第16話 青春の空(3)
小島恵美は廊下を早足で歩きながら息まいていた。後方には新庄心をはじめとする取り巻きが三名ついてきている。彼女たちは廊下の途中でとどまり、恵美だけが美術室に入っていく。
「…………礼司君、来たよ……?」
扉を開けると、部屋の中央に立つ礼司がこちらを振り返った――彼が恵美を呼び出したのだった。
これはつまり、ようやく自分の努力が報われたということだろう。恵美はほとんどそう決めつけていた。放課後に二人だけで会うなど、そういうことだとしか思えない。美術室と言うセッティングがよくわからないが。
「ああ……じゃあ、ちょっとこっち来て。」
「えぇ……?」
恵美はにやけを抑えながら、ゆっくりと部屋の中央に歩み寄る。まさか、もうキスまでするつもりだろうか。
礼司は無表情だった。普段の彼とは、まったく様子が違う。随分クールだった。彼も色気に目覚めて何か変化したのかもしれない。先月から彼はずっと落ち込んでいたので心配だったが、ここ数日はそういう訳でもなさそうだった。相変わらず上の空と言う調子で、何かずっと違うことを考えているようだったが、時折恵美の方に意味ありげな視線を向けていた気がする。……つまり、そういうことなのではないか。
恵美はそう、自分に都合よく解釈した。どのみち、言葉と感情を隠した礼司の考えなど、誰にも読み取ることはできない。そもそも彼の感性は、かなり独特なのだから。
「じゃ、あの絵の方向いて。」
礼司は淡白にそう指示しながら、恵美の肩を掴んで体の向きを変える。唐突なスキンシップに動揺しながら、恵美は尋ねる。
「え、なに、なに?」
「――今まで君、礼司……僕と一緒に、ずっと部活頑張って来たよね。」
礼司は恵美の耳元でささやく。ぞわり、とした感覚が背中を這い上り、恵美は顔を赤くする。
「う、うん……。」
「仲間と一緒に、心を一つにして頑張ろうって言ってさ……。」
「……うん、そう。私頑張ったでしょ……?負けちゃった、けど。女子のみんなもいつも、私が頑張ろうって言ったら、喜んでついてきてくれて……。」
恵美はいつも通りの礼司向けのプロパガンダじみた言葉を並べ立てる。
「そう、だったらすごくうれしいんだけど……。」
「……え?」
礼司の反応が、いつもと違った。今までだったら、「小島はすげぇよ!」と言ってべた褒めにしてくれたのだったが。
「正直さ……君、自分が勝つことしか考えてなかったよね?」
「…………っ!」
恵美が思わず振り返ると、そこには礼司の、暗い怨念に燃える瞳があった。
礼司は、恵美の正面に回り込みながらぶつぶつとつぶやく。
「知ってるよ……君、倉持が新記録出した時、後で怒ってたよね?その後あいつは、もう同じ記録を出すことは無かった。それどころかどんどん失速していった……君がさ、気に入らなかったから抑え込んだんだろ?」
礼司の冷たいささやき声は、今や違う意味で恵美の背筋を毛羽立たせていた。
「っ、違うよ。私関係ないって!」
「いつも女子部員で見せかけの仲良しばっかり演出しちゃってさぁ……僕……俺に対しての御機嫌取りのつもりだったのかな?そういうの俺、大嫌いなんだよね。」
「違う……誤解、だって……。」
嫌われたくない、という焦り以上に、恵美はなぜか自分の身の危険を感じて、言葉を絞り出していた。
「じゃあなんで、仲間の成長を素直に喜べないの?なんで、もっと我武者羅に上を目指さなかったの?お互いに高め合おうとせずに、人の悪い所ばっかり指摘して、自分が一番だって言い張ることに固執してたの?」
「……そんなこと」
「――スポーツマン失格だろうが!」
礼司が恵美の顔のすぐ近くで怒鳴る。恵美の顔に唾がかかった。恵美は耳を抑えながら、涙目になる。
「違う、違うの……。」
「僕は悲しいよっ!ずっと理想の仲間だって信じてたみんなの関係が、実際にはこんな欺瞞に満ちた歪なものだったなんて!傷ついた!本当に許せない!ああ、僕の、僕たちの青春はどこに行ってしまったんだ!」
劇的な表情で、陶酔するように叫ぶ礼司――明らかに、様子がおかしかった。劇的なのは前からそうなのだが、なんというのか……そう、どこか演技めいていた。だが、恵美はそこまで分析する余裕はない。それ以上に、今は弁解に努めなくてはいけなかった。
「ごめん…………お願いだから、嫌いにならないで……!」
この2年間で、女王が初めて他人に謝罪した瞬間だった。だが、プライドを折ってまで泣き落としを試みても、礼司の表情は動かない。
「僕だって嫌いになりたくないよ!君達と真剣に青春がしたかったんだ……!でももう、終わってしまう……。しかも君は、仲間との友情なんかどうでもいいと思ってる。だから、僕と君との友情も、もうここで終わりだ。」
「ま、待って、やだ!そんなの、違うじゃん……!ごめん、ほんとにごめん、和子に、みんなに謝るから、ほんとに――」
恵美は礼司に縋りつく。
「そんなんじゃ意味ないよ……礼司と仲良くするだけじゃ駄目だ。心を入れ替えないと、心の底から、もう一度みんなで一つにならないと!君にはそれができるかい!」
礼司は熱血コーチのごとく腰を落とし、両手を上に向けて、熱っぽく問う。
「え……何、どういう、こと……?」
「君はもう一度、
「…………???」
さすがに恵美も、素直に「はい」と答えていいのかどうか困る質問だった。……何を言っているのだ?
だがいずれにせよ、この場を切り抜けなくては。
「…………うん。礼司君が、そういうなら……。」
それを聞いて礼司は破顔する。
「――ああ、ありがとう。君ならそう言ってくれるって信じてたよ。……契約成立だ。」
そう言って礼司は、恵美の正面から立ち退く――恵美の視線の向こう側には、一枚の肖像画がかかっている。
――あれ、あれって……礼司君の、顔?
いつの間に、あんなものが描かれたのだろうか……というか、あそこには違う絵がかかっていたはずではないか?
そんなことを思っている間に、彼女の視線はもう、その絵から逸らせなくなっていた。
絵画の中の礼司が、にこりと笑いかけてくる。
――そして、顔の中央から、顔全体を巻き込んだ渦が巻き起こる。
「……まあ、どうせ本音で言ってないのは知ってるけどさ。……大丈夫、君もすぐにその気になるよ。」
恵美の意識は、段々と遠ざかっていく――
「――お帰り、恵美。」
最後の瞬間に、もうひとりの礼司の声が聞こえてきた。
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