第19話 青春の空(6)

 智也は突然、背後から胴体を捕らえられた。


「――逃げられたら困るよ、智也君。」


 後ろから、聞き覚えのない声が聞こえる。

 誰かに抱きかかえられたのかと思ったが、違った。これは人間の腕ではない――


「っ!!?」


 智也は勢いよく、教室の反対側に引っ張られていく。壁にたたきつけられ、そのままきつい力で押さえつけられた。一瞬、息が止まる。


「かはぁっ…………!」


 自分の腹部に見えたのは、グロテスクに七色が混ざり合った絵の具のような、紙粘土のような物質の塊だった。気が付けば、教室全体を同じ七色が埋め尽くし、カビや菌のコロニーのように広がっている。

 ――そして、教室の中央に立っていたのは。


「――全く、何が起きてるか気づいてもいないくせに、興味本位で絵に触ってくるなんて……面倒ごとに首を突っ込むのは、君のタイプじゃないはずだろ?」


「お前…………あの絵に宿った霊、みたいなやつ?」


 ――「少年」。あの肖像画に描かれた少年、そのものだった。


「いいや、別に?僕が生まれたのは二週間前とかそこらへん。この絵自体は、若いころの作者自身がモデルだけど……別に、僕を形作る想念が誰のものであろうと、どうだっていい。」


 「少年」の下半身は、ドロドロと溶けたようになっており、床に広がる虹色と連結している――あたかも、「世界という下地から生えてきた」かのようだった。


 気が付けば、教室中の全員の両足が、同じように地面につながっている。


「――僕の名前は、『くう』。誰でもあって、誰でもない。どこまでも広がる、みんなの夢と希望と情念の、底抜けの受け皿……そして、無意味で空しい虚無そのもの。ここでは、『個人』に意味なんてない。誰もが『想い』で一つになれる!」


 「くう」は演説の様に朗々と自己紹介する。


「世常智也君!厭世家気取りでひねくれた一人ぼっちの君も、この世界でなら楽しく生きていける!僕たち仲間が一緒だからね!さあ、君も『僕たち』の想いを享受したまえ!」

「……お断りだね。そういうの、勝手に押し付けるちゃ駄目だろ……生き方は人それぞれなんだから。」


 そう言いながら、智也は自分を拘束している虹色の塊を、引きはがそうと試みる――駄目だった。残念ながら、彫刻刀の入ったポケットはちょうど、塊の下に挟まっている。


 ――しくじった、クソ……!


「ちゃんと言い返したね……自己主張ができて、ガッツがあるのは良いことだ。……でも、周りのこともちゃんと考えないと……!協調性も大事なんだよ!それに、これは君自身のためでもあるんだ!みんなで頑張れば、やる気も成果も何倍にもなるし!」

「……お前、それ本気で言ってないだろ。何様のつもりで言ってんだよ。」


 くうはにやりと皮肉気に笑って答える。


「僕はただ、『みんな』の思いを代弁してるだけさ。特にこの、礼司くんのね。」


 礼司を初め「クラスメート」達は、黙って智也の方を見つめている。今、彼らに意識は無いのだろうか。


「彼が契約者ってことか……彼の望みは、友達をこの世界に連れてくることかい?」

「友達だけじゃないよ。この学校の全員が、みんな『仲間』さ。それに、彼だけが契約者じゃない。ここにいるみんながそうだ。これはみんなの願いなんだよ!」

 もっとも、実際はほぼ全員、半ば詐欺めいた誘導の仕方で契約を宣言させたのだが。


「さすがにそんなに大勢の人間が消えたら、警察が介入してくると思うけど。怪異の存在が知られても困らないのかい?」

「――誰も消えてないさ。現実の彼らは、普段通り変わらない学校生活を送ってるよ。多少元気がないかもしれないけどね。僕はただ、魂を支配してるだけ。」

「……学校全部を支配して、その後はどうするの?」

「どうもしないよーー契約が果たされ、僕の役目が終わる。それだけさ。」


 ――どういう意味だ?


 そもそも、怪異の究極的な目的が、よくわからない。

 コピー君も、怪異は契約した人間の魂を支配する、と言っていた。だが、その後どうなるかは、彼も知らないらしい。学生たちはこの学校を卒業し、社会の中に出ていく。――契約者たちは、どうなってしまうんだ?怪異たちの「役目が終わる」と、何か変わるのか?


「さて、もう質問攻めは終わりにしよう。どのみち君に選択肢はない。ここで僕たちを受け入れて、永遠の時を過ごすのさ!」

「……嫌だって言ってるだろ。」

「いうだけなら自由さ。でも、いつかは気が変わるよ……僕がこの学校全てを支配する時まで、猶予を与えてあげよう。」


 空は、智也に虚ろな視線を向ける。


「それでもイエスと言わないなら――君を、消す。」


 ――消すって、どうするんだ……?


 具体的な方法はわからないものの、そんなものはどうでもよかった。とにかく、自分がかなり追い詰められている、ということは確かだ。


「じゃあ、そういうことだから。引き続き、学校生活を楽しんでよ。」


 空はそう言い捨てて、地面に吸い込まれるように消えていく。


 ――ていうか実際これ、もうどうしようもないよな……。


 智也は冷静に、諦めを選択する。だが、かと言って彼らに「イエス」と言うつもりもなかった。こいつらの身勝手で歪んだ夢想の奴隷になるなどと、口が裂けても受け入れられない――つまり、プライドの問題だ。


「――なあ智也、黙ってないで何とか言えよ。」


 礼司が自我を持って、話し始めた。


「別に俺たち、お前のことが嫌いな訳じゃないって。お前、人と話すの苦手なタイプだろ……?ほら、あれだ。自信がないから、嫌われるの恐い、みたいな。だろ?」


 智也は答えない。呆れた目で、礼司のしたり顔を見つめ返す。


「自分から、周りのこと遠ざけてるんだろ!?でも俺達は、お前とも仲間になりたいんだ!お前がどんな奴でも、受け入れてやる!ここにいる皆がどんなに輝いてるか、お前も見ただろ……?お前もそんな風に変われるんだ……!ほら、勇気持って一歩踏み出してみろよ!」

「え~~~~~っとぉ、それは、何?無理やり言わされてるの?それとも本音……?もし後者だとしたら、ますます仲良くできる気がしないね。」

「……は?」


 智也は、余計なことだとわかりつつも、言い返さずにはいられなかった。


「君さ、色々それっぽいこと言ってはいるけど、それ全部自己欺瞞だってわかってるんだろ?今君がやってることは、現実で考えれば拉致監禁、洗脳、あるいはなんにせよ、自分の勝手な願いのために人の自由を奪う行為だ!そんなこと、許されるわけないだろ……?」

「……違う、そんなの…………現実のことなんて、もう関係ないだろ。」


 礼司は目を泳がせる。


「嘘だねっ、そんなこと思ってないはずだ。自分の胸に聞いてみろよ!よく『自分を誤魔化すのは嫌い』って言ってたじゃないか!その思いはどこに行っちゃったんだよ!」

「うるせえっ…………それとこれとは、ち、違うんだよ!」


 礼司は下を向いて叫ぶ。


「自分を誤魔化さないって、それは頑張るために必要な事だけど……もう頑張れなくなっちゃうなら……そんなの意味ないんだよっ…………だから、俺は……自分の今までの思いを、全部守るためには……もう、こうするしかないんだよ!」

「……………………いや、すごいね。うん。すごい聞こえがいい言い訳だよ……いやあ、君の真似して熱く説教でもしようかと思ったんだけどさ……もう駄目みたいだね、君。」

 智也は本気で感心していた。

「駄目って……なんだよ!」

「人間として、終わってるってこと。」

「っ…………!」

 智也はもう、失うものは何もない、という心境だった。せめて最後に、言いたいことを言うだけ言い放ってやる――そう決意した。この、目の前に立つ人間のすべてを、徹底的に断罪し、否定してやる。


「何が『仲間』で『青春』だよ?結局君が、美しく立派な自己像を守りたいだけじゃないか!そのために他の人間を勝手に脇役に仕立て上げて、お祭り気分に浸っていたいだけだろ……!ていうかもっと端的に言ってあげようか?今の君はさ、スポーツマンでもなんでもない――クズだよ、人間の屑っ!」

「――黙れ!勝手なこと言うな!」


 礼司は地面から足を引きはがし、智也につかみかかった。

「お前なんかに何がわかんだよっ!何も努力してないくせに!仲間もいないのに、一人で優等生ぶって周りのこと見下してるクズのくせに!そう!クズはお前だ!俺よりお前の方が……!」


 だが、その言葉は、智也には全く刺さらなかった。


「ああ、そうかもね。僕もクズ、君がそう思いたいなら、それでいいんじゃない……?で、つまり君は、僕よりは自分の方が優れているから、こういうことをしても許されるって訳?」

「っ…………!?」


 智也の襟をつかむ手が、緩む。


「別に僕は、君がクズだから殊更に非難してるんじゃい……ていうかさ、前提が違うよね。特定の誰かがクズ、なんてことはないよ。どれだけ人から褒められようが、華々しい成果をあげようが――人間はどいつもこいつも、クズばっかりさ。もちろん、この僕も例外じゃない。」

「………なんなんだよ、その考え方…………キモすぎだろっ、そんな、自分のことクズとか……お前、そんなこと考えてんのに、どうやって生きてるんだよ!それじゃ、生きてる意味ないじゃん……。」


 礼司は恐れるような目で、智也を見る。


「うん、無いよ?生きてる意味なんて。そもそも、それを見いだそうとすること自体が身勝手なプライドのなせる業さ……そうやって描いた自分の物語の中なら、クズじゃなくてヒーローになれるからね。僕が許せないのはその欺瞞だよ……!まして、それを他人にまで押し付けるのは間違ってる。道徳の授業では習わなかっただろうけど、当たり前のことだろ?」


「……………………。」


 礼司は憎々し気な顔で智也を睨むが、言い返す言葉はない。

 やがて、彼の襟をぱっと離して、立ち退いた。


「……じゃあもういい、クズでも……俺はもう、これでいいんだ。……お前も、そこで一人で勝手にやってろよ。」


「…………ああそう、自棄になったんだ。で、開き直るんだ……?そうかそうか、つまりそれが君の結論なんだね。よくわかったよ。――上条礼司はクズですって、そう宣言したわけだね。」


 智也は愉悦に満ちた表情を浮かべる。


「っ~~~~~!!!もうっ、何言っても無駄だかんな!お前はそこから、一生動けない!」


 悔しまぎれの言葉に対し、智也は敢えて何も言い返さない。


 彼はもう、この状況を悲観することすらなかった。むしろ、この上なく満足している。今までの人生でずっと願っていてできなかったことを、成し遂げられたのだから――実に、すがすがしい気分だった。


 このまま死んでも、悔いはない――


「――智也君!」


 ――不意に、自分を呼ぶ声が響いた。

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