第37話 人間標本(2)

 月曜日。休日が恋しい中学生にとっては憂鬱な日。……特に毓のように、学校が好きでない者にとっては。

 教室では男子たちが戯れながら下品な冗談を言い合って笑っている。その輪の中でひときわ姦しいのは英二である。慎太郎は少し輪の外側から「馬鹿だろお前」などと言って薄笑いを浮かべている。

 その輪から離れたところで、女子たちはいくつかの二・三人のまとまりに分かれ、銘々が男子たちの声にかき消されぬようにこちらも甲高い声で喋っている。

 毓はそのすべてに対し耳を塞ぎ、ライトノベルを読もうとする。


 いつも通りの朝。


 …………何の異変もない。


 毓一人の、心中を除いて。


 毓はちらりと、少し離れたところにある元人の席を見る。彼は近所のちょっとした崖から落ちた怪我で、現在入院中だ。向こう二か月は戻ってこない。そのあいだ毓の学校生活は、そこそこストレスが減りそうだった。慎太郎と英二もいるが、授業中に視界に移るたびにずっと嫌らしい視線を向けて挑発してくる奴がいないだけでずっとましだ。その上、暴力をふるう時は彼が一番過激なのだ。

 そう、そんな害悪でしかない彼の不在は、本来喜ばしいことのはずだった。この上ない幸運……。

 だが毓はなぜか、心のどこかで激しい罪悪感を覚えていた。心、というより、頭のどこかにチリチリと引っかかるような感覚。他人の不幸を喜んでいる事への罪悪感ではない。そうではなく、なんというのか、もっと直接的な……まるで、自分が彼に怪我をさせでもしたかのような、そんな錯覚にさえ陥りそうだった。

 

 ――いや、錯覚じゃ、ない……?


 一度そう疑ってしまうと、本当にそうだったような気がしてきてしまった。毓はそんな意味不明な加害妄想を吹き飛ばそうと、本に集中しようとする。だが、どうにも「あるイメージ」が入り込んできてしまい、うまく行かない。それが、「これはただの妄想だ」と言う心の声を上回って毓を不安と焦燥に陥れる。

 そのイメージとは、自分が誰かをバットで滅多打ちにしている記憶だった。色濃く、鮮明な映像として。それだけでなく、うろ覚えだが確かに全身の感覚を伴っていた。その「自分」は本来の自分よりも体が軽く、本来の身体能力ではありえない力で、バットを振り回していた。

 その対象が誰であったかは、あまりはっきりしない。元人だったような気もするが、それ以上に強いイメージは……体育教諭の鬼瓦だった。


 血まみれ。


 頭が砕け、床一面に血が飛び散っている。


 自分のバットにもそれが付いている。


 …………そうだ。自分がやったのだ。自分が殴って、殴って……彼を、ころしたのだ。


 そんなはずはない、と理性の声が言う。自分はそんなことはしていないし、そんなことは覚えていない。

 確かに鬼瓦は死んだはずだ……だが、死因はただの事故か何かだったと聞いている。しかし、自分が彼を激しく憎んでいたことも事実だ。あのような凶行に及ぶことも、十分あり得るくらいには。

 …………そして、最初の方は確かに、彼を殴るのが気持ちよかったことも……覚えている。


 気が付くと毓は、両腕がぶるぶると震えていた。手の表面の脂汗が、本のページをじっとりと濡らしてしまっている。歯がカチカチと音を立てているのを周りに気づかれないよう、片手で口を抑える。


 ――何なんだよ、これ…………!


 ちょうど今、女子たちがひそひそと鬼瓦の死について噂していた。

「ていうか、あいつほんとにウザくてキモかったし、いなくなって良かったよね?」

「ねー。でもなんか集会で、告別式とかやるんだってよ。」

「ウッザッ!誰も悲しんでないっつーの!」


 ――やめろやめろやめろ…………!


 毓はぎゅっと目をつぶった。今すぐこのイメージに消えてほしかったが、駄目だった。考えないようにすればするほど、そのイメージは否定しようのないリアリティをもって反復される。


 ――俺が殺した、俺が殺した、俺が殺した…………!


 その様子に遠くから気づいた英二は、なぜか彼をからかう気にはなれなかった。なぜか彼は急に、彼に同情しなくてはいけない気がしたのだ。……だが、だからと言ってどんな言葉をかければいいかも、わからなかった。……今の彼は、明らかに異常だ。

 英二は激しく困惑しながらも、慎太郎たちの関心を集めないよう、そっと視線を逸らした。


 ――ごめんなさいっ、ごめんなさい……!


 毓は頭を抱え、息を荒げ、涙ぐみながら謝る……だが、その謝罪を受け取る相手はいない。


 存在しない事実について許してくれる者など、どこにもいない……ゆえに、毓が救われることは永久にないのだった。

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