第12話 キューピットさん(12)
2日後。
新たなキューピットさんの被害者は、もう出なくなった。曰く、優子が配ったお守りが何度か功を奏したという。
優子が「一連の事件はキューピットさんの仕業」という言説を広め、実際にお守りで矢を防いだ者たちがキューピットさんを視認したことで、奴の存在は女子たちの間で公然の周知となっていた。
最初はただの作り話ではないかと疑った者たちもいたが、今ではあの占いを行う者はさすがに誰もいない。儀式の最中に怪奇現象が起きたのは恵美たちの時だけだったが、まさにその恵美が攻撃を受けたことで、むしろその意味は明らかだった。
――これで、コピー君の営業成績も少しは回復するかな。
智也は帰宅の準備をしながら、ぼんやりとそんなことを思う。だが、さすがに傍観者気取りの彼も、危機感を覚え始めていた。ここまで騒ぎになった以上、学校の正常な運営に差し支えるのではないか。そうなったら面倒だ。
だがそう思いつつもどこかで、そうなって欲しいと思っている自分もいる気がした。
――なぜ?そんなこと、まったくナンセンスなのに。
日常が、壊れる。この無意味で退屈な日常が崩壊する。もちろん、くだらない人間がくだらない動機で起こしたことと考えると不愉快だ。……だが、もしその「犯人」が白日の下にさらされたら、どうだ。
このまま飯島玲奈の恋敵が次々と倒されていき、そしてやがて彼女が裕樹と交際を始めれば、女子たちは口に出さずとも気づくだろう。ならばそこで、彼女の「罪状」が暴かれ、キューピットさんが退治されたら?例えば、一連の怪奇事件に対して、どこかの研究機関や公的権力が介入して、怪異の存在が明らかに――。
もちろん、そんなことはほとんどあり得ない。それに、コピー君も困るだろうし。だが、なぜだかそれは愉快な想像だった。玲奈の心の闇を、公衆の面前で見える形で成敗する――そんなカタルシスは、智也の長年のフラストレーションを解放してくれそうだった。
廊下を歩いていた智也は、自分がうすら笑いを浮かべていることに気づき、慌てて仏頂面に戻る。誰かに見られたら気持ち悪がられてしまう。
実際のところ、智也はこの事件をそのような結末に導こうなどとは考えていなかった。さすがに無理がある。自分には怪異を倒すなどできないし、公に怪異の存在を明らかにしようものなら、社会がパニックに陥るだろう。
この事件を解決できるのはきっと、頼友優子、ただ一人。全てを彼女にゆだねるのが妥当だろう。
智也はけっきょく彼女に協力することにしたものの、たいしたことはできない。ただ、次の被害者になりそうな人間の様子を見ているだけだった。もし敵が現れたら……優子はどうするつもりなのだろう。倒す手段があるのだろうか。
だが少なくとも、敵の攻撃への対策は済んでいる。あのお守りがあれば攻撃が防げることは、もう何度も実証済みだ。
智也はいつも通り、放課後を図書室で過ごそうと特別室棟に向かった。
誰もいない連絡通路を渡り切った時――何か、違和感を感じた。
――誰も、いない?
さっきまで、周囲にいくらかは人の気配を感じていたのに。部活動のために特別室棟を通る人間もそれなりにいるはずなのに。人っ子一人いないなどと言う事は、今までなかったのに。
不自然なほどの静寂。教室棟からの足音も、人の声も聞こえない。
窓の外には透き通った青空。雲は全く動かない。風は全く吹いていないらしい。太陽の光にも、なんというのか、温かみが感じられない。温度がない。熱くも寒くもない。ただの、写真に撮ったような停止した光を観ているような――
胸騒ぎがする。何だ、この――
『――トモヤッ!逃ゲロッ!』
不意に、頭の中でコピー君の声がした。
「――え、何……。」
智也はそう言いかけて、声を途切れさせた
廊下の奥。美術室の扉から、白い彫像が出てきた。
……否、彫像などではないことはわかりきっていた。
彼(女)はこちらに視線を向け、明らかな怒りの表情を浮かべる。
「観念しなさい……所詮、あなたは私からは逃れることすらできない。」
そう言って、一瞬で弓に矢をつがえて放った。
――来やがった!なんで僕が……!?
一秒も間を開けずに矢が放たれる。智也は辛うじて、すぐそばの階段に逃げ込んだ。もちろん一階に下りる階段に、だ。上の方に追い詰められていくのは避けたい。開花ならば、建物の外に出る選択肢もある……だが、その後どうする?
智也は階段を駆け下りながら考える。
――外に出ても、狙いやすくなるだけじゃないか、クソッ……!
「――逃がしませんよ!」
「っ!?」
頭の上から、透き通った高い声と共に羽音のようなものが聞こえてくる。どうやらあの背中の羽は飾りではないらしい――しかも、どういう訳か狭い廊下でかなり速く飛べるらしい。
――まずいまずいまずい!
智也は運動不足の体を奮い立たせ、全速力で駆ける。逃げるしかない、だが、どこへ――
そうやって追い詰められた彼の目に映ったのは、理科準備室の開いている扉だった。今日は掃除の日だから開錠されているのだ。だからこそ、本来その部屋には掃除の係と監督役の教師がいるはずだったが、人影はない。
だが、今の智也はそんなことを考えている暇はなかった。その代わり、あることを思いついてしまった――自分でも、あまりに無茶で、馬鹿げていると思うような打開策を。
智也は深く考える余裕もなく、理科室に駆け込んでしまった。一瞬後悔しかける。
――いや、落ち着け。もう来てしまったものはしょうがない。
自分にそう言い聞かせ、すぐさま「それ」を決行することを決意し、扉を後ろ手に閉めた。先ほどは馬鹿げていると思ったが、現実的に十分実行可能で、効果も期待できるものだった。
――あの怪異の翼は本物だった、つまりあの体も……いや、仮に
扉に鍵はかかっていない。白い天使は当然、それを手で勢いよく開けながら侵入してきた。
ゆえに当然、彼の手は塞がっているため、弓矢は構えられないし、無防備である。
そして当然、開ける瞬間は智也の様子が見えていない。
それに対して部屋の奥で待機していた智也は、逃げ道はない代わりに、先手を打つ上ではこの上なく優位である。
「観念しなさっ……い゛!?」
智也は、手に持っていた薬品の瓶を、思い切り天使に向かって投げつけた。
天使は顔を覆おうとしたが、扉に手がかかったままだったので、間に合わない。
廊下を飛んできた勢いのまま、自分から前のめりに、攻撃に向かって顔面を突っ込ませていく。
ガシャンッ、という音と共に、彼の頭蓋の上でビンが割れる。中身の薬品が飛び散り、彼の顔面から白い蒸気が上がった。
「あ゛あ゛あああぁぁぁぁっ!!!」
天使はドロドロと溶けていく顔を抑え、絶叫する。本物の人体とは異なり、解けた顔の下も白い大理石のようだったが、痛みはあるらしい。
智也は机の下に伏せて薬品の飛散を避けていたが、絶叫を聴いてすぐさま二撃目に移る――何の躊躇もなく。
「死ねぇっ!」
頭部の崩壊が更に進むとともに、両腕が溶け始めた。
「ぐわぁっ!あ゛あっ!あ゛ああぁぁっ……!や、め……!」
ぼたぼたと床にまき散らされる白い液体から、ジュウジュウと音を立てて煙が上がる。智也は慌てて、換気をするために窓を開けた。
「お……前っ……!よく、よく、もぉっ……!」
天使はせめてもの反撃をしようというのか、ほとんど見えていない目で床に落ちた弓矢を探す。だが、両腕が溶けているため、もう二度とそれを持つことはできない。
続いて三本目、四本目――
「ギャアアアァァァァッッ……!!!おのれぇっ、おまえ、など……わたしは、わたし、こそがぁっ……!」
そううわごとのように言いながら、天使はよろよろと智也に背を向ける。その背中の羽は、もはや原形をとどめていない。
「――まだおみやげが残ってるよ!」
智也はその背後に、最後の一本を投げつける。
「あ゛ああぁぁぁっ!クソがっ、あぁァ…………!」
「アハハハハハッ!ざまあみろっ!」
智也は憎々し気に敗走していく天使を見て嘲笑う。
まさか、ここまでうまく行くとは思っていなかった。怪異との闘い――そう、大げさな力など必要などなかった。状況さえ揃っていれば、武器はそこら中にあるのだから。
智也は笑みが抑えられず、しょうがなかった。
何だこれは。今までに感じたことのないような高揚、達成感――!
だが、すぐに我に返る。そうだ、奴の後を追わなければ、と。まだとどめを刺したわけではないのだ。何をしでかすかわからない。
もう薬品棚に劇薬は残っていない。
それにしても、鍵をかけていないとは不用心なものだ。つくづくこの学校は不備が多い。だがそれが今回は自分の窮地を救った。
智也は部屋の外に駆け出し、周囲を見渡す。
――いた。
哀れなキューピットは廊下の端に向かって、壁に手をつきながら歩いていく。すれ違った生徒たちが悲鳴を上げた。さっきまで誰もいなかったのに、いつの間に集まったのだろうか。
智也の目の前では一人の男子生徒が、学ランの破れた肩を抑えて座り込んでいる。零れ落ちた液体が掛かったらしい。
「――おいっ!どうした!」
そう叫びながら、智也の背後の扉から男性教師が飛び出してくる……待て、どこから、だって?
智也は振り返ってぎょっとした。そこはたった今、自分とキューピットが出てきたところなのに。
――どうなってるんだ。
部屋の中を覗くと、掃除中の生徒たちが不安げにこっちを見ている。床に瓶の破片や薬品が散らばってもいない。あたかもさっきから、いつも通り何の異変もなく掃除が行われていたかのようだった。
……だがそんなことより、キューピットの方が問題だ。智也は彼の後を追おうかどうか迷う。
武器はもう持っていない。ここまでくればもう、教員たちに任せてもいいのではないか。どのみちもう、目撃されてしまったのだし。
――その時、誰かが家庭科室から飛び出してきて、キューピットの目の前に立ちはだかった。白石優子、その人である。
「っ、どけぇ……ゑ゛っ!」
キューピットは優子を押しのけようとする。
……彼女はその胸部に、包丁を深々と突き立てた。
「なっ……あ、あぁあ…………。」
キューピットは力なく、地面に倒れこんだ。
優子は全くの無表情で、その胸に刺さった凶器を引き抜いた。
そのハート型の文様から、赤い液体が噴水のようにほとばしる。人間の出血の仕方ではない。それはもろに優子の体に吹きかかるが、触れた瞬間から蒸気となって消えていく。お守りの効果だろうか。
それは彼にとっては血よりも、もっと重大な物のようだった。その液体が抜けていくにつれて、傷口から体全体に、無機質なヒビが広がっていく。
彼は仰向けのまま、ドロドロに溶けたグロテスクな眼球を智也の方に向ける。
「お、のれ……おまえの、せい、だ…………おまえ、のおぉ……!」
――知ったことか。
智也は心の中で冷たく返事をする。
遂にヒビは全身に広がり……キューピットの体は、音もなく粉々に砕け散った。
砕けたのは、あくまで表面だけ。……中身は、空っぽだった。
彼の破片は、テレビの画面が割れて映像が消えるように、空気に溶けて消えていった。
からん、とむなしい音を立てて、床に包丁が落下する。
廊下には、数秒間沈黙が下りた。その場にいる全員が、短い間に起きたあまりもの出来事に言葉を失っていた。
その中で最初に言葉を発したのは、優子だった。
「――はあ、怖かったぁ。」
彼女は急に泣き出しそうな顔になって、その場にへたり込む。
「…………だ、大丈夫か白石!?」
智也の背後にいた男性教師が、彼女の下に駆け寄る。
「あ、大丈夫です……私、家庭科室で掃除してたら、外にお化けがいるって聞いて、やっつけないとって思って……たまたま傍に包丁があったから、……うまく行ってよかったぁ。」
――……は?何言ってるんだ?
化け物が出たと聞いたから『やっつけないと』と思い、とっさに凶器を掴む――普通の女子中学生が、そんな思考回路になるわけがない。さすがに言い訳としては厳しいのではないか。智也は心配した。
いや、むしろ前から彼女の戦意を知っていた彼ですら、あまりにも物怖じしない彼女の様子に半ば気圧されてもいた。
その場にいる誰もが、同じ様に困惑していた……と思いきや、誰も戸惑う様子は見せなかった。同じく家庭科室にいた同級生たちが、優子を慰めようと周りに寄って来た。男性教師も、「恐かったよな、でももう大丈夫だ」と声をかける。何人かの生徒は、「あの子、すごいね」とささやき合っている。
その場の誰も、彼女の行動に対して疑問や恐怖を抱くことは無かったらしい。智也自身もいつの間にか、それが普通の感覚であるかのように感じ始めていた――だが、そんな自分に対して、どことなく違和感も感じていた……。
人だかりの中から優子は、智也に向かって微笑んで見せた。
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