つい数か月前に礼司に同じことをされたばかりだ。智也が色々ととばっちりを受けるかもしれないではないか。

 もちろん彼女が自分に告白などするはずはないとわかっていたが、何か大事な話だろうとは思っていた。……なぜ水筒を持ってくる必要があるのかは、わからなかったが。


 智也は昨日の雨でできた水たまりを避けて、優子の傍に立つ。

 

 果たして優子が自分に告げたのは、「お守りの袋に入っている得体の知れない粉薬を飲め」と言うことだった。


 智也はとうぜん謹んでお断りしたが、優子に限って急に頭がおかしくなるとも考えられなかったので、理由を尋ねた。

「……落ち着いて聞いてね。この学校のみんなは、記憶を消されてる。」

「……え?」

「ついこの前あった重大な事件のことを、その犯人たちに忘れさせられてる。でも、私だけはこの薬を飲んで思い出したの。」

 詳しいことは割愛されたが、優子曰く智也は彼女はその犯人たちのことをよく知っていて、ついこの前まで彼らを捕らえようと二人で協力していたらしい。


 ――なんだよそれ。僕がそんなヒーロー紛いのことする訳……。


 智也は信じられない思いでいたが、優子の顔は真剣そのものだった。

「この学校で頼れるのは智也君しかいなくて……だから、思い出して欲しいの。そうしたら、巻き込むことになっちゃうけど…………お願い、どうしても必要なことなの……!」

 そのまっすぐな訴えるような目で言われてしまうと、さすがの智也もぐらりと揺さぶられる。本当に深刻そうな様子だった。

 こんな戯言に付き合うことは無いのだ……だが、他ならぬ白石優子のためなら、


 ……それになんだか、そのお守りには見覚えがある気がする。それを飲むことで、今朝から自分が何か知っているようで思い出せない、奇妙な感覚への答えが与えられるような気がしてならなかった。


 それは漠然とした不安。違和感。焦燥。

 知らないでおけば何も苦しむことは無い。だが、目を逸らしてはいけないような、自分と深くかかわっている、重大な問題。


 その答えを、智也は無意識に知ろうとしていたのだ。そして、知らなくてはいけなかった。


「…………じゃあ、まずちょっとだけ。毒見って言うか。」

 舌先が痺れるようだったら吐きだそう。そう思って智也はそれを口にする。……特に問題はなさそうだったので、恐る恐る嚥下する。


「……大丈夫、そうだね。」

 智也は優子が差し出したお守りを手に取って、中身を口の中に注ぐ。味はほとんどしないが、何やら生臭い匂いがする。水筒の水で流し込んだ。


 …………………………………………。

 …………………………………………。

 …………………………………………。


 ……何も、起きない?


 智也がいぶかしんだその次の瞬間、彼の全身を激しい電流のようなものが襲った。

「…………っ!?」

 智也はその場に崩れ落ちるようにして手をついた。右手と右足が水たまりに突っ込む。世界がひっくり返り、直視した太陽が目を眩ませる。

 全身の血が沸騰するような感覚と、激しい頭痛――そしてその頭蓋の中を、失われていた記憶が奔流となって駆け巡る。


「っ……………………!!!」

「もう大丈夫……?」

 優子が意外にも平然とした様子で手を差し伸べてくる。

 智也はその手を掴むことはせずに、自力で起き上がった。

「…………ああ、うん。多分、全部思い出したけど……何で、記憶が消えたのかは、思い出せない……。」

「それは、私もわかんない。でも明らかに、怪異の仕業だと思う。」

「そうだね…………で、今その怪異は特に姿を現したりしてない、よね?」

「うん……だからどうしようかな、って思って。」

「じゃあ……?」

 そもそも事件が起こらなければ、対処の仕様もない。と言うより――

「……思うんだけどさ、特に問題が起きてないなら、何もしなくてもいいんじゃないかな。皆、今まで起きた事件を忘れたってだけだし。これ以上処刑人が暴れないなら、それに越したことは無いし。」

 それはいい訳ではなく智也の本心だったが、それ以前になぜか、これ以上その問題を考えることに強い抵抗があった。

「それは駄目だよ。」

 優子は珍しく厳しい声で言った。

「またいつ暴れだすかわからないし……仮にもう二度と暴れないとしても、あいつは皆にしたことの報いを受けないといけない。」

 彼女は……一目見れば、怒っているのだとわかる顔をしていた。だが、それは単に「怒っている」等と言う言葉で表していいような感情を超えた何かだった

 ――義憤?覚悟? ……いや、敢えて言うならば、「殺意」だった。


 絶対に、裁いてやる。


 例え個人的な怒りが収まったとしても、これ以上何も悪くならないとわかっていようと、自分にその力と手段がなかったとしても。


「超常的な存在だからって、特別な力があるからなんて。そんな理由で好き勝手に人間を……自分より弱い人たちを傷つけていいはずない。そのまま誰にも裁かれることなく、むしろ被害者たちをひれ伏させて傲慢に、のうのうと生き延びるなんて……被害を受けた人たちの痛みなんて、考えもせずに……。そんなこと、私は絶対に許さないっ。」


 許さない。永遠に――――地獄に、堕ちろ。


 …………とでも言うような、そんな底の見えない真っ黒な殺意が、その幼く可愛らしい双眸に宿っていた。


 ――白石、さん。


 智也は圧倒されていた。その正義感には敬服の意を禁じ得ないし、もはや鳥肌が立つくらいだ。


 …………だが一方で、実に冷え切った感情があった。


 まさか彼女は知らないのだろうか?処刑人の手にかかった唯一の死者、つまり今回の事件で最も「被害者」である鬼瓦健司と言う人間がまさに、「自分は特別な力があるからと言う理由で、自分より弱い人間たちを傷つけ、横暴を働いていたクズ」であることを。


 他の被害者たちもそうだ。


 上条礼司に対する歪んだ支配欲のためにキューピットさんを利用し、恋敵達を永眠させようとした飯島玲奈は?


 そもそも彼女をくだらない理由で苛めてその歪んだ性格を助長した小島恵美達は?


 菅野元人たちも同じだ……そしてそもそも処刑人の生みの親である元凶、朝比奈毓こそ、「誰にも裁かれずのうのうと生きている」ではないか。


 その他、他人を出し抜き裏切り貶めて恨みを買って当然の報いを受けた「被害者」たち。或いは契約を防ぐため先回りして因縁のある者を攻撃し、また他の誰かから関係ない理由で復讐された契約者もいた。


 それらは因果応報――しかも、誰かひとりに責任を帰すことができない、巡り巡って縺れ合ったどうしようもない因果ではないか。

 善人など一人もいない。どいつもこいつもクズだ。人間共は所詮、クズで当然なのだ。智也はそう確信していた。


 だが結子のような例外的な者は、それが受け入れられないのだろうか。全員自分の「お友達」であるかのような架空の世界に生きているのだろうか。

 彼女は怪異のことを「悪魔」等と言い、いつも心の底から許せないという態度で立ち向かう。そして躊躇なくその命を刈り取る。あたかも解剖台の上の命のない肉を切り裂くように。

 その一方で、「弱くて善良な人間たち」は庇護対象とみなし、彼らのために自分の身を危険にさらして戦っている。

 …………彼女は我々凡人共に、性善説を押し付けているのだ。

 

 私以外は、皆弱いから。皆愚かだから。守らなければならない。特別な怪異の世界のことを知っている特別な力を持つ特別な人格者であるこの私が、守ってあげなくては――


 彼女は、そんな物語を生きているのではないか。


「……智也君、どうしたの?」

 優子が屈託ない様子で訊いてくる。

「……別に、なんでもないよ。」


 だから人間たちを見誤る。勝手に被害者の役割を押し付けて、醜い部分に蓋をしているのではないか――そんなものは全て、自分が戦いで打ち破ってやったのだ、とでも言うように。


 智也が、前からうすうすながら感じていたことだった。


「私、頑張って絶対、あいつを倒すよ。……その結果、もっとたくさんの敵と戦うことになっても。」


 ……だが一方で、彼女の絶対的なヒロインとしての姿に期待してしまう自分もいた。彼女なら、完全無欠の聖人君子であれば、人間たちの心の闇を裁き、文字通り破壊し断罪する資格があるのではないか、と。

 ただのお人よしなどではない。彼女は自分とかかわりのある範囲の中だけであるが、実によく人間関係を調整している。自分のできる限りの範囲で、本気で世界を平和にしようとしているようだった。

 それに、あの戦い方。素人目から見ても、何度も死線をくぐってきているは明らかだった。彼女は殺すことも殺されることも知っているのだ。きっと必要とあらば、人間に対しても――


 ……しかし、それは結局期待外れだったのだろう。


 智也はそのことについて敢えて何も言わない。そんなことを指摘する資格は、智也にはない。

 彼もまた、彼女より下の存在なのだから。他人を救うことなどできないし、する気にもなれない。鬼瓦の凶悪さも恵美の独裁も玲奈の歪さも全て具に観察し分析しながら何もせず傍観者に徹していたのだから。毓の苛めの詳細を鏡を通じて知っても何の同情も覚えなかったのだから。

 水たまりが揺らぎ、鏡像の智也の顔がぐにゃりと歪む。


「……それって、ほんとに大丈夫なの?記憶は戻ったけど、けっきょく僕は戦えないし、ただ見てるだけになるけど……。」

「ううん、それでいいの。見方がいるってだけで心強いし。……それに、智也君には勇気があるって知ってるから。いざとなったら頼りにしてるよ。」

「ああ、うん。ありがとう……。」


 ――わかったようなことを言うな。


 智也はいつも、ただの無責任な観察者だった。だから優子のおめでたい物語も好奇心で観戦する一方、ときどき自分がその脇役に慣れたような気がしてついいい気になって……。


 …………好奇心で、観察、するだけ?

 

 人間たちの、物語を。


 鏡を、通して…………。


 彼らの悪意が具現して、それを、優子が叩き潰す。


 そういう、カタルシス。


 それが、智也の、望み……………………?


 智也は何かに気づきそうだった。これが違和感の答えだ、と言う確信めいたものがあった。


 


 一昨日見た夢。


 なぜか考えたくなかった。優子に告げる気にならなかった。


 夢の中で、あの怪異が自分に言ったこと――



「……そう言えば今日って、なんかすごく静かだよね。」

「……え? ……ああ、確かに。まあ、事件が起きてないのはいいことだけど……」


「――うわああぁぁぁっ!」


 智也がそう言った正にその時、階下から静寂を突き破って悲鳴が響いた。

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