第20話 青春の空(7)

「智也君、聞こえてる!?」


 その場にいる全員の視線が、一点に集まる――壁に掛かった、一枚の絵に。


 その向こう側で叫んでいるのは――白石優子だった。


 ――ああ、忘れてた。


 そうだった。まだ彼女という希望が残っていた。智也が諦めようと、彼女はこんな状況を絶対に許さない。


「智也君、どうしたの?」

「見ての通りだよ、捕まった!」

「……そこから出る方法、わかる!?」

「わからないけど……物理的にそっちと行き来することはできるみたいだ!でも優子さんは入って来ない方が良い!ここにいる全員が洗脳されてる!敵だ!」

「じゃあ、どうすれば――?」

「――おい、優子!」

 礼司が二人の会話に割り込んでくる。

「こいつの言うこと信じるな!俺は敵じゃない!こいつが、俺たちのこと閉じ込めたんだ!頼む!早く助けてっ!」

「はぁ!?」 

 智也は困惑した。まさかこいつが、ここまで堂々と嘘をつくとは。いつの間にやら、すっかり誠実さを投げ捨てたらしい。

「お前、優子さんもこっちに入れたいだけだろ……!?ていうかまさか……『恋人役』にでもするつもりか!?」

「っ……優子、こいつの言うこと聞くな!早く――」

「――ごめんね、礼司君。」

 優子が、心底申し訳なさそうに言った。

「私、智也君のこと信頼してるんだ。」


「…………そんな、なんで、こんなやつのこと……。」

 礼司は愕然とする。


「別に、礼司君が信頼できない訳じゃないよ。ただ、この状況だけから考えても、私がそっちに行かない方が良いと思う。――あと、『こんな奴』なんて言っちゃ駄目。智也君のことが嫌いだから、捕まえたの?」

「いや、そうじゃなくて――」

「ごめん、あとで聞かせてもらうから。」

 優子は礼司の弁明をさえぎる。

「……今のところ、物理的に絵を破壊するしか思いつかないんだけど。でも、それだと智也君たちがどうなるかわからないから……どう思う、智也君?」

「ぼくも同じ意見だよ。確かにリスクはあるけど……他にどうしようもない。やってみるしかないよ。」


 優子は、しばし瞑目して考える――そのあいだ、礼司がしきりにやめるように叫んでいるが、その反応がむしろ答え合わせになっているようにも見えた。


「……わかった、やってみる。」

 優子はそう言って、額縁の前から消える――次に戻ってきたときには、その手に彫刻刀が握られていた。


「やめろっ!優子!駄目だって!」

 礼司が慌てて額縁に駆け寄り、手を伸ばす――だがなぜか、彼の手は先ほどの様に絵の中には入れない。


「礼司君!とりあえず下がってて!危ないから――」

 ――優子がそう言った時、


「――ただでは終わらせないよ!」


 その声と共に部屋の四方八方から、絵の具の濁流が飛び出してきた。それらは寄り集まって渦となり、額縁の「外」をめがけて飛び出していく――


 優子は素早い動きで絵画から飛びのいた。彼女の視野の真正面に、実体化した「空」が降り立つ。


「――やれやれ、もう少し長く持つと思ったんだけどな……」

「どうやっても何も、みんなの様子がおかしいからだよ……それに、智也君もいないし。」

「いや、そうじゃなくて……君、どうやって『これ』に気づいたの?絵の見た目は適宜修正してたはずなんだけど。」

「学校中調べて、たまたま見つけたんだよ。」

「何日もかけて?」

「そう。」

「うわ、すごいね君……。」


 絵の中で聞いていた智也はふと、その会話に違和感を覚えた。


 ――『智也君も、いないし』……?


 自分の体だけは、そちら側で普通に生活しているのではないのか?


 それに、「空」の様子もどこかおかしかった。無駄な質問を繰り返し、いつまでたっても攻撃しようとしない。


「――とりあえず、そこどいてくれない?」

「ハハッ、聞くわけないでしょっ!」

 そう言って彼は右腕を突き出す――その掌の形が崩壊し、絵の具の奔流があふれ出す。

「えっ…………。」

 優子はなぜか一瞬戸惑ったが、同じように右の拳でそれを受け止める。「空」の「腕」は、ジュッ、という音を立てて凝固してしまった。


「――はぁっ!?なんだ、これ――」

 「空」が右手を引っ込めると、それは乾いたインクの様にボロリ、と崩れ去った。

「お前っ、何しやがった……!」


 ――説明してやる義理はない。

 そう言うかのように、優子は彼の顔面を殴りつけた。


「あぶぅっ!」

 先ほど同様、焼け焦げるような音と共に彼の顔面が崩壊する。


 智也が後ろから目を凝らすと、優子が右手に何か、銀色のアクセサリーのようなものを巻いていることに気づいた。


 優子は更に右手に彫刻刀を握りこみ、目にもとまらぬ速さで振るった。


 ブシャッ、という音を立てて、「空」の首が胴体から離れた――あたりに絵の具がびちゃびちゃと飛び散る。


 優子はその「返り血」を浴びながらも、眉一つひそめない。


 更に豪快な回し蹴りで、彼の体を弾き飛ばす。あまりに早かったので、礼司や智也に下着をさらすこともなかった……二人はあっけにとられている。


 ――あの人、武道でも習ってるのか?それにしたって、さっきの刃の使い方は……。

 

 素人の智也にも、よくわかった。  

   

   

         あまりにも、長けている――人体の破壊に。


「じゃあ、いくよ――!」


 優子は今度こそ絵に歩み寄り、彫刻刀を突き立てた――そして、引き下ろす。


「あ、ちょ、待っ――」


 礼司が間抜けな声をあげるが、もう遅い――額縁を中心に、彼のいる世界に、ヒビが入っていく。ビリビリと、不快な音を立てて。


 ヒビの向こう側から、眩い白光が差し込んできた。


 智也は目を閉じる。


「待って!やめて!頼むから!やめっ――」


 礼司の情けない叫び声が、段々くぐもって聞こえなくなっていく。


 ビリッ、ビリビリビリビリビリッ――!


 ――――世界は完全に敗れ去り、真っ白な虚空に散って行った。

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