第15話 青春の空(2)

 とある日の美術の授業にて。


 生徒たちは班ごとに机を囲んで版画を作成している。芸術に熱心な者はほとんどおらず、さっさと終わらせることだけを考えている。


 その中でも上条礼司は特に作業への熱意が無かった。普段であれば何事も全力で取り組むのだが、ここ一ヶ月に関してはもうそんな気概はすっかり失っていた。

 作業の手を止め、ぼんやりと天井を眺めている。今までの彼とのあまりの落差に、班のメンバーたちは気遣わし気な視線を向けるが、敢えて何が悩みか、などと聞く者はいない。原因は公然の周知だった。


 先月、夏休みに行われた全日本中学校通信陸上競技大会――蕁麻中学校のメンバーは、ほぼ全員予選で敗退した。そして裕樹本人も、決勝戦まで進んだもの、あえなく敗退した。

 常に熱血漢で努力家で、他のどのメンバーよりも勝利にこだわっていた彼も……そこが限界だった。確かに彼は、スポーツ漫画においては主人公にふさわしい「キャラ」だ――だが、それは競技の能力そのものとは別である。

 実は本人も、薄々感じてはいた――このペースで練習し成績を向上させていても、頭一つとびぬけるような成果は、残せないのではないか、と。だが、その不安を振り払い、お前ならできると自分に言い聞かせて練習に没頭していた。

 だが今になってみれば、それは美しい克己心などではなく、ただの現実からの逃げであったことを思い知らされる。


 当然、負けたこと自体もショックだったが、そこに尋常ではないほど深刻な燃えつきと、虚無感が加わった。なにせ、彼は今、部活動に彼の人生のほぼすべてを駆けていたのだ。命を燃やすつもりで取り組んでいたのだ。

 彼は、その点かなり特殊な人間である。単なる心構えと言うのではなく、文字通り全身全霊を駆けて努力してしまえるそれはもはや、病的なほどに。単なる一つの失敗による深い落胆、というのとは次元が違う。……端的に言って、彼は生きる意味を見失いかけていた。

 努力、仲間との友情、勝利――そうしたものが、急にただの幻想であったかのように感じられてきた。そして未来を見れば、そこにはあと一年で引退、という事実が立ちはだかっている。今まで自分が生きてきた物語が、次第に終わりが近づいて見えてきていた。


 ――俺って本当は、そんな大した奴じゃなかったんじゃないか?


 今更、そんなことを思うようにもなった。


 自分はただの、調子のいい奴だったのではないか、と。聞こえがいい精神主義のスローガンばかりを叫び、その特殊な性格をマスコットのごとくもてはやされて粋がっていただけで。

 前から気づいてはいたが、他の部員たちは、自分ほど高いモチベーションを有していない。自分のように、本気で命を燃やして共闘しよう、という意思が見られたことは無かった。自分は発破をかける役、あるいはムードメーカーでしかなかった。自分と同じ位置に立って目標を見つめている「仲間」等、誰もいなかった。


 そんな彼らは、来年になれば「名残惜しい」「さみしい」と言いながら、当然のように受験勉強に移行していく。自分もそうするしかないだろう。

 ……そして、その後は?自分は高校でも陸上を続けるのかもしれない。でも、その先は?結局、いつかは終わるのだろう。自分がプロの選手になる気などないこともわかっていた。


 そう、いつかは終わる。


 陸上と言う命題についてもそうだが、それ以上に――今、中学2年生のこの時間が、終わってしまう。


 仲間との日々が、揺るぎない自信をもって自分らしく生きることのできたあの時間が……終わってしまうのだ。


 祭りの後に残るのは、ただの空っぽの自分だけ。もう全能感もなく、やる気もなく、仲間との関係も変わってしまった、そんな上条礼司が。


「…………はぁ。」

 礼司が人前でため息をつくことなど、おそらく初めてではないだろうか。周りの友人たちは『うわっ、これ相当だな……。』『今更だけど、こいつ性格重いよな……フォローめんどくさいな……。』と思いつつも、顔も上げようとしない。気づかないふりをした。


 だが、今の彼に周りの様子など見えていない。


 ぼんやりと顔を正面に戻す――ちょうどその視線の先、壁の中央に一枚の肖像画があった。一人の、少年の顔だった。曰く、有名な卒業生の画家が寄贈した作品らしい。

 題名は簡潔に、「少年」。髪の毛はクシャクシャで、血色がよい少年。希望と闘志に瞳を輝かせ、口を堅く結んでいる。礼司は、少し前までの自分みたいだ、と思った。


 半ばあきらめ気味に、疎まし気にその顔を見つめる。


 少年はただ、その凛々しい視線をまっすぐに礼司に返す――彼を恥じ入らせようとするように、口を堅く結んだまま。

 

 ……そしてその口が、突然にやり、と笑った。


「…………え。」


 見間違いか、と思った次の瞬間にはもう、彼は捕らえられたかのように、その絵から目が離せなくなっていた。


 肖像画の顔は絵の具を混ぜたかのように、ぐにゃり、と歪んで変形し始める。


 礼司の視線が、意識が、その肌色の渦の中心に吸い込まれていく。


 やがて「少年」は、全く違う顔立ちに変貌を遂げた。


「…………お、れ……?」

 ひきつった声でそう言った直後、礼司の意識はぷつり、と途切れた。

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